トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

下りきった坂の途中?

 

アンチ安倍の新聞.朝日、毎日がいかに世論を誤誘導したかに今頃、気づいている。ふふふふふ。
それまでは、そんなようなこと言ってはなかったよね。手のひら返したように、岸田首相の優柔不断さをなじる論調。

タイムシュケジュールから考えても憲法改正への熱量は伝わってこないだなんて、あれだけ、「改悪するな」、「改憲ありきの議論反対」と批判していた側がそういいますか。笑っちゃう。
先の安保法制で廃案も目指して力まれていた方々、国際情勢の激変ぶりをどのように感じたのか、外交安全保障論議の時には今はこれっぽちも言い出すこともなく、
政府の現状変更という意味の中身にどこまで理解しているのか怪しいもの。力による現状変更を許さないと同じように叫んだところで、日本の置かれた現状認識違いすぎ、周囲の海では、着々と。
そのうえ、かつてのメディアがよってたかってくさしたリーダー、気づいたときは亡くなってもういない。今は亡きリーダーによって如何に日本が守られてきたかを薄ら薄らと気づきつつもある。
日本の心ある人が惜しむまでもなく、インド、中東からも、アフリカからも、G7メンバーはもちろんのこと、あれだけ、第一次政権登壇のとき靖国参拝議論で炎上した経緯もつ、アセアン諸国までが甚深の哀悼。日本が引き金をひいて起こした太平洋戦争で戦禍を交えた国々の大半でもあるアセアン諸国。「戦争する国にするのか」国内のアンチ安倍ども。かまびすしいが、ほんとにそうであればそれらの国々からのそういった反応、説明がつくまい。
批判者の言動はその後もくすぶり続けている。例えばこのような発言。
今回の国会ではウクライナ危機を煽る事で危険な法案がいくつも成立したが、秋に行われる総選挙に向けてこれからは冷静にそれらの安保法案を再検討して、廃案にすることが必要だと思える、だなんて、笑っちゃう。その選挙の方も遠のいた感がつよいのだが、大本営発表の発表を想起させるマイナカードだとか、「 拙速な活用拡大反省を」とか等々、わめいている、おかしな学者も。
中にはドストエフスキーを中心に論じていた文学者で、なかなか面白いと思っていた人も混じっている。ガッカリだ。好ましく評価していたころは司馬遼太郎の「坂の上の雲」の丁寧な歴史解説もあったのにと。大概が批判する側の立場の多くは小説が戦争を肯定的に描かれていることへの反発。それが多かったのだが、そこは冷静に解釈されていた。
書評中心でもあるんだけれど、司馬先生の解釈はこうだといっているのか、自分の意見を混在させているのか、今から思えばそこは、不分明なところも。並行読みしていた「司馬遼太郎のリーダーの条件」(文春新書)、例えば半藤一利磯田道史関川夏央氏らの語り合っていた内容のほうがやはりしっくりとくる。
昨今のロシア文学者の安易な政府批判言動には安易な陰謀論が多いことからうんざり。例えば、日本会議、右派肩入れ論、統一教会自民党乗っ取られでもしたかのような記述。すべてが安手の安易な陰謀論の展開。シン・ゴジラは理解できても、なんか陰謀論にとりつかれたような学者らしくもない展開のネット掲載記事。内容はすべてがエモーショナルなものばかり。『坂の上の雲』をちゃんと読めと言いたい。司馬史観に名を借りた安倍批判を展開していた。そこに描かれた日清・日露の戦争、司馬史観を冷静に分析していたころとは大違い。歴史は誰が書いても主観は入る。とはいうものの出来うる限り歴史的事実に則して客観的に描いており、未来への警鐘とも受け止められた部分もあった。その手法と歴史観は、子規の比較と写生の方法、漱石の冷徹な現実批評の精神を受け継いでいるなと感じもしていただけに転向ぶりには残念。今一度、批判的に斜め読みするんでなく、ピュアな気持ちで坂の上の雲を読むと日本人でよかったなあと純粋に思えます。明治の日本人(そして日本政府)にリーダーにこんな国際感覚があったんだと思えることばかり。歴史や社会の教科書に乗っていない当時の日本の人々の気持ちに触れる事が出来るのが司馬の作品だと思います。

「坂道をのぼりきった上の空に 浮かぶ雲を目指して」の明治
比して令和の今は「下り坂の下りきったデフレ坂。まあだだか、もういいよ」と、なんか他者頼み

今は昔。やはり、今と違って。

視界不良からの回復基調。それでも時の支持率厳しさないわけではなかったけれど、

それを跳ね返す選挙にかける勝負師としての勘は今より

冴えていたといえる安倍時代

節目節目の表情に着目。