トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

スタートラインの起訴

発生当初からの、懸念、疑念。報道側での焦点もそこは、未だに、詰められたわけでもない。突きつけられたトゲのように、埋めがたい語る側の認識の微妙な差は、それぞれにあり続ける。事件の本質が置き去りになったまま、同情や擁護の動きだけが全面にくるのは良くはないのでは。

 

容疑者にどのような事情があったとしても事件の行為を正当化すべきではないだろう。汲むべき情状酌量の余地?腐敗を打破しようとしただと。そこで、的が、何故、安倍氏にならなけりゃならなかったのか。?そこの弁護側の論理的整合性は。論理に飛躍が?ありやなしや。

 

sns世代なら、不思議でもない

おかしくもない。遊説場所も検索可。

そんなに教団が憎けりゃ、

情報収集、その能動性を収集だけでなく、発信性に切り替えて、双方向のメリットを活かしてもっと教団をやり込めリゃ良かったものを。そういう意見さえ。

事件後、被害防止をする法律をつくるなど対策に乗り出した。容疑者に政治的な意図が直接的になかったとしても暴力で倒す行為は明確なテロではないか。事件後、ネット上で山上容疑者に同情し、擁護する書き込みが、広がっている。刑の軽減を求めるオンライン署名活動なんかがそれだ。テロを肯定することにつながりかねず、非常に危険な風潮に発展することを心配する。容疑者が英雄視されるような言説が広まって模倣犯が生まれることが無いことを願っている。

容疑者に政治的意図が有ろうがなかろうが、選挙期間中という時期に起こされた事件。そのことはどう影響として判決につながっていくのだろう。量刑を重くとらえる要素としては、長崎市長射殺事件の場合が浮かんでくる。最高裁無期懲役確定.一審の地裁では死刑判決だった。

 

今回の場合にも、周到に計画実行が形跡として伺われることでもあり、裁判でも刑事責任能力の有無が、争われるという可能性は低そうだ。

容疑者は、果たして

誰にも

相談出来ず孤立を深めていったのだろうか?

限りなくそれに、違いないのかも知れない。そうだとしても果たして人をあやめるのか。

それに、当初の標的、安倍ではなく。当初の標的の人は、メディアから、マイク向けられもしていない。向けられたのはそのひとではなかった。報道機関も政府の事だったら弱腰批判するけれど、首相会見、躍起になって求めるほど、教団のトップには、遠巻きにして、触れない。周囲から取材することはあっても、マイクかざされたという風な生の発言、聞いたことはない。一般の人から言わせれば、

究極の解決法は、と聞かれて、ある人は、問題がある宗教団体に入会する一世がまず誕生しないことと言っていた。

自分もそれに近いかなと。お布施の上限どうだこうだ、論じるのは、まったく邪道だろうし、それこそ、そんな事に蛮勇奮い出したら

不遜という概念は政治が神格化してきたときに起きる悪い夢でも見ている雰囲気、それに

近いかも知れない。税制から、ギスギス感、煽る議論も横目に、あんまり、宜しく議論がかわされてきたようにも思えないなあと。好ましく感じない。

そもそもの争点化が短絡的。