トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

百年の知己にでも会ったようなまた、感激も

落ち込み続ける経済、減り続ける人口、技術開発の遅れの深刻化、徹底的な偽善。

これだけ、述べられても、いずれの国にとっても、似たようなコロナ禍での落ち込み相まって、我が国の事かと、胸を当ててみる指導者連中いたとしても不思議でも無い。

 

ロシアのウクライナ侵攻は長期戦の様相を呈し始め、ロシア軍による市民の虐殺も明らかになった。日本を含めた世界はロシアとの対峙を覚悟し、経済制裁をいっそう強めつつある。もはや「戦争開始前」には戻れない。安全保障、エネルギー、経済……不可逆の変化と向き合わねばならない。これ以上、戦火を広げないために、世界は、そして日本は何をすべきなのか。

 

国民を「ハエ」とののしるプーチン ロシア去る若者たち。「われわれは本物の愛国者と裏切り者を見分けることができる。そのような連中は、誤って口の中に飛び込んできた〝小バエ〟のように、路上に吐き捨ててしまえばいい」などと述べたという。自国民を「小バエ」と呼ぶプーチン氏の思考の異常さは、ウクライナ侵攻に賛同できない多くのロシア人に絶望的な思いを与えたに違いない。プーチン氏は、ウクライナ南部マリウポリでロシア軍と対峙するウクライナ民兵組織に対しても「ハエ」との表現を使っており、このような言葉遣いが何を意味しているのかを、ロシア人が敏感に察知したことは想像にかたくない。 ロシア国民がより良い生活を求め、国外脱出する流れはこれまでも一定程度あった。政権は、反体制派や不支持層の国外脱出を黙認することで、自国を統治しやすくする狙いがあったとみられる。それでもロシア経済は潤沢な資源輸出に支えられ、海外からの人材流入もあり、目立った問題は起きていなかった。ただ、主要市場の欧州がロシア産エネルギーを遮断する動きを強める中、ロシア政府は従来のようなシナリオを描くことはできない。さすがにまずいと気が付いたのか、ロシア政府は3月末、IT技術者に関しては一定の条件で兵役の「延期」を認める方針を打ち出したが、その程度の施策で事態の収拾が図れるとは考え難い。ロシアを離れたくても、金銭面や生活上の問題で離れられない〝予備軍〟の若者も相当数いるのは確実だ。プーチン氏が「ハエ」とののしる人々の怒りに、ロシア政府は苦しめられることになる。

 

ウラジーミル・プーチン大統領はロシアを壊すことしかやっておらず、それ以上のことは何もできていない。落ち込み続ける経済、減り続ける人口、技術開発の遅れの深刻化、徹底的な偽善──これはすべて彼の統治の結果だ。ロシアという語には良いイメージも悪いイメージも含まれていた。独裁、スターリン、収容所を思わせるけれども、ロシア文化、宇宙飛行、勝利も連想させた。しかし、それもすべて過去のことだ。今日「ロシアの」という形容詞にふさわしいのは、死、破壊、侵略、嘘だけだ。しかも、それが長く続いているのだ。

 

政治家はさまざまな理由で戦争に関わることを躊躇する。その主な理由の1つは、戦争は一度始まると、それ自体が生命を持つことがあり、また往々にしてそうなるからだ。実際、戦争は紛争を起こした側が達成しようとした結果とは正反対の結果を生むことがある。ウクライナで起こっていることほどそれが顕著な例はない。ロシアのプーチン大統領が当初から事態を見誤っていた可能性がますます高まっているようだ。実際のところ、プーチンウクライナに侵攻して成し遂げようとしたことが達成されるどころか、プーチンが防ごうとしたものがほとんどすべて生み出されてしまう可能性が高まっている。戦争が行われている現在、ウクライナの独立アイデンティティは確かに存在している。プーチンにとって、その責任は自分自身にある。なぜなら、ウクライナの人々を現在のように団結させたのは主にプーチンの始めた戦争によるところのものだ。軍事政策や外交政策の専門家が戦争を終わらせる可能性のある方法を議論するとき、通常、ロシアが2014年以降に奪った領土すべてを含めてウクライナから完全撤退するか、クリミアなど奪い合っている地域で正当な住民投票を実施する、あるいはロシアが撤退する代わりにウクライナ北大西洋条約機構NATO)に加盟しないことに同意するという何らかの取り決めといったコンセプトを議論する。いずれも論理的だが、戦場の現実を考えるとこれらの提案の一部または全部は非現実的かもしれない。しかし、このような可能性を議論をするとき、専門家はウクライナ軍とそのウクライナ国民の現在のパワーと断固たる決意を否定しているように見える。

 

現実問題としては、西側諸国やロシアの外交官が望むような未来ではなく、今のところ紛れもない戦場の現実を考えれば、ウクライナ人が実際に受け入れるような未来が待っているかもしれない。この紛争の帰結がどういうものになるか予測は難しいが、少なくとも現時点では、ロシアが侵攻する直前の現状に戻すだけという交渉結果をウクライナ人が受け入れる可能性は極めて低い。

 

おそらく最も重要なことは西側諸国の外交官や政治家は戦前の自国とウクライナの力関係がどうであれ、プーチンの侵攻によって関係が劇的にウクライナ有利に変化したことを認識しなければならない。プーチンの非人道的な砲撃によって、ウクライナのインフラが破壊されているのは確かだ。その修復には何年も何十億ドル(何千億円)もかかるだろうが、それは時間をかければできる。そう簡単に修復されないものはそれまでに傷ついた国連の懲罰動議の無力さであり、度重なる、その他、開発途上国、最貧国、それまでも、やっとスタートアップに見込まれてさぁこれからという、希望の未来の国が後回しにされる屈辱である。

 

第二次大戦後の、平和の歩みを大切にして来た日本。戦後復興の歩みと国際社会からの迎えられ方に感謝の意味合いも込められて、国際貢献には、積極的に関わり続けて来た日本。国際的プレゼンスは、不幸な戦争の歴史があったにもかかわらず、和解と共に繁栄の道を目指す、共栄の関係に。東南アジア、のみならず、拡がりは、アフリカ諸国にまで。

政府開発援助のスキームは、それぞれに、国内での異論も浮上しながらも、超えてはきていた。

その関係、相互の絆も、今ではマダラ模様。

アフリカ諸国に至っては、中国、習近平からの恩恵のほうが、感じられているようで、国連決議の中国にとっては重要な評決に関しては、かなりの味方を頂くまでに。票数からいっても、無視し得ないほどに。

インドとこれらの諸勢力の台頭を考慮していけば、かつては、第三世界の平和勢力の一端を担うかと言われていたのは過去の日本であって、今や経済、人口、テクノロジー、どれをとつても、それは、インドかもしれないのだ。

 

早々とそれを気付いていた政治家のほうは、銃弾に倒れて、やられてしまい、残った心中、政治家それぞれのお考えは、あるのでしょうが、詳しくは知る由もない、国会の世界での議論はというと、本題には、審議されているはずなのに、メディアで好んで触れるのはガーシーとか、やれ、視聴料金徴収はまかりならんとか、かたや、スキャンダルネタで追求型のもの。

何も目新しいものはない。

クワッド、オーカス、自身の興味あるもの。

それらは、また、自ずから限られているとはいえ、話が合う相手に出会った時は、百年の知己にでも会ったようなまた、感激もあるのだ。