トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

生と死、善悪

毎日のコラムと対局にあるもの、大事にしたい。イデオロギーでなく、りゅうちぇる的な感性。

 

毎日新聞のコラム、松尾貴史の「ちょっと違和感」。おまえの発言とコラム記事のほうが、違和感!

松尾貴史が政治について書いて批判されるのはこの人がタレントだからではなく、単に間違ってるからで、この人マジで嫌いだわー。

社のチョイスとしては、まあ、毎日新聞だから、そんなもんか。そのような、感慨。

社説で社の大体の方向わかるし、まあ、反日ぶりもおおよそ予想通りとしても、メディアの質も落ちたものだなあと。

配達に関わる人の罪でもない。それは、関係ないことで、馬鹿な記事も、確認する必要から、購読を拒みはしないが、各社とのお付き合いも、ローテーション制にして、毎日新聞から、読売、産経、朝日、日経、と、順繰りでネットで済まされる流れの中でも、ペーパーへの愛着から、今だ新聞はとり続けている。

 

注目記事はこれだろうな。今日のところ。

 

京アニ公判速報中】青葉真司被告は傍聴席に目をやらず マスク姿、宙を見つめる様子 

 

事件の内容と、被告の罪にどう向き合おうとしているかの姿勢にどうしても関心が向かう。

衝撃的な事件から、もう、すでに、4年が、経ってしまっているのか。

 

罪を憎み、人を憎むな。

その言葉も、自分の心の中では、空虚に響いてもいるのだ。

とても、苛立たしくもなり、被害家族の心情の側に立てば、怒り通り越して、殺気立ってしまうことも。

一瞬先の、未来は、このような、つまらない、曖昧な、こんなにも、沢山の被害を生むなんて想像していませんでした。

正直な告白でもあるのだろう。それが、余計に聞いていて、虚しくもあるのだった。

 

これに関しての文字起こしは、様々に、沢山のメディアで今後もなされて、進んでいく事でしょう。

 

こういった、犯罪、事件の心理分析、解釈は、人間社会の未来への活かし方にとっても、その深掘りは、必須だ。

それが、なし得る度合いに比例して、政治記事の薄っぺらさも、今後、改まってもいく余地があるのかもしれない。

息苦しさの一方で、少なくとも進みつつある、セーフティーネットの数々。

 

優れた観察眼がそろわっていかない限りは、

日本政治、日本社会、何も変わっていかないだろうなと。

 

キレる社会と脆弱な神経。

 

言葉だけの絆。

 

責任回避の優柔不断。

社会の姑息。

真に優れた、心を射抜く

オルテガの警世の句を胸に

 

今夏タレントのりゅうちぇる氏が自殺し、日本社会に衝撃を与えた。哲学者の福田肇氏は「彼は弱い人たちに寄り添う真のリベラルだった」と悼むーー。りゅうちぇる自殺の真相は誰にもわからない。「死にたいと思う」と「じっさいに死ぬこと」とは、別だ。ネット上の中傷。父親としての責任のプレッシャー、うつ病など。それらのどれもが「自殺」(?)の〝間接的な条件〟にはなりうるが、〝直接の原因〟にはなりえない。もしかしたら、本人にすら、後者はわからないかもしれない。亡くなったりゅうちぇるは、イデオロギーからではなく、みずからの身体経験そのものから、とても自然に、風のようにさらっとかろやかに社会的発言をしてくれた、稀有な存在だった。2017年に放映されたあるバラエティ番組で、「いじめの加害者は実名報道すべきだ」という、大方の出演者が賛成票を投じた主張に対して、りゅうちぇるは、「実名の公表は、加害者の人生の更生を阻む」という自説を、いくら反論を受けても曲げなかった。見事な人権感覚である。また2022731日には、日本テレビ系「真相報道 バンキシャ!」で、当時連日報道されていた世界平和統一家庭連合(旧統一教会)についてのコメント。「合同結婚式」や「霊感商法」を問題視しながらも、「被害者を多く出している教団はよくないと思いつつも、このニュースで宗教全体が悪いとか、そういう偏見が起きるのもまた違うのかなと思う」そのようにりゅうちぇるは語り、何かを信じている人の切実な心の内面を踏みにじりかねない、一種の〝魔女裁判〟に変わりつつあった報道に警鐘を鳴らしていた。

 

