トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

選挙遊説の自由と安全のバランス

「平和な日本でここまで(厳重な警備を)やらなければいけないのは残念な気もする」ちまたの声。一方で「昨年の安倍晋三元首相の事件、先週の岸田首相の事件を考えれば、このぐらいの警備は当然」事件があった和歌山市に再び入った岸田首相の演説会場では、金属探知機や手荷物検査が導導入され、警察犬も巡回するなど警備態勢が大幅に強化。数百人規模の警察官が警戒に当たり、聴衆からは「これほど厳しい警備とは」と驚きの声が漏れたという。周辺でも白バイ隊員や警察犬を連れた警察官らが巡回し、不審者に目を光らせた。

根本にある人を殺めたいと思わせる動機というか、その歪んだ背景はあるとして、相談出来る人はなかったのか。報道されている経過を見る限り他に方法があったにも関わらず、一番安易でリスクの高い、それでいて自分の利益も薄い方法を取っている。選挙制度に不満があったにしろ、裁判闘争ということを一方で選択もしながら、その一方では、テロ手段を躊躇なく実行。山上も木村も孤立した人間、恐らく、両者共に正常な判断力はできていない。共通項から見えてくるのは、その唯我独尊的な生命軽視のふてぶてしさだ。批判の対象の前首相も現首相も現状での我国が戦禍にまみれるかもしれないとの危機感で、必死の思いでそれを防ごうとしてその役割を少なくとも果たそうとされている。様々な見方はあるにしても、犯行者は首相のその生命を奪って何を得ようとしていたのだろうか。

岸田首相の場合は大事には至らなかったからいい様なものだけれど、結果、殺傷力のその後の分析から想定すれば、

首相を不満の相手に選んで、憎んだとしても

何も殺すことは無かったろうに。という事態もまかり間違えばあり得た。コメントをながめていると、テロを否定しつつも、気持ちは分かるとか、原因は政権側にあるとか、「仕方がない」とも読み取れる内容が結構ある。

恐ろしいことだ。テロや暴力で、現状を変えることはあってはならない。

意見が対立しても、実力行使で解決を図るなら、それは戦国時代と変わらない。迂遠だとしても、選挙によって現状を変えていかないと、結局は力がある者の言いなりになって、弱者が最大の被害を受ける。日本の何が酷いって「テロは許さないけど」と言いつつ堂々と、テロリストの理屈もわかるとか言っちゃうコメンテーターやらマスコミ。こんなもの達に負けるわけにはいかない。当然だろう。民主主義への冒涜。既存の政治家の所業こそ民主主義への冒涜。違うだろ。サイレントメディアと海外から揶揄されるような状況。首相襲撃容疑者、宇都宮健児氏に弁護依頼 爆発事件当日、署から電話。

ほんまですか。この情報。弁護士が来るまで話さない。

メディアの喜びそうな構図。犯罪心理学の研究者 木村容疑者に「能力の過信、自分を目立たせたい承認欲求」あったか 岸田首相襲撃事件。記事のタイトル。木村容疑者は山上被告と同じく、選挙を狙った事件を起こした。「既存政治家は統一教会の組織票で当選している」と選挙制度や現状の政治に対する不満を訴えていたという。

木村隆二容疑者が年齢などを理由に昨年7月の参院選に立候補できなかったのは憲法違反だとして、国家賠償請求訴訟を神戸地裁に起こし、棄却されていたことが18日分かった。そして安倍氏国葬を巡り世論の賛否が割れる中で岸田政権がそれを実施できたのも、こうした「制限選挙」の恩恵にあずかっているからだとの法廷での自説の展開。それまで合法的な活動で意見を発信しようとしていた木村容疑者が、今回のように暴力に打って出れば理想を実現できると飛躍したのも安倍銃撃事件がきっかけになったかもしれない。そういう側面では模倣犯

マスコミ、文化人、一部の反体制エセジャーナリストによる、当時の極端な主張に惑わされていたのかもしれない。国葬に関しても様々な見方、意見があっていいが、憲法学者でも、そこは、意見の分かれるところ。落ち着くところ行政権の判断に委ねるという見解が上回って、実施されたとみることもできる。

よって岸田首相の決断を特段、支持出来ない訳でもない。

テロ犯行者にとってはその様なことは、おかまいなしだ。心配なのは今後。選挙期間中に要人を狙うと社会の注目を集められるということが、山上被告と木村容疑者の犯行で印象づけられてしまった、さらに模倣犯が生まれる危険に備えなければならなくなった。犯行者の犯行にいたる経過を犯行者の心情に寄り添って極力見るならば、社会と断絶する中で自分は重要な存在だという思い込みを強め、自尊心を満たす手段の一つとして政治家を志した可能性がある。おしむらくは、それが、正しくすくいとられるコミュニティの実現目指すのも必要だろうが安易に暴力に訴えるような風潮だけははばまなければならない。