新聞紙面のほうでは、子育て中の若いママさんが、泣き止まない子供をあやすためにスマホの動画アプリを利用する現在の御時世を問題視していた。
笑えない問題でもある。こころとこころの触れ合いにそれはどうなのとの指摘もあるが、一笑に付してしまえない現実がある。
ネット上の仮想空間は手軽でもある。
大人社会でもSNSやスマホのアプリケーションを介したオンラインゲームに没頭しているという姿も散見されるという世の中。どこまでが適度な時間的使い方なのかは誰しも即答は難しいのではないだろうかと。
ただ言えることは読書や家族との絆がそれによって蝕まれたり、損なわれるようなことは避けたいというのが正直なところではなかろうかと思ってみたり。
例えばいじめや不登校、恵まれない家庭環境などという生き辛い現実もないことはない。そこから、ネットへの依存を深めていったというケースも紹介されていた。もともとインターネットには、距離や言語の壁を超えてグローバルで多様な価値に触れることが出来るという優れた特質がある。
例えば自己肯定感、自分の将来に対する明るい希望をそこから見出して現実を見つめ直すといういい方向にソーシャルメディアと付き合ってきた人たちもいる。
ただし、だからといって手放しで、その効用を宣揚する気にもなれない。
現在はより巧みにソーシャルメディアを操る側と、無意識のうちにその食いものになりはてる側とに分かれる危険の淵にあるとも感ずることがある。
「拡散」という機能において驚くべき威力を発揮するソーシャルメディア。
だがそこに潜む危険性に、われわれはあまりにも無自覚ではないだろうかと。災害情報など、この拡散機能が大いに役立つ状況のあることは容易に想像できるが、真実のない風評や、プライバシーもふくめて、人を恐怖に陥れることも容易なのだという側面もあることを。
芸能スキャンダル。口さがない人々の恰好のタネ。
ツイートし、リツイートする人々は決して悪意からではなく、多くの場合は無意識にあるいは大切なニュースを他の人にも伝えなければという使命感すらも持っていそうなシェア行為。
だが、悪い方向に向えば、人を孤立の淵にも持って行かせることのあることを。
ソーシャルネットワークは、今や非常に複雑なメディアのプラットフォームに変貌を遂げている。当初は、個々人が自分のメディアを手にすることができる利点が強調されていた。
だが、思い起こしたい。
使い慣れてきたはずと思っていたら、テロリストの「イスラム国」の熟達したソーシャルメディアの方を見て感心してしまうようなおかしな逆転状況。
ショッキングな人質の残忍な殺害に対して対抗する手立てを尽くせなかったのだ。そのことを思い起こしたい。
私たちの語る言葉の一つ一つで、テロリストの刃を封じてしまうような活用の仕方をしただろうか。
ソーシャルメディアとどう付き合うか。それこそ、そういう局面でこそ、人質を救出する方向へうまく利用できなかったのだろうかと悔やまれるのだ。
それどころかテロを生む背景に責任があるとか(タダ単に反米?)。極端なのは政権批判の種探しのこじ付けのようなものまで現れる始末。向こうの巧みな心理戦に乗じたようなナイーブなコメント記事にがっかりしたことを思い出す。
メディアリテラシーの判断力はどこへ。近視眼的執着から自由になることの大切さ。
ソーシャルメディアとどう付き合うか。尽きない課題ではあるなあと。