かつてのマスクの要らない日常に戻れることを。画像の風景のように。
疫病大流行のいま、カミュの『ペスト』やデフォーの『ペストの記憶』が新たに読み直されているのは、話題がタイムリーであるからだけでなく、それらの古典としての力にもよるのかもしれない。
『一九八四年』も、市民的自由と国家統制の相克、現代の権力のありよう、権力の暴走の怖さを1人ひとりが考えるうえで、思考のヒントとなる古典であると思う。
情報公開への消極性と説明責任の放棄、そしてなによりも政治における言葉の軽視、というか質的下落は、新型コロナウイルス流行に始まったことでなく、少なくとも現政権の発足以来つづいてきた問題の一部であることはいうまでもないのかもしれない。
とりわけ政治と言語というのはきわめてオーウェル的な問題といえる。それはオーウェルの作品、『動物農場』でも『一九八四年』でもいえること。
アップルとグーグルがスマートフォンの利用によりコロナウイルスの濃厚接触を位置情報によって追跡するシステムを共同開発したというニュースも以前に大きく報道された。
「パンデミック収束後も使われる危険性」が指摘されている。
中国政府はまさに指摘のようにその先を走っているかもしれない。
都市封鎖、日常的行動の束縛と監視、プライバシーの侵害、言論・表現の自由の剥奪といった問題に対して、『一九八四年』の世界を引き合いに出して警鐘を鳴らす発言が多く出てくる。
「オーウェル」を引きつつ憂慮している識者も多い。
そもそも「オーウェル」が引き合いに出されたのはトランプ大統領就任直後のことだった。
米国では(あるいは世界で)「オーウェル」すなわち「『一九八四年』的世界」が実現しつつある(もしくは実現してしまった)、これは禍々しい事態であるから、小説世界の話だけにして現実世界をはあやまたないで欲しい。そのような引用の仕方。
反トランプ側のメッセージとして拡散したいむきの人の主に取り上げ方だったと視るむきもあるが、もっとも、文明史的な警告としてとらえるべきなのかもしれない。
大方の予想を裏切って共和党候補のドナルド・トランプが民主党候補のヒラリー・クリントンを僅差で破り、予想を裏切ってというか大統領に選出された節目としての象徴的な出来事。
「客観的な事実が世論形成にあまり影響力を及ぼさず、むしろ気分や個人の信念に強く訴えかけるような政治状況」が幅をきかせていく。
CNNも大きなニュースとしての小見出しは、ある小説作品の爆発的売り上げを伝えていた。「2017年は『1984』の売り上げにとっては超々良い」というニュース。
大統領選直後に書店では『一九八四年』が急激に売り上げを伸ばし、大統領就任式があった2017年1月は他の最新作を抑えてAmazon.comの売上リストで第一位の座に。
描かれている急所は、反民主主義的な政治手法をとる政権とそれに追随するメディアの相貌をパロっている部分。
批判する際のひとつの参照軸として、『一九八四年』の再利用に価値があったのだろう。
「言いくるめる政権の手法が、独裁政権が徹底して情報を管理するオーウェルの名作を思い起こさせたのかもしれない」
ときに、それが虚偽であることをすぐに暴かれても、その嘘を「オルタナティヴ・ファクト(もう1つの事実)」であると開き直る姿も目撃することに。
かつては、「反ソ・反共」のテキストのように使われた小説が、このように読まれようとは。
(アメリカをふたたび偉大にせよ)のスローガンも記憶に新しく、それを記した赤い野球帽とともに選挙報道でよく見られたものだった。
批判したい側は「オーウェル版」のパロディ版として吹聴していく。
新型コロナウイルス流行の渦中にあるいま、個性的大統領退出以降も依然として「オーウェル」への言及は多い。
感染症拡大のなかで市民の生命を守るための「必要悪」としての都市封鎖、日常的行動の束縛と監視、プライバシーの侵害、言論・表現の自由の剥奪といった問題。
政府が携帯電話会社を相手に契約者の位置情報を取得する相談をし始めているのも驚きではないのかもしれないし、狙いは、対人関係の距離の取り方について指針を定め、必要な場合はこれを強制し、コロナウイルスの感染拡大を抑えることであると述べるのみ。ココアがどこまで有効に機能しているのやら。
疑問符のつくところ。しかしながら、それに敢然と取り組んでしまっているのは中国共産党政権である。
IT企業と政府とが密な関係を結んでいく未来というのはどのような未来なのだろうか。
「警察国家化」に突き進む怖れを「オーウェル」を引きつつ憂慮している識者の多く。それでもIT化の利便性と豊かさへの貢献は否定しえない。