トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

「四海波静」と御聖断の御心

あのときの様々な世間の反応。

耳を傾けていた。

何故宝島社が?

 

ひさしぶりにキャッチーな新聞広告をみた。

 

赤いコロナウィルス構造図を日の丸に見立てている訳か

共同通信 <これ、日の丸をデスってるのか?日の丸は政府のものじゃなく国民のものだぞ!

やっちまったな宝島社。

これは超えてはいけない一線を超えてるぜ。そういう声も。

別の新聞記事のことも覚えている。日経新聞の2021年8月14日過去に親しんだこの人の詩のことが。戦争責任を明確に発言しなかった天皇会見をわざわざ詩に。憤りを込めて。詩に謳っている部分。これが「四海波静」だ。

問題の背景をたどる。

昭和50年(19751031日、初の訪米からの帰国直後の記者会見で、いわゆる「戦争責任」について天皇は問われている。それに対して発言はこう。

(そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。)だから彼女にとってはそれは木で鼻を括ったような発言に感じたのであろう。茨木のり子という詩人の迫力と怖いところは天皇発言をめぐって傍観者的でいることを自身が許さず

即座に反応して詩にしてその気持ちを公に発表してしまうこういうところなのだ。

茨木さんは15歳で日米開戦を、19歳で終戦をむかえた。そのことは踏まえておかなければ。その他「わたしが一番きれいだったとき 」という作品に目をとおす。わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 

 

わたしが一番きれいだったとき

ラジオからはジャズが溢れた

禁煙を破ったときのようにくらくらしながら

わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしはとてもふしあわせ

わたしはとてもとんちんかん

わたしはめっぽうさびしかった

 

自分の受け止め方では茨木さんの抱く歴史観は多分自分とは相容れない部分もあるのだが。(どちらかといえば彼女のほうが左傾にみえるのだ。)

だけれども前世代にある様々な抱いたであろう共通の事象がある。自分の母親世代にそれをみている。

激烈な批判の詩、発表されたという詩誌『ユリイカ』。検索して発表された茨木のり子の詩のタイトル「四海波静」に思念の思いを重ねゆく。

自分としては、すこしく新保守のほうがしっくりくるという側面もあったので、敬遠するむきもあったのだが、その時はこの詩と格闘してみようという雰囲気なのだ。

並行するように戦後レジームからの脱却をしなければというフレーズも巻き起こっていた頃のことを振り返っている。

また、そういった問題意識をよびさます詩でもある。

彼女の作品をどんどんたぐり始めてみると、好みを選ぶなら次の作品なんかのほうがこころに留まるのだ。自分はこちらの方が好き。

「自分の感受性くらい」という作品

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

 

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

 

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

 

これは空疎な言葉が飛び交いがちな現代にあってこれは心に届く言葉だと。決して人様に言っている言葉ではない。彼女が自身にむかって

言い聞かせている詩であることもわかるのだ。平易な言葉で詩を綴るのは逆にものすごく難しい。それを茨木さんはやったのだと。真摯に生きようとする人びとに届く

言葉。多分、茨木さんは徒党をくんでなにかをという人ではなかったろうし、そういうのを嫌っていただろうと。

自分にとってはこちらの詩のほうがずしりとくるのだ。

あらためて『ユリイカ』掲載の茨木のり子の詩の「四海波静」後段部分に思念はもどる。

戦争責任を問われて

 その人は言った _の続きの部分だ。

 

 三歳の童子だって笑い出すだろう

 文学研究果たさねば あばばばばとも言えないとしたら

 四つの島

 笑(えら)ぎに笑ぎて どよもすか

 三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

 

茨木のり子は先の戦争に対する天皇の正面からの発言がなかったことより、むしろ誰一人として言葉のアヤとか研究していないので言えないとかの、それらのいいまわしに表面切って指弾も嘲笑もしない世間の風潮に

憤ってこれを書いていることはわかるのだ。

きわめて異例の率直さで、勇気のある発言であることよと。ちなみに松本健一の「畏るべき昭和天皇」のなかにも同種の反応、対応した知識人をとりあげている。

三島由紀夫のことだ。エピソードがふんだんに出てくる。

そこには茨木のり子同様に天皇に厳しく当たる三島由紀夫の姿が掘り起こされ挙げられていた。

彼の天皇バンザイといい、切腹といい、それは原理主義的に崇拝するところからくる例えば人間宣言とかが許せないとかの極論。

まったくもって天皇機関説からも離れた信条が覗かれると解釈がなされてもいた。表面は似ていても本質、茨木のり子の主張とは似て非なるものがそこに。

松本健一天皇人間宣言は五箇条のご誓文の時代にもどること。とっくの以前からの人間宣言に、そこにもどること。軍に牛耳られてきたこの国を維新の時代にもどすことにすぎないという含みもあったのだと

これは松本氏の独自の天皇の信条解釈。

GHQもその過去の誓文内容をみて単純なるファシズム視は引っ込めていくのだ。維新時にすでにあった理念のほうに目を見張るのだ。

それぞれの家族にある戦争の爪あとを振り返れば詩人のそこに込められた情念にも共感は誘われる。が、しかし松本健一天皇の信条理解に沿えばこの詩の根底を支える論理には大きな違和感もあるのだ。後白河がだとか、頼朝級のどうとか。

復古調の言に頼って非難する。国民も信じたはず。国民に責任はまったくなかったのかという感情。すべてをある特定の指導者層に求めすぎては

彼女自身の「自分の感受性くらい自分で守れ」という作品の主旨にも反するのではという思いも立ち上がってくるのだ。

「ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな」という詩との整合性のこと。統帥権から天皇を批判すればすべてはすむのか。

それに「文学研究果たさねば あばばばばとも言えないとしたら」の句、しかしこの表現、本当にそのような天皇だっただろうかと。

この詩のフレーズなどに頓着することなく、昭和天皇ほど明瞭なる発言をする人物はいないという主張する人もいる。天皇が亡くなられた年は

ちょうど社員旅行も自粛気味の雰囲気だった。自分は「あ、そう。」というフレーズが特に思い浮かべる昭和天皇しか知らなかった。

「畏るべき昭和天皇」 松本健一 新潮文庫 はごくごく最近読んだ書で、それまでも昭和天皇のまつわるものは、どうしようか迷いながらも結局

手にして読んできた部類の自分。切り口はそれまでの他の著者のものと違って新鮮でなかなかの評論だったという感がつよい。

読んでみるとそこにはどちらかというと戦後の「あ、そう」というフレーズが念頭にくる天皇ではないのだ。

「君臨すれども統治せず」を基本的立場に置かれていた昭和天皇。しかし2度は統帥権を発しなければならなかったのだ。

一度目は2.26事件の際、そして2回目は終戦時。戦争責任は自分にあると明言、GHQからは逮捕命令が出た近衛文麿元首相のその後の自決。「近衛は弱いよ」と天皇は側近に言い放っている。

占領軍による強大な権力やキリスト教を一旦は「あ、そう」と受入れ、事が収束したあとは断固として押し返す。

2.26事件における北一輝への対応でもそうだ、終戦後の人間宣言三島由紀夫事件の黙殺。いずれも明瞭な発言の数々。言語明瞭、意味不明瞭のそこは政治家とは違うのだ。

2・26事件(昭和11年)では「真綿にて朕の首を締むるに等しき行為」、青年将校達には「反乱軍」だと激怒。この延長線上で近年富田メモが明かした言動(A級戦犯を合祀した靖国には参拝しない)「それが私の心だ」、それらを対置するとさらに重みと渋みが増してくる。

そこには弱々しい天皇の姿はない「文学研究果たさねば あばばばばとも言えない」の茨木のり子の表現に組する訳にいかないだろうと。やはり、字面どおり仮定で「としたら」と思っておきたいのだ。

そのことを補強するような証言は他にもある。大正10年のイギリスにおける歓迎晩餐会での、昭和天皇の「堂々たる御態度」、「玉音朗々、正に四筵を圧するの概」と駐英大使の吉田茂は感嘆している。

やはり松本健一の作品は昭和天皇の言葉とその時代を丹念に追っていく力作だと思える。

盲目的な拝跪と従属の甘美さが論理を超越させてはならない。非難するときはすべてが他人事のように短絡的な結論をもってくる人が居る。

そもそもの元は戦後の天皇の「免責」がありその後の「道義的責任の回避」の風潮を生み出しただのの強弁。バブル経済の形成と崩壊のさいに、きちんとした責任をとった政治家も官僚も経営者もいなかったのは

、それが日本なのだと天皇もだと。これはおかしい胡散臭いこじつけだ。ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて、まさしく茨木のリ子の詩を反芻しよう。戦後も東条ひとりにその責めをかぶせ、

すずしい顔をしてやれ平和だ、民主主義だと、それが本当の国民のあり方だったのだろうかと思いたい、あの戦争は国民の側にも責任がなかったのかと。

そういう問いからの出発があったとしたら。騙されたのと、そういう内向きのメッセージとなることもなく、静かに日本の国民に習う様な世界の思潮となっていったかもしれない。

国際社会が嫌うのは過去にあったことをなかったのごとく振舞う人や国なのだ。記憶たしかにして発言明瞭な昭和天皇が、ではなぜ、戦争責任への問いに明確な発言がなかったのかがすこしくわかるような気もするのだ。

もともと、詩人茨木のり子さんのことは恥ずかしながら全く存じ上げなかった。だけれども、ノンフィクションライター後藤正治さんがとりあげている広告紙面にすいよせられるようにして興味をもち、評伝とその詩ポエムに触れた。探し出してみるとこのような詩にぶち当たってからが始まりだった。

戦後の政治

世間の天皇制批判も知らないわけではなかったけれど、自分の場合は昭和天皇の決断がいかに日本国を救ったか、また分断されることもなくというふうに思いを寄せていたので

どうしても、この詩には同調できかねる、共感できえない部分として未だある。

鈴木貫太郎

昭和天皇

御聖断

歴史はおふたりの阿吽の呼吸あってこそいまの日本がという自身の理解との段差

そこには歴史観の相克がある。

 

詩を読んだ限りはそこまで批判的にはついていけない。

だけれども、戦争を知らない自分が、偉そうにこの詩のみをもってどうこう言うこともない。

 

その詩になじめなかった理由だけは述べるだけ述べて、共感できる詩のほうをこれからも、充分に味わっていこうかなと。思っている。

 

左傾論者が好むように「倚りかからず」の詩に倚りかかって

 

いたらない部分に向き合う勇気を失ってしまわないように

 

その部分に気づかせてくれる詩が「自分の感受性ぐらい」のそれだ。

 

「駄目なことの一切を時代のせいにするな。わずかに光る尊厳の放棄。自分の感受性ぐらい自分で守れ ばかものよ」で結ばれている。