トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

“ものづくり日本”の父、ヘンリー・ダイアー

TBSラジオで聴いてました。2016.12.9 金曜日の内容、よかったので、再検索。
 
明治時代に日本の工業の発展に貢献したヘンリー・ダイアーという御雇い外国人のこと。

日本政府はなんと、大臣より高い月給を、しかも24歳の大学を卒業したばかりの青年ダイアーに払っていたというのは驚きでした。

 


スコットランドと日本とのつながりは、幕末時代にさかのぼる。1863年(文久3年)、後に「長州ファイブ」として描かれる若き長州藩士5人が、海軍強化のための洋行計画を立てて密出国。彼らは、徳川幕府を倒そうとする薩摩・長州藩を支援していたジャーディン・マセソン商会の周旋で、ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアレクサンダー・ウィリアムソン教授の指導を受けた。そこから山尾庸三は1人でスコットランドグラスゴーへと向かい、造船所の職工として働くかたわら、アンダーソン・カレッジの夜学で学んだ。夜学で山尾と同窓だったヘンリー・ダイアーグラスゴー大学に進み、のちに来日して山尾の創設した工学寮の初代都検(教頭)を務めている。

 


19世紀のスコットランドは、教育制度において、イングランドをはるかに凌駕していた。イングランドにオックスフォードとケンブリッジの2大学しかない時代、スコットランドには既に1413年創立のセント・アンドリューズを始め、グラスゴーアバディーンエディンバラの4大学があった。1860年代において、高等教育を受ける人口がイングランドでは1300人に1人のところ、スコットランドでは140人に1人と、10倍近かった。特に1451年創立の名門グラスゴー大学は、学生の5人に1人が労働者階級出身で、貧しい農家の息子が大学教授になるなど、社会的流動性の低いイングランドでは考えられないような立身出世があった。またスコットランドでは実学教育が重んじられていたために、経済学者のアダム・スミスや技術者のジェームズ・ワットを輩出したグラスゴー大学は、まさに産業革命の原動力となっていた。


明治維新によって封建制が崩れ、殖産興業による近代化を急ぐ日本が、社会的流動性が高く実学教育を重んじるスコットランドの教育制度を取り入れ、高等教育機関の創設でグラスゴー大学を手本としたのは正解だった。グラスゴーで学んだ山尾の体験を原案とし、ダイアーの構想した教育課程を受け入れ、技術者養成を目指す工学寮が開校されたのである。ジャーディン・マセソン商会のヒュー・マセソンの従兄でグラスゴー大学の初代工学部教授であったルイス・ゴードンの助言もあり、スコットランドからは多くの技術者たちが、「お雇い外国人」として日本人の指導にやって来ている。

工部大学校の卒業生の多くが、グラスゴー大学を始めとするスコットランドに留学し、1914年に第一次大戦が勃発するまで、グラスゴーのダイアー邸ではいつも日本人が歓待されていた。


イギリスの大学というとオックスフォード大学ケンブリッジ大学を思い浮かべますが、当時、技術の分野で世界最高の大学は1451年に創設されたグラスゴー大学でした。文系では「国富論」を書いたアダム・スミスや、「金枝編」を書いたジェームズ・フレーザー、理系では蒸気機関の改良で名高いジェームズ・ワットや、アインシュタイン以前の最高の天才といわれるウィリアム・トムソンが卒業している名門です。ダイアーはその世界最高の大学(機械工学と土木工学)を主席で卒業したばかりで、突然、東洋の島国に行ってほしいといわれ、多分、複雑な心境だったと思いますが、恩師のウィリアム・ランキン教授の推薦で1873(明治6年)、8人の教授陣とともに日本に到着します。当時の平均寿命は現在より短かったといえ、大学を卒業した直後に発展途上国の大学を創って教育できたと考えると、大変な能力だったと思います。その分、給料は高額で、明治政府のナンバー2である右大臣の岩倉具視の月給が600円のときに、ダイアーの月給は660円。なかなか換算は難しいのですが、現在の金額では月給200万円、年俸2400万円程度ですから、いかに期待されていたかが分かります。

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大日本―技術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像

シェアしたいですね。この内容。

当時の日本論といっても、ちっとも古びてはいない明快な分析。

 

 

 

 

 

 

 

日本論ということでは
対比してみたい、
以前に読んだことのある、戴季陶の『日本論』。

興味深く読んだ記憶が。

お雇い外国人に関しては主体を失うことなく活用した日本への羨望の眼差しが伺えるとともに
母国中国の打算的、拝金主義の横行を憂えているところなどは着目した部分です。


日本に対する忠言も含まれながら記されているだけに戴季陶の
愛国の概念についてより深く考えさせられます。