息子とダブって自分も平成生まれの新世代に関心が向いてしまう。どこから、来たの?故郷は?。交わした挨拶から振り返っていることがある。表面はどんな顔にも化けられるカメレオンのような君。礼儀正しく、一方で冷めたというか、冷静なところ。
団塊の世代やバブル期を謳歌したおっさん達に囲まれていく彼。
ゆとり教育を受けた世代が社会に出て、結果をさとり、高望みしない世代という意味でさとり世代とも呼ぶらしい。言い得ている部分と、そうでない部分。そういう使われ方なら、少々の違和感。彼の場合は違うようだ。
ゆとり世代と呼ばれたくない胸の内を推し量っていく。君の本当のこころの孤独を。
新語のさとり世代を象徴するように、彼の目からも、見ている限り周囲の若者は無駄な努力や衝突を避け、過度に期待したり夢を持ったりせず、浪費をしないで合理的に行動するように一見、写っていく場合もあるらしい。
上昇思考より、小さな幸せ。しかし、君はそれらに一番危惧していることもわかるのだ。小さく地元でまとまる危険を。地味で堅実なように聞こえることが事実は危うきことを。大海を知らず井の中の蛙に留まることの薄っぺらさの危険を。君は同世代にもっと警告しておきたかったのかもしれない。
グローバル経済下の流れは地域の隅々にも影響を与えていくものでもあることを。経済の脆さはじぶんのことだけかまけていればいいというミーイズムを、どこまでも擁護しては、くれないものでもあることを。
そして、その一方で君は同世代を庇うような発言もしている。
物心ついたときにはバブルが崩壊し、不況しか知らなかった同世代のこと。お金が無いから分相応にしていただけのことがそれほど魅力に欠けることなのかという怒り。
あたかも不景気により、不自由を悟らざるを得なかった世代がそこにいるように。
結果のわかっていることに手を出さない。
「車やブランド品に興味がない」「欲がなく、ほどほどで満足する」「恋愛に淡泊だ」欲がないとは、よく言ってくれるよ、世間というやつは、と。
お金がないとシンプル合理的になるのは当然のことだったはず。
奨学金も毎年、返していかなくちゃならない。親に負担はあまりかけたくない。そうさ、本当のところの君の胸の内。
(研究者も非正規雇用なのだという)社会へでてからの現実感からの一言。
事業仕分け、あやうい政治ショー。バッシング。加えて地方行政の統廃合問題。あおりをくったような予算見直しと削減、削減されてそれはよかったのか。そもそも、その科学研究予算削減は間違いではなかったのかとの、反発と憂い。
知ることはなかった。君の本当のこころの孤独を。
今の君はヘッドハンティングの誘いがあっても、推薦のおかげもあった今の職場のことだからと教授の顔を立てて残ることにしたという、なかなか古風なところのある、君でもあることよ。
他の世代から生存競争の厳しさを言うけれど、全体が右肩上がりの、いい時代の恩恵を味わっている世代からの指摘は彼には響かない。
教科書改訂なんかで、歴史の認識がどうなるともおもっちゃいない。教科書そのものが一つの物差しとみるだけなんだから。
ゆとり教育の世代と冠されて、その後に勝手にゆとり教育の弊害を語られたって、まったく彼にとっちゃあ、勝手な世の中であることよ。
モノより、思い出。共感できる物事を絆いでゆく。生き方。
「団塊世代」も「バブル世代」も、 自分らの世代の方が優れてるってみんな勘違いしすぎている場合だってある。
いずれの世代も、そのような優先順位で、もっと共感することがあるのではないかと、ふと空を仰ぐ。