トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

手向けの言葉で大祖国戦争に対抗

今回のロシアによるウクライナ侵攻が、過去の忌まわし事件の数々を想起されることを、早くから憂い、ようやく動き始めたこれら悲劇の歴史の保存活動やソ連時代の人民抑圧の歴史研究などについて今後どのような影響を及ぼすのか、まったく予測もつかないと警告が発っせられている。忌むべきプロパガンダによって人権が蔑ろにされる方向へ。大祖国戦争だなんて!いわせてはならない!懲らしめると掲げる正義が本質においてナチズムの様相を。詳細は、不明なままに未だ道半ば。いずれにしても、なおざりにして、前には進めない。カザフスタンの広大なステップに置かれた1つの収容所で起こった過去の悲劇的な事件が、再び歴史の闇に葬り去られてしまわないように、そして同じような悲劇が今回の戦争で再び繰り返されないよう、願ってやまない。

これまでに、学んできたことを、網羅的に。

まずは、安倍首相の訪問先、カザフスタンでの印象場面は、後に語るとして、その前に

ケンギルの反乱、こんな事件があったんだということの知った衝撃から、記していきます。

 

ケンギル反乱事件はソ連収容所群島における最も悲劇的で、最も英雄的な物語の1つとして、いまもなおカザフスタンの歴史の中に名を刻んでいる。

【検索してみて下さい】大草原の収容所における反乱事件――ソ連収容所群島の終焉

 

 

それから、映画『ラーゲリより愛を込めて』

 

鬱屈したこの時代に光を灯す、心震わす《感動の実話》として話題になっている主演の二宮和也氏のコメントにも、並行して、耳を傾けている。

 

時局的にも、国際社会が困難な雲行きに益々、落ちいろうかという時に、ウクライナと過去の事象を等分に視野に入れながら、

今後の日本の立ち位置を確認する意味でも、また、進むべき道を探る意味からも、

日本人シベリア抑留者の足跡をカザフスタンに求めることができて、その地に足を運びたいとも考える様に。

政治家でもないので、たいして何も出来ないことはわかっているにしても、そのような、ウクライナ戦争の発生、予測の外にあった、ロシアからの抑圧のあった爪痕に。

気持ちだけでも寄り添う価値は、多いにあるだろうことの必然性だけははっきりしてきているのだ。

シベリア抑留の成れの果て、カザフスタン

望んで生前の安倍首相が

訪ねていたことを知り、その地で手向けた、元首相の言葉の数々を味わってみたく、以下、抜粋してみました。

 

安倍晋三総理大臣が日本の総理として9年振りに中央アジアカザフスタン共和国を訪問、ナザルバエフ大統領との首脳会談を果たした。カザフスタンは近年、石油や天然ガス、ウランなど豊富な天然資源を背景にした目覚ましい経済発展や、日本人を含む多くの宇宙飛行士を宇宙に送り出している「バイコヌール宇宙基地」の置かれている国として、日本でもその名を知られるようになってきている国である。

 

かねてより中央アジアを訪問したかったある特別な理由を明かしている。

 

「私には、この中央アジアの地を、是非とも訪れてみたい、もう1つの理由がありました。70年前の戦争の後、多くの同胞が、この地に抑留されました。祖国に思いを残したまま、悲しい最期をこの地で終えた方々も少なくありません。そうした御霊に、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御冥福をお祈り致しました。こうした尊い犠牲の上に、現在の日本の平和がある。この重みを噛みしめながら、中央アジアの皆さん、世界の友人と手を携え、世界の平和と繁栄に積極的に貢献していく。その決意を新たに致しました。」「訪れた先々では、かつて抑留された日本人たちの建てた建物が、皆様に大事にされ、立派に残っている様子を見聞きしました。アルマティの科学アカデミーがそうでしょう。お隣ウズベキスタンタシケントにあるナボイ劇場。シムケントや、テミルタウにも、たくさん残っていることを、御存知だろうと思います。毎朝、この中央アジアの大地に昇る朝日を見て、その地平線の先にある、祖国、ふるさと、そして家族へと、思いを馳せたであろう、先人たちの姿を偲ぶとき、今も胸が詰まります。しかし、強制された労働であっても、決して手を抜かなかった。父祖たちは、そこに誇りを託したのだと思います。」(平成271027カザフスタンにおける安倍内閣総理大臣政策スピーチより)

 

日本人抑留者が作ったものが現在もそのまま使用されており、いまもカザフスタンの人々からその技術と精神が高く評価されている。

 

日本人抑留者たちは手を抜かず、ひた向きに、真剣に作業に取り組み、カザフスタンに様々なものを残していった。

 

カザフスタンに強制連行されてきた日本人抑留者は、当時共和国の首都であったアルマアタ(現在のアルマティ)や、ソ連有数の炭鉱都市であったカラガンダ、大きな鉱山のあったバルハシ、ウスチカメノゴルスク、テケリなど、共和国内各地のラーゲリ強制収容所)に送致、抑留され、都市建設や鉄道建設、農場労働、鉱山労働など様々な強制労働を課せられた。

 

194588日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦を布告。当時日本の統治下にあった満洲南樺太などに侵攻を開始した。日本のポツダム宣言受諾後もソ連軍の侵攻は続き、軍人だけでなく多くの軍属、民間人が犠牲になった。また、戦争終結により武装解除ソ連軍の捕虜となった軍人や、ソ連軍に逮捕された民間人の多くが抑留者となり、中央アジアウクライナを含むロシア全域や、モンゴルや北朝鮮など各地に貨車で強制連行された。

 

終戦カザフスタンを含む旧ソ連領内には、60万人とも70万人ともいわれる日本人がソ連軍によって満洲樺太から強制連行され、飢えと寒さと絶望の中、森林伐採や鉄道建設、炭鉱労働など過酷な労働を、数年から十数年にわたり強いられた。これがいわゆる「シベリア抑留」である。

 

当時カザフ・ソヴィエト社会主義共和国としてソ連の構成国だったカザフスタン領内にも約59千人の日本人が抑留され、これまでに判明しているだけで少なくとも1,457人が生きてふたたび祖国の土を踏むことなく亡くなったとされている。

 

シベリア抑留でもっとも過酷であった点として一般的に語られるのが、飢え、寒さ、重労働のいわゆる「三重苦」である(絶望や人間不信を加えて四重苦と呼ぶ者も多い)。

首相からの当時の言葉の一つ一つ

 

少なくとも先人たちの無念と苦しみと功績とを偲ばれたことは、帰国の志半ばに倒れていった日本人たちの魂への最大の手向けになったに違いないと思えます。