トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

「慢心しきったお坊ちゃん」の時代・ 真の問題は何か

オルテガに学ぶ」・検索

賢者は、自分がもう少しで 愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その 努力のうちにこそ英知があるのだ。ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分がきわめて分別に富む人間だと考えている。 愚劣な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれが どうやっても、住みついている穴から外へ出ることのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その 盲目の世界の外を散歩させ、力ずくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。 ばかは死なねばなおらないのであり、救いの道はないのである。アナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも いまわしいといった。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者はけっして休まないからである。

我々の時代は以前よりも多くの手段、多くの知識、多くの勝れた技術をもちながら、
過去のあらゆる時代よりも不幸な時代として、その波間に漂うているのである。

「私は、私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」

大衆とは良い意味でも悪い意味でも、
自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、
自分はすべての人と同じであると感じ、
そのことに苦痛を覚えるどころか、
他の人々と同一であると感ずることに
喜びを見出しているすべての人のことである

人間を最も根本的に分類すれば、
次の二つのタイプに分けることができる。
第一は、自らに多くを求め、
進んで困難と義務を負わんとする人々であり、
第二は、自分に対して
なんらの特別な要求を持たない人々、
生きるということが自分の既存の姿の
瞬間的連続以外のなにものでもなく、
したがって自己完成への努力をしない人々、
つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。

今日の特徴は、凡俗な人間が、
おのれが凡俗であることを知りながら、
凡俗であることの権利を敢然と主張し、
いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。

オルテガは、「大衆」の対極に「貴族」を置きます。過去から受け継がれ生活に根づいた知を身につけ、自分と異なる他者と共存しようとする我慢強さや寛容さを持ち、自らに課せられた制約を積極的に引き受けてその中で能力を発揮することを旨とするリベラリズム自由主義)を身につけている人こそが、オルテガにとっての「貴族」でした。

よって、彼の言う「貴族」とは階級史観でいうところの貴族とは違います。
凡庸な人間であってはならない。大衆の反逆とは、「人類の根本的な道徳的退廃に他ならない」というのです。今日の悲劇は大衆が社会的権力の座に登り、支配権を持つようになったことだとして、今日の特徴は、「凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにある」と語ってきました。「ヨーロッパにおける過去の一時的政治体制は、現在のすべて政治的なものへの軽視にとって代わられてしまいました。教育は政治に適合させる必要はなくなり、むしろ政治が教育に適合していかねばならなくなるでしょう。ずっと昔にプラトンが夢見たように。」人間の人格的生命力を中心とする文化の確立を唱え、欧米の教育界にも影響力をもつスペインの哲学者だったオルテガ・イ・ガセット。オルテガがリベラルに対立する存在として捉えたのは、ファシズム全体主義)でありボリシェビズム(マルクス・レーニン主義)でした。彼はこれらを人類の歴史的文化を放棄した「野蛮性への後退」だとして厳しく批判しました。

 

国家を国家たらしめているのは、理想を実現しようとする意志そのものであり、不断の努力なしに国家は存在しえないことを大衆は忘却している。

自己の願望や理想が満足してしまえば、もはやそれ以上は何も望まなくなり、過去への敬意も未来への展望も失ってしまう。

大衆は非凡なもの、特殊な才能を持ったものを排除しようとする。

大衆とは、自分自身に特殊な価値を認めず、自分を「すべての人」と同じだと信じ、それに喜びを見出すあらゆる人間のことである。

大衆とは、すなわち「平均人」のことだ。これは数の多寡に限らない。大衆とは心のあらわれである。大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めず、自分は「すべての人」と同じだと信じ、それに喜びを見出すすべての人間を指す。逆に大衆ではない者とは、たとえ自らの能力に不満を覚えていたとしても、常に多くを自らに求める者である。

つまり人間というのは、自分の人生に最大の欲求を課すタイプと、最小の欲求を課すタイプだ。優れた少数者は前者、大衆は後者に当たる。彼らを分けるのは、生まれの出自ではない。その資質、精神性である。

しかし、昨今の政治的変革は、すなわち愚昧大衆の政治権力化だ。100年前の話なのだが、個人の自由が脅かされているのではとの雰囲気がある、自らの頭で考えない人が増えている、固有の文化が転換点にある、など現代に通底するテーマと視座を提供してくれる。オルテガの歯切れ良い語り方もよい。
労働者たちは、労働運動など集団になると一体感をもち、無意識に同一の方向に動く。個々の労働者の性質とは異なる集団の精神が生まれる。▼群衆は衝動で動き、他人の言葉を軽率に信じこむ。熱しやすく冷めやすい。大衆主導の民主主義への不信。1930年にスペインで生まれのオルテガによって書かれたものですが、現在の日本の「空気感」、「閉塞感」や、経済的にもピークを超えた日本の社会状況ととても似ていて、内容的にも得心がいくものです。

「科学者が一世代ごとにますます狭くなる知的活動分野に閉じこもってゆく」「自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間」といった言葉は、思想を持つために知を得る時に陥りがちな専門バカや狭窄的な視点への警鐘となっています。

「今日の虎は六千年前の虎とまったく同じである。というのは、虎は一頭一頭、あたかも以前に虎など存在していなかったのごとく、新たに虎としての存在をはじめなければならないからである。ところが人間は、記憶力のおかげで自分自身の過去を蓄積し、それを利用する。つまり新しく生まれてきた人間は、最初から過去の堆積というある程度の高みに立っているのである。その唯一の宝の最も小さな長所は、それがわれわれに、つねに同じ誤りを繰り返すのを避けるために、失敗を記憶することがいかに重要であるかを教えてくれることである」「民族は、過去のあらゆる時代を完全にわがものとし、それを積極的な働きをする財産として保持している」「大衆が(エリートの)少数者に対して不服従となり、少数者に服従することも、少数者の模範にしたがうことも、また少数者を尊敬することもなく、その反対に少数者を脇に押しのけ、彼らにとって代わろうとしている」18世紀のルソー「社会契約論」19世紀のマルクス資本論」、20世紀はこれと言われた社会論のバイブル。皇帝、覇王など選ばれた人のための国家と違い、近代の国民国家は、ビジョンも持たず自ら責任も取らない「慢心しきったお坊ちゃん」たる大衆が支配者になった。大衆の集まりによる自由民主主義の限界に来ている。これらは『炎上』必死の内容。「今日われわれは、明日何が起こるか分からない時代に生きている。そして、そのことにわれわれはひそかな喜びを感じる。なぜならば、予測しえないということ、つねにあらゆる可能性に向かって開かれているということこそ、真正な生のあり方であり、生の真の頂点というか充実だからである」「十九世紀のような頂上の時代の安心感は、一つの視覚的幻想である。自己の方向を宇宙のメカニズムにまかせ、自分自身は未来に無関心になってしまう結果を招くものである。進歩主義自由主義マルクス社会主義も、ともに、自分たちが視覚的未来として望んでいるものが、天文学におけると同じような必然性によって、まちがいなく実現されることを前提として錯覚している節がある」今の日本に恐ろしいほど当てはまる。さらに、「他のあらゆる時代に優り自分自身に劣る時代」や、「自分自身の運命に確信のもてない時代」、「自分の力に誇りをもちながら、同時にその力を恐れている時代」、「いっさいの事象を征服しながらも、自分を完全に掌握していない時代、自分自身のあまりの豊かさの中に自分の姿を見失ってしまったように感じている時代」日本の衰退はオルテガが定義する「真の貴族」は何かを問い続ける必要がありそうだ。