トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

情報リテラシー

全体主義はよみがえるのか、愛国と信仰の構造。このタイトル見ただけで、この講演のおおよその内容、類推している。聞き終わって、予想通り、全く自分とは、政治的スタンスも、違うし、共感することも少ないなと。

国家神道、祖国礼拝、八紘一宇愛国心と信仰心が暴走した果てに、戦前の日本がなだれこんでいった全体主義。その種がまかれた明治維新から第二次大戦まではおよそ七五年だが、戦後七五年が近づく現代の日本も、奇妙によく似た歴史の過程を歩んでいる。

 危機の時代になると、人々はなぜ国家と宗教に傾斜していくのか。戦前のような全体主義はよみがえるのか。日本の社会と政治の歪みに気鋭の政治学者と宗教学の泰斗が警鐘を鳴らす!バカな。あの国体論が復活している!安倍政権の背後の宗教ナショナリズムを斬る!だと?あの時も、笑ってしまうような、煽りかた。学者、評論家も大したことないなと。痛感。新型コロナウイルスの流行で、宗教行為は大きく制限されることになった。集団礼拝や集会は自粛され、神社からは柄杓が撤去された。葬式も規模が縮小され、会食を見合わせる場合も多い。「もしかしたら