ひとことで言えば、りゅうちぇるは、言葉の真の意味で〝リベラル〟な人だった。俗情と結託して、暑苦しいオヤジ的な硬直した〝正論〟をぶつ芸能人が多いなかで、彼は一服の清涼剤のように、かろやかで柔軟で繊細なヒューマニズムの視点を維持しつづけた。その発想の根底にあるのは、名もない弱い人たち、しいたげられた人たち、差別された人たち、人権を剥奪されている人たちへのシンパシーであり連帯感だった。そういう意味では、やはり先日亡くなった坂本龍一も、〝リベラル〟派を標榜する人間であった。しかし、坂本さんが一流の知識人として、彼の膨大な教養と緻密な理論に裏づけられた社会的信念を発信していたのに対し、りゅうちぇるは、感受性(あるいは身体感覚)に根ざした〝リベラル〟だった。

 

この事件に、りゅうちぇるが生きていたらどうコメントしただろうか? この問題に、どう切りこんだだろうか? そんな感慨が胸中を去来する。

 

「多様性」をうっとうしがり、「個性」をけむたがり、「レッテル貼り」を好み「排他的愛国主義」を声高に叫ぶ……そんな反知性主義とそれに根ざす理不尽な暴力が大手を振ってまかり通る目下の日本で、彼がそのもとでかろうじてみずからを支えていたところの、慎ましすぎる処世術は、無惨に踏みにじられ、無力さを痛感させることもあっただろう。そんなとき、「なぜ、生きているんだろう」という、みずからの存在意義そのものを疑問に付す思いが、再び心をよぎってもおかしくない。それがふと、彼の背中を押したのだとしたら……

 

りゅうちぇるの、マイノリティとマージナリティの土壌に美しく芽吹いた感受性にもっと耳傾けていたら。

 

りゅうちぇるは、2021年に『こんな世の中で生きていくしかないなら』と題された著書を出版している。それは、このような書き出しで始まる。「なぜ、生きているんだろう」幸せなときは、そんなこと1ミリも思わないのに、つらいときは、考えてしまう。自分の物差しで人と比べてしまい、自分の価値を自分で決めつけてしまう。自分のことが、嫌いになる毎日。自己判断でしかない自分の点数が、現実的に感じて、悲しくなる夜。前向きな言葉が、すべて、綺麗事に聞こえる日もある。自分より輝いている人は、眩しすぎるから、正直、見たくないときもある。僕は、テレビでの発言やキャラクターから、「明るくてハッピーなりゅうちぇる」と思われているかもしれない。なんに対しても前向きで、悩みなんてかけらもないように見えているかもしれない。でも僕は、基本的にこの世の中はつらいことばかりだと思っている。(……)それでも、僕たちはこんな世の中で生きていかなくてはならない。だから僕は、いくつかの武器を身につけた。諦めること、割り切ること、逃げること、戦わないこと。ガラス細工のように繊細で脆い感受性と卓越した美意識を備え、性においても活動においても政治においても既製の社会的枠組みに縛られずに軽やかに自由に生きようとしたりゅうちぇるにとって、この世の中はさぞかし生きづらかったことだろう。そんな彼が身につけた〝処世術〟が、「諦めること、割り切ること、逃げること、戦わないこと」だった。「防衛力増強」、「反日」、「ヘイトスピーチ……。無骨で好戦的で勇ましい言葉が飛び交う時代のなかにあって、なんと控えめな、不器用な、そしてせつない教訓なのだろう。あるいは〝平和の処方箋〟といってもよいような。「この世の中はつらいことばかりだ」としても、デリカシーやシンパシーや優しさが、少なくとも自分の生きる場所を「好き」や「楽しい」に変えてくれる、そう教えてくれたのがりゅうちぇるだったのでは。多様性を煙たがる日本の反知性主義者たちはりゅうちぇるを見習わなければなるまい。「多様性」をうっとうしがり、「個性」をけむたがり、「レッテル貼り」を好み「排他的愛国主義」を声高に叫ぶ……そんな反知性主義とそれに根ざす理不尽な暴力が大手を振ってまかり通る目下の日本よ。

 

象徴的な事件、自己の被害者妄想に陥った青葉容疑者。安易な犯行。防げない社会。

 

りゅうちぇるのかろやかで柔軟で繊細なヒューマニズムの視点がなおさら新鮮に響いて迫ってくる、もっと、もっと気づくことができる社会に変わる事を。