トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

ゆかりの人物(故郷編)

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 2020年は近い将来としては東京オリンピックが。1964年の過去の東京オリンピックには和歌山にゆかりのある人もその実現に貢献している。
 米国日系人でただひとり東京オリンピック準備招致委員会委員に選ばれ、東京オリンピック招致に奔走した日系二世の実業家、和田勇氏のことを。
ヨーロッパや中南米の国際オリンピック委員を自費で訪問、1964年の東京オリンピック開催実現に大きく貢献している。この方の父母は和歌山県の人だ。
 祖国へ、熱き心を―フレッド・和田勇物語〈高杉良)この物語は誰しもが感動したと思う。
そのほかにも、和歌山ゆかりの人といえば、同時代の活躍されてきた姿を拝見したことのある作家の(故)有吉佐和子さん。
まだまだ、たくさんの方の名前も知られてはいる。
最近では芸能界で活躍されている坂本冬美さん藤原紀香さん、小西博之さんなどが和歌山ゆかりの人として浮かぶが、地域の有名人、偉人といった観点でたどってみれば、企業人としてはパナソニック創始者松下幸之助氏がくるだろうか。
 
もっと時代をさかのぼれば徳川吉宗というところか。ゆかりの人に違いない。

さらには、科学雑誌「Nature」に日本人として初めて論文が掲載された天才南方熊楠(みなかたくまぐす)、世界で初めて麻酔手術を行った華岡青洲(はなおかせいしゅう)。
 不平等条約改正である治外法権の撤廃を成し遂げた陸奥宗光
アメリカのニューヨーク市民が等しくその死を悲しんだという和歌山県広川町出身の濱口梧陵(ごりょう)。和歌山県議会初代議長。
 英国の文豪ラフカディオ・ハーンは、氏を「A LIVING GOD」(生ける神)と評して世界に紹介され、「稲むらの火」は防災の象徴として認識されている。
 津波(ツナミ)の言葉が世界共通語になったのもそのときからかもしれない。

 

 

 

 

 

 故郷を離れて暮らす若い人にも、先人を、知り、誇りをもって、また、それぞれにある、今住んでいるところでの地域の先人に学んでいかれることを。

 

日豪の絆

オーストラリアでクリスマスツリーを眺めていた、
皆が半袖で、季節は夏で、旅行客の自分らは
日本人客らしい人が歩いているぐらいの認識は
持たれていたみたいだった。
アジアのなかでは滞在者の内訳としては中国人も
多かったのだが。
タクシーも利用したがその際の運転手は東南アジア系の
顔立ちをしていた。
日本では自動ドアが当たり前なのに
こちらでは自分であけなければならなかった。
車種はファルコンGLというやつで
フォードの中古ぽいのが大勢を占めていたみたいだった。
運転は右ハンドルで日本と同じ。
だからレンタカーも観光に利用してみる気に。
借りた車種はトヨタカローラ
なんだか安心感あるので、快適なドライブだった。
グレイトハウンズの高速パスにすれ違いながら
一時は草原の中を。
こんなとこでエンスト出来ないよなぁという
心細さも。
右を見れば、牛の群れ。
左を見れば、羊の群れが。

戦争遺産を大切に保存している国、オーストラリア。
日本からの攻撃も受けた国でもあるのに
かかわらず、豪軍人が
中心となって、
日本軍人の遺骨や、
戦闘機、潜航艇が保存されている。

これらのことを見学することは
不戦の誓いにつながるものであつたことは
言うまでもないのですが。

加えて、ここ最近の日本での安保法制論議の時
歴代のギラード首相、アボットも、かねてから
理解を示されていたことはよく知られるところ
でありますが、あわせて記しておきます。

【関連】豪州国会両院総会 安倍内閣総理大臣演説-平成26年7月8日(現地時間) _youtube

ゆとり世代≠さとり世代

息子とダブって自分も平成生まれの新世代に関心が向いてしまう。どこから、来たの?故郷は?。交わした挨拶から振り返っていることがある。表面はどんな顔にも化けられるカメレオンのような君。礼儀正しく、一方で冷めたというか、冷静なところ。

団塊の世代やバブル期を謳歌したおっさん達に囲まれていく彼。

ゆとり教育を受けた世代が社会に出て、結果をさとり、高望みしない世代という意味でさとり世代とも呼ぶらしい。言い得ている部分と、そうでない部分。そういう使われ方なら、少々の違和感。彼の場合は違うようだ。

ゆとり世代と呼ばれたくない胸の内を推し量っていく。君の本当のこころの孤独を。


新語のさとり世代を象徴するように、彼の目からも、見ている限り周囲の若者は無駄な努力や衝突を避け、過度に期待したり夢を持ったりせず、浪費をしないで合理的に行動するように一見、写っていく場合もあるらしい。

上昇思考より、小さな幸せ。しかし、君はそれらに一番危惧していることもわかるのだ。小さく地元でまとまる危険を。地味で堅実なように聞こえることが事実は危うきことを。大海を知らず井の中の蛙に留まることの薄っぺらさの危険を。君は同世代にもっと警告しておきたかったのかもしれない。

グローバル経済下の流れは地域の隅々にも影響を与えていくものでもあることを。経済の脆さはじぶんのことだけかまけていればいいというミーイズムを、どこまでも擁護しては、くれないものでもあることを。

そして、その一方で君は同世代を庇うような発言もしている。

物心ついたときにはバブルが崩壊し、不況しか知らなかった同世代のこと。お金が無いから分相応にしていただけのことがそれほど魅力に欠けることなのかという怒り。

あたかも不景気により、不自由を悟らざるを得なかった世代がそこにいるように。

結果のわかっていることに手を出さない。
「車やブランド品に興味がない」「欲がなく、ほどほどで満足する」「恋愛に淡泊だ」欲がないとは、よく言ってくれるよ、世間というやつは、と。

お金がないとシンプル合理的になるのは当然のことだったはず。

奨学金も毎年、返していかなくちゃならない。親に負担はあまりかけたくない。そうさ、本当のところの君の胸の内。
(研究者も非正規雇用なのだという)社会へでてからの現実感からの一言。

事業仕分け、あやうい政治ショー。バッシング。加えて地方行政の統廃合問題。あおりをくったような予算見直しと削減、削減されてそれはよかったのか。そもそも、その科学研究予算削減は間違いではなかったのかとの、反発と憂い。

知ることはなかった。君の本当のこころの孤独を。
今の君はヘッドハンティングの誘いがあっても、推薦のおかげもあった今の職場のことだからと教授の顔を立てて残ることにしたという、なかなか古風なところのある、君でもあることよ。

他の世代から生存競争の厳しさを言うけれど、全体が右肩上がりの、いい時代の恩恵を味わっている世代からの指摘は彼には響かない。

教科書改訂なんかで、歴史の認識がどうなるともおもっちゃいない。教科書そのものが一つの物差しとみるだけなんだから。
ゆとり教育の世代と冠されて、その後に勝手にゆとり教育の弊害を語られたって、まったく彼にとっちゃあ、勝手な世の中であることよ。

モノより、思い出。共感できる物事を絆いでゆく。生き方。

団塊世代」も「バブル世代」も、 自分らの世代の方が優れてるってみんな勘違いしすぎている場合だってある。
いずれの世代も、そのような優先順位で、もっと共感することがあるのではないかと、ふと空を仰ぐ。

“ものづくり日本”の父、ヘンリー・ダイアー

TBSラジオで聴いてました。2016.12.9 金曜日の内容、よかったので、再検索。
 
明治時代に日本の工業の発展に貢献したヘンリー・ダイアーという御雇い外国人のこと。

日本政府はなんと、大臣より高い月給を、しかも24歳の大学を卒業したばかりの青年ダイアーに払っていたというのは驚きでした。

 


スコットランドと日本とのつながりは、幕末時代にさかのぼる。1863年(文久3年)、後に「長州ファイブ」として描かれる若き長州藩士5人が、海軍強化のための洋行計画を立てて密出国。彼らは、徳川幕府を倒そうとする薩摩・長州藩を支援していたジャーディン・マセソン商会の周旋で、ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアレクサンダー・ウィリアムソン教授の指導を受けた。そこから山尾庸三は1人でスコットランドグラスゴーへと向かい、造船所の職工として働くかたわら、アンダーソン・カレッジの夜学で学んだ。夜学で山尾と同窓だったヘンリー・ダイアーグラスゴー大学に進み、のちに来日して山尾の創設した工学寮の初代都検(教頭)を務めている。

 


19世紀のスコットランドは、教育制度において、イングランドをはるかに凌駕していた。イングランドにオックスフォードとケンブリッジの2大学しかない時代、スコットランドには既に1413年創立のセント・アンドリューズを始め、グラスゴーアバディーンエディンバラの4大学があった。1860年代において、高等教育を受ける人口がイングランドでは1300人に1人のところ、スコットランドでは140人に1人と、10倍近かった。特に1451年創立の名門グラスゴー大学は、学生の5人に1人が労働者階級出身で、貧しい農家の息子が大学教授になるなど、社会的流動性の低いイングランドでは考えられないような立身出世があった。またスコットランドでは実学教育が重んじられていたために、経済学者のアダム・スミスや技術者のジェームズ・ワットを輩出したグラスゴー大学は、まさに産業革命の原動力となっていた。


明治維新によって封建制が崩れ、殖産興業による近代化を急ぐ日本が、社会的流動性が高く実学教育を重んじるスコットランドの教育制度を取り入れ、高等教育機関の創設でグラスゴー大学を手本としたのは正解だった。グラスゴーで学んだ山尾の体験を原案とし、ダイアーの構想した教育課程を受け入れ、技術者養成を目指す工学寮が開校されたのである。ジャーディン・マセソン商会のヒュー・マセソンの従兄でグラスゴー大学の初代工学部教授であったルイス・ゴードンの助言もあり、スコットランドからは多くの技術者たちが、「お雇い外国人」として日本人の指導にやって来ている。

工部大学校の卒業生の多くが、グラスゴー大学を始めとするスコットランドに留学し、1914年に第一次大戦が勃発するまで、グラスゴーのダイアー邸ではいつも日本人が歓待されていた。


イギリスの大学というとオックスフォード大学ケンブリッジ大学を思い浮かべますが、当時、技術の分野で世界最高の大学は1451年に創設されたグラスゴー大学でした。文系では「国富論」を書いたアダム・スミスや、「金枝編」を書いたジェームズ・フレーザー、理系では蒸気機関の改良で名高いジェームズ・ワットや、アインシュタイン以前の最高の天才といわれるウィリアム・トムソンが卒業している名門です。ダイアーはその世界最高の大学(機械工学と土木工学)を主席で卒業したばかりで、突然、東洋の島国に行ってほしいといわれ、多分、複雑な心境だったと思いますが、恩師のウィリアム・ランキン教授の推薦で1873(明治6年)、8人の教授陣とともに日本に到着します。当時の平均寿命は現在より短かったといえ、大学を卒業した直後に発展途上国の大学を創って教育できたと考えると、大変な能力だったと思います。その分、給料は高額で、明治政府のナンバー2である右大臣の岩倉具視の月給が600円のときに、ダイアーの月給は660円。なかなか換算は難しいのですが、現在の金額では月給200万円、年俸2400万円程度ですから、いかに期待されていたかが分かります。

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大日本―技術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像

シェアしたいですね。この内容。

当時の日本論といっても、ちっとも古びてはいない明快な分析。

 

 

 

 

 

 

 

日本論ということでは
対比してみたい、
以前に読んだことのある、戴季陶の『日本論』。

興味深く読んだ記憶が。

お雇い外国人に関しては主体を失うことなく活用した日本への羨望の眼差しが伺えるとともに
母国中国の打算的、拝金主義の横行を憂えているところなどは着目した部分です。


日本に対する忠言も含まれながら記されているだけに戴季陶の
愛国の概念についてより深く考えさせられます。

 

老婆心ながら

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老婆心ながら言っておこうかと、
そういう言葉を投げ掛けられた心象風景も
懐かしく。
 厳しくも暖かい眼差し。

 順送りなのか。
かつての親子関係が逆転するように。
そんなこともあったことを。
あの時は帰省する度に親父がマスコミの影響を
受けて左傾化していないかと自分は心配していた。
 定年後、TV、マスコミの情報には
不自由しない親父だった。
PKO議論、日本の
政治の場で問われたとき、
 息子が積極的
 支持とは
 ちょっと親父にとっては意外だったようで。
さかんに当時の否定的論客の
口真似を
聞かされもした。
もうあれから何年、
 新しい
日本の国際貢献を期待している息子と
等分に
老婆心ながら、今は
 マスコミの論調の相も変わらなさを
見つめている。

シユタージユもゲシュタポも否

安保闘争後の学生運動の火種は形を変え続いてはいたが、組織に属するということは避けて、心情的左派という、そういう感覚で学生時代を送る
人が多かったような気がする同世代に対する自分なりの見方。

自分はというと、心情的に愛した分以上に、嫌いになっていったなと。
それは、やはり、文化大革命というボロを見せつけられてしまったからかもしれない。
ある人に言わせれば、誤った、指導者によることで、それは本質ではないんだとか。

もうそのころには疑いから、確信に。
理念的にも完全に魅力はなくしていたなあと。

新・映像の世紀。番組感想の続きで言えば


シュタージュからの監視に苦悩する国民、これは東ドイツの崩壊前の映像。
プラハの春民主化の芽生え。これは、そういった圧政、東側からの離反を目指すチェコスロバキアの動き。
新任のドプチェク党第一書記のもと、検閲の廃止や政党の復活などの改革が行われたが、八月ソ連・東欧軍が介入し、改革派指導者を一時ソ連に連行してしまった(チェコ事件)。
チェコスロバキアで思い出すのは東京オリンピックで女子体操総合の金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカのこと。
その後ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一化され、チェコスロバキアにもビロード革命がおこり、共産党政権が崩壊。

改革の背中を押したのは、ゴルバチョフだったなあ。独り立ちをせよと、梯子を外されてしまったかのような東ドイツのホーネッカー。あの時が転換点だったような。その後は分水嶺のように。
ベルリンの壁、崩壊、また一方でソ連邦崩壊へと続く。まさに舵をゴルバチョフ自らが切ったかのようだった。




日本の志位委員長のもっと前の不破委員長。TV番組でこうのたまわっていた。
東側陣営の陰りの流れの中で
司会者から問いただされて
「昨今の東西で言えば、東側の陰り、どう思われます」
社会主義諸国の例で言えば、見習うべきところではあえていうなら、ルーマニアですかね。」

そのルーマニア、2ヶ月後、民衆革命によって倒されてしまうのだった。いかにそれまで、チャウシェスク社会主義独裁国家だったか。

倒れてみて明らかになる恐怖政治。

自らを革新政党というわりには。グラスノチ、ペレストロイカ。新思考外交。このゴルビー旋風の改革の狼煙。その本質にも気付くことなく。
というか、理解できないんだろうな。あらたな世界史的変動を。

リベラル派のゴルビー批判のなかにあって、自分の場合は間違いなくゴルバチョフを羨望の眼差しで見ていたことを振り返っている。

国連pko成立時は当時社共は戦争する国になるとかいいましたけれど、
その後の評価は日本の自衛隊国際貢献に称賛の声が高いのが実情だ。なになに野党共闘でだと。

昨今の安保法制もそうなるだろうと踏んでいる。

湾岸戦争の頃の指摘、やはり、歴史学者、林健太郎の「~警告」どおりだなと。