トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

よど号犯の妻・拉致被害者の教育係?

不明なこと、多すぎます。以下、流布されている中から、信頼できる事柄をよりわけて。

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【備考】

よど号犯の名前  事件時年齢   妻の名前   結婚年月   妻の経歴
田宮高麿 27歳 森順子 77年.5.1 強制連行で日本に行った朝鮮人の父と日本人の母の子として生まれた。父の遺骨を故国に返すべく来鮮
田中義三 22歳 水谷協子 77年.5.5 愛知大学在学中から北朝鮮にあこがれ来鮮
柴田泰弘 16歳 八尾 恵 77年.5.4 いろいろな仕事を転々として、渡航経歴も非常に多い。キム・ヨーチルに声を掛けられ、日本に潜入して佐藤恵子という名前で「夢見波」という店を開いているところを1988年5月、逮捕された。
小西隆裕 25歳 福井タカ子 76年 東大病院の看護婦で東大紛争の頃知り合う。75年10月、自分の意思で出国し北朝鮮渡航
吉田金太郎 20歳   死亡?   
若林盛亮 23歳 黒田佐喜子76 年 専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になり、ヨーロッパ経由で北朝鮮渡航
岡本武 24歳 福留貴美子76年 四国の高校を出て、東京の警備会社の警備員になるが、保母への転職を考える。モンゴル旅行に憧れ失踪。北朝鮮に拉致されたと見られる。岡本と共に死亡?土砂崩れというが不明。
赤木士郎 23歳 金子恵美子77 年 専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になる。ヨーロッパ経由で渡航
安部公博 22歳 魚本民子 76 年 高校の頃から学生運動に従事。プロレタリア学生同盟に入り、共労党の指示で来鮮。ピョンヤンで恋愛結婚。

 

テロリズムと国家による工作活動を単純に比較するのは妥当ではないかもしれない。だが、社会の中に巣食う「差別の構造」こそが、テロ組織や工作機関のリクルートを容易にし、敵対活動を広げる大きな原因になっていることは、認識しておかなければならない。

例えばISISなどテロ組織が拠点とする中東などから渡航してきた人間ではなく、欧米で生まれ育った若者が、過激思想に感化されてテロリストになることを指す「ホームグロウン」。


フランスやベルギーでは、国内で生まれ育ったイスラム系移民の二世、三世の若者がある日突然、イスラム過激派思想に染まり、シリアなどで訓練を受けてテロを引き起こすようになる。

彼らはたいてい、元は敬虔なイスラム教徒ではない。酒を飲み、モスクにも通わない、西側文化に染まっていたはずの素行不良の若者であったりする。


「人種差別や宗教的な疎外感が、欧米社会や文化への怒りに転嫁されていく。

彼らは泥棒や強盗といった小さな犯罪を犯し、刑務所という小さな社会に短期間滞在しているうちに、先住者(刑務所内の”先輩”犯罪者)によって過激派思想に洗脳される。刑務所から出て、シリアに行ってしまうのです。

彼らは『イスラム教徒を弾圧する者と闘う』という英雄心に基づいて行動するようになります。イスラム教の教義について学んだこともない若者のほうが過激化のスピードが速いのが特徴です」

単純にテロリズムと国家による工作活動を比較するのは妥当ではないかもしれないが核やミサイル問題によって、北朝鮮情勢が緊迫しているいまだからこそ、私たちはなおさら冷静な目を持つことが大切なのではないだろうか。

「差別社会」が日本への脅威を生み出す側面はやはり、あり続けている。

なかでも、北朝鮮「武闘工作部隊」日本人妻と子供たちが辿った残酷すぎる運命。

 

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1973年12月 に北朝鮮工作員と結婚した埼玉県上福岡市(現:ふじみ野市)在住の渡辺秀子が拉致され、工作員グループによって活動拠点だった朝鮮総連の金炳植第一副議長が設立した 東京都品川区 の貿易会社ユニバース・トレイディングの内部で工作員の男に絞め殺されるとともに、6歳の長女・敬美 と3歳の長男・剛 の2人が拉致され、1974年6月に北朝鮮に連行されたとされる事件。

 たびたび北海道に通っていたと、彼を知る元同僚は語る。

「北海道で自衛隊の人と接触していると聞いたことがありました。当時は在日朝鮮人自衛隊接触できる人などいなかった。若い頃にかかわりのあった、旧日本軍の関係者との人脈が続いていたのではないでしょうか」

出張を続けていた高が、北海道紋別市のスナックで働いていた渡辺秀子さんと出会ったのは、1961年のことだ。

客として店を訪れた高が、秀子さんに一目惚れして交際が始まったのだという。高は1927年生まれで、1941年生まれの秀子さんは14歳年下だった。1967年、高は秀子さんと結婚している。

「当時は民族主義一色で、高のような朝鮮総連の幹部、それも金炳植の側近が、スナック勤務の日本人女性と結婚するなんてあり得ないことだった。ロシア人女性と結婚して別れさせられた総連幹部もいたくらいです。

だが、高の場合は許されていた。特殊任務のための隠れ蓑に必要だという名目で特例扱いになったのだと思います」(総連関係者)
結婚後、秀子さんは高が住んでいた埼玉県内に転居。長女・敬美さんと長男・剛くんをもうけた。

周囲から見ると、秀子さんは子供をよくかわいがる母親。幸せな家庭に映っていた。だが高は、職場の朝鮮問題研究所では家族がいることすら語らなかったという。

「高は普段ガードが固く、何も喋らなかったけど、妻の秀子さんには自分が工作員であることを明かしていたのだろうか。

工作員は妻にすら自分の任務を明かしてはいけない。それを話していたと言うことは、秀子さんに本当に惚れていたのだろう」(高をよく知る人物)

しかし高は、1973年に忽然と姿を消す。本国に召還されたと考えられている。

本当に愛していたからこそ別れを告げられなかったのか、それとも日本の家族など簡単に切り捨てられたのか、それは分からない。

いずれにしても、残された秀子さんは愛する夫が消えた理由を知らなかったようだ。そして、最悪の選択をしてしまう。高を探し、五反田のユニバース社を訪ねたのだ。

秀子さんと二人の子供は、このユニバース社訪問の直後に行方不明となった。日本警察が、秀子さん母子失踪の実態解明に動いたのは34年後、2007年になってからだ。

秀子さん母子失踪に絡んで、国際手配された人物がいる。木下陽子(本名・洪寿恵)だ。

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陽子は1947年、在日韓国人の父親と日本人の母親の間に生まれた。韓国籍で、朝鮮総連とは関係を持たずに育った。琴をたしなみ、成績優秀。地元の一流高校から青山学院大学に進んだ。

ここで、もう一つの在日組織が登場する。陽子が参加した学生親睦団体だ。その団体を「留学同」、在日本朝鮮留学生同盟中央本部という。

1945年に設立された朝鮮総連傘下の団体で、日本の大学、短大に「留学」している「朝鮮同胞」の学生を集めて、団結や交流を深める親睦団体だ。各大学に朝鮮研究サークルの形で学生を所属させている。陽子は留学同を通じて、総連から奨学金も受けていた。

奨学金には(在日韓国人団体の)民団系と総連が共同でやっている朝鮮奨学会と、総連中央の教育会が出す奨学金があった。それまで総連と縁がなかった木下陽子が、なぜ総連中央のほうの奨学金を受けたのかは分からない。

こうした奨学金を受けて、留学同に入ると、総連の綱領を支持するよう教育され、総連の活動に従事することになる。北朝鮮の思想について勉強し、民族的に目覚めるようになるのだ」(総連関係者)

ある公安捜査官は私に、この留学同とかかわったことが陽子の人生を変えたという見解を語った。

朝鮮大学校の学生は、ほとんどが朝鮮籍だから世界をまたにかけた工作活動はやりづらい。留学同には、両親のどちらかが日本人だという学生が多く、日本籍や韓国籍の学生もいる。彼らは朝鮮籍の若者と違って、海外での工作活動に使いやすい。

北朝鮮の工作機関にとって、留学同は工作員となる若者をリクルートする絶好の場だと言っていいのかもしれない」(公安捜査員)

陽子は、ユニバース・トレイディングの設立時に役員として入社。このときには、琴をたしなんでいた、しとやかな優等生だった陽子の姿は、一変していた。

ビジネスの才能を発揮する辣腕。そこまではいい。だが、同僚たちは彼女を、暴力的で、キレると何をしでかすか分からないと恐れたという。工作員としての厳しい訓練と思想教育が人格まで変えていた。

陽子は高大基が本国に召還された後、ユニバース・トレイディングの業務と工作活動を取り仕切っていた。そこに夫を探す渡辺秀子さんが現れたのだ。

公安警察の捜査によれば、陽子らが下した決断は、あまりに残酷なものだった。

秀子さんの子供たち、敬美さん(当時6歳)と剛くん(当時3歳)は1974年6月に北朝鮮に拉致されたと考えられている。福井県小浜市の海岸から工作船で連れ去られたというのだ。

「当時は、日本に工作船で入ってきた工作員が、在日社会によく入ってきていた。私の同級生の家にも、本国から来た男が泊まっていたこともあった。

なかには、上陸地点を調査する補助工作員的なことをするヤツもいて、『俺はこんな仕事を請け負った』などと自慢する口の軽いのもいた。子供二人を工作船で連れ去ることなど簡単だったんです」(ある在日朝鮮人

秀子さん本人の行方は分かっておらず、木下陽子の命令で殺害され、遺体は海に遺棄されたとみられている。

陽子は1979年5月に日本を出国し、北朝鮮に渡ったとされる。

2007年の捜査で、警視庁公安部外事ニ課、通称「ソトニ」は、留学同の入る朝鮮出版会館などを家宅捜索した。だが、この時すでに、国内にいる多くの関係者の時効は成立しており、遅きに失した捜査だった。

朝鮮総連側は「総連と拉致事件を結び付ける世論操作である」などとして反発した。

この事件の関係者の中では、木下陽子だけでなく、子供たちを工作船に乗せて北朝鮮に連れて行った実行役とされる女性工作員(ユニバース社の社員)も短大時代、留学同に所属していた。父は在日朝鮮人、母は日本人だという。

「ユニバース社に在籍していた工作員十数名のほとんどは、父親が帰化朝鮮人もしくは在日朝鮮人だった。しかし、彼らは日本人の母親に育てられている。そこが最大のカギなんだ」(公安捜査員)

カギとは、どういう意味なのか。日本人の母親に育てられ、日本の学校教育を受けた若者が、留学同に参加してスカウトを受けたからといって、冷酷な北朝鮮工作員になってしまう理由とは、何なのだろうか。

事件の背景をよく知る、ある在日朝鮮人はその理由を私にこう語った。

「原因は差別が作り出す日本社会への憎しみです。

朝鮮民族の男性と結婚しようとした日本人女性は当時、親から勘当されたり、親戚づきあいを絶たれたりして、酷い目に遭った。子供は親や周囲から自然と、そんな話を聞いて育っている。

彼らが成長し、大学生になって、留学同のサークルで朝鮮の歴史を学ぶと、自分の中の民族性に火が付く。朝鮮民族のために人生を捧げたいと思うようになる。

差別を受けた者しか分からないが、疎外感を感じた者の反作用は激しいのです。北朝鮮の工作機関は、若者のそんな使命感を刺激して、利用してしまう」

 

 

2007年4月27日、外務省は北朝鮮に「拉致は重大な主権侵害」であると抗議するとともに2児の日本への帰国と、拉致を指示したとして国際手配している洪寿恵こと木下陽子容疑者の身柄引き渡しを求めた。申し入れに対しての北朝鮮側から回答はない。 なお、この事件で拉致された2児は、日本国籍を有さない特別永住者であることから、政府認定拉致被害者17名の中には含まれていない。


2008年6月5日に西村眞悟衆議院議員は内閣に渡辺秀子を始めとする北朝鮮拉致に関する質問主意書を提出して政府見解を求めている。河村たかし衆議院議員の質問により、公安調査庁朝鮮総連の傘下団体が拉致事件を引き起こしたと認識していることを明らかにしている。

 

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