哲学の小路。久々の懐旧談。
自由、受難のその先に、
同じような会話をしてきたことを、
今更ながらと、笑いながらお互いが言い出していた。
相互の交流史に縁のないこともない
学友との出会い。
軍属としての関わりのある者から、或いは親族の過去の商売を、通じて、関わりのある家族史を持った
者まで。黙して語らなかったそれまで。
法制史専攻選択した、クラス仲間と、テーマである
国家主義の反省から、戦後復興の歩みの検証をとかを。当時
そのような大上段な物差しで語られようとする流れには安易に乗る事は避けて
あくまでも実証主義、互いに持ち寄った故人、はたまた、親族の日記類もとに、ゼミで議論を積み重ねていく。
彼は当時こう言った。華僑は、大事に扱うべしが、周恩来の方針だったんだぜ。あくまでも、政権樹立後に必要なテクノクラートとしての位置付けだよ。共産党独自の華僑第五列論。ふむふむ。共産党をも従来の定型形では観察していない彼。多少、脱線気味な推論も。
日本軍人の辻政信なんかのいう第五列、スパイ徹底撲滅視とは裏腹の関係でもあるのだが。こういった、優秀な人民、特に広東、上海華僑をどちらの側の勢力が取り込むかで未来が決まるんだよみたいな、そう言った議論を好み幾人かの学生の間では熱が入っていく。
自分もその一人だった。
今日もまた、似たような景色でも見ているような錯覚をも。
しかし、当時のその頃よりは.冷えてきてしまっているのが問題といえば問題ではあるのだが。
日本文化愛好者や親日家を弾圧し、日本文化の影響力を排除する社会が一方の中国にはある。
今日では新たな法律をつくってまで取り締まろうという流れ。
何でも日本のせいにしなければ、その正統性が維持できない政権ならば、いずれその脆弱性は表面化する。今、できることなら中国人をやめたい、外国籍をとって外国に暮らしたいとひそかに考えている中国人は急増している。誰だって、言論も不自由で、個人の財産や人権が正しく保障されていない独裁国家で子供を産み育てたいとは思わない。だいたい、“精日”によって中華民族の尊厳が傷つけられた、のではなく、中国人をやめてしまいたいと多くの人民が思うような状況を作り出した今の政権に問題がありそうだ。
なぜ今になって一部に精日とよばれる中国人の若者が目立つようになってきたのか。習近平政権になって明らかに、政治的には日本に対して敵対的な外交方針であり、国内の日本関係研究者や作家ら知日派知識人は有形無形の厳しい圧力を受けている。権力闘争が激しい中国では、政治の趨勢に敏感に立ち居振る舞いを変えていかねば生き残れない。特に習近平政権は発足直前に日本の尖閣諸島の国有化問題という痛恨の外交的屈辱を見たために、当初から対日観は厳しい。王毅のように知日派で売っていた外交官としては、焦り不安になったはずだ。
“精日”の精神構造については、すでにいろいろな分析が出ているのだが、単なる親日、日本好きというだけでなく、中国、特に共産党に対する嫌悪が背景にある。それは共産党政権が“反日”を、党の独裁政権の正統性に利用してきたことと、関係していると思う。
中国共産党は執政党としての正統性の根拠に“抗日戦争勝利”を宣伝してきた。だから、共産党独裁に反発するほど“日本”を持ち上げる言動、中国共産党政権が嫌がる言動に走りがちとなる。また、意外に中国近代史や日中戦争史を勉強している人もいて、共産党の主張する歴史の矛盾点に気づいていたりもする。
日本社会やその価値観に憧れ、自分は国籍はないけれど心は日本人だ、と主張し、中国に暮らしながらも、日本の生活習慣をまねるのは、90年代から強化された“愛国教育”という名のものとのあからさまな反日教育に嫌気がさしてきたからではないかという見方もないことはない。
日本語が流暢で、外務次官であった当時の王毅は、当時の日本人にとっては親しみやすい知日派外交官であった。それが、習近平政権になってからの王毅は「精日」問題に限らず、日本について嫌悪を丸出しにして語るようになった。その豹変について、いろいろ分析する人はいるのだが、最終的には王毅こそが、中国官僚、あるいは中国人の典型であろう。王毅は習近平の内心を忖度するのに必死なのであろう。実のところかなり本気で“日本の文化侵略”を恐れているということもある。
AI、IT、フィンテックの分野で今後米国を越えていくのだ、という予測に中国の若者自身が懐疑的になりつつある。
確かに、モラルや市場原理を無視して、資金と人材を一点に集中してイノベーションを起こしていくやり方は中国ならではだが、それが持続的に可能かどうかは、また別だ。
中国礼賛映画「すごいぞ、わが国」(厉害了,我的国)は党と職場で動員がかけられて連日満員だというが、そうした国策映画で動員をかけねば、中国のすごさを実感できない、あるいは持続できない、という見方もある。過剰な礼賛パフォーマンス、異論狩りの社会状況。中国の余裕のなさ、焦りを逆に表している。2017年10月に行われた中国共産党大会。政治局常務委員の7人“チャイナセブン”が発表されたが、新指導部入りが噂された陳敏爾、胡春華の名前はなかった。期待の若手ホープたちはなぜ漏れたのか。また、反腐敗キャンペーンで習近平の右腕として辣腕をふるった王岐山が外れたのはなぜか。ますます独裁の色を強める習近平の、日本と世界にとって危険な野望が見え隠れ。
憲法修正案が発表されたその日に、多くのネットユーザーが一斉に「移民」のキーワードで検索をかけた、そういう事からもうかがえることがある。少なからぬ日本に留学や研究に来ている中国人が「中国脱出」を真剣に検討していることも知っている。もちろん、「移民」「中国脱出」は日本のせいではない。
全人代で習近平終身国家主席の根拠となる憲法修正案が、賛成票2958票、反対・棄権票5票という圧倒的多数で可決したが、この憲法について、代表たちが心から支持しているのかというと、必ずしもそうではないという感触も得ている。
そもそも全人代代表にはさほど発言力も権限もない。今後は新たに創設される国家監察員会を通じて、政治家、官僚たちは党員であるなしにかかわらず粛清の対象となっていく。その緊張感から、党内ハイレベルから庶民に至るまで、内心の不安を口に出せない息苦しさがあることは、そこそこの情報網を持っている中国通ならば共通して察している事実だ。おびえなのだ。
国家を脆弱にしているのは、このような空気だ。強権化してきている、今の習近平終身国家主席構想とその政策実行の工程。つまり、問題の焦点は人民を萎縮させている出されてきた修正法案そのものなのである。
国家を脆弱にしているのは拳を振り上げている方なのである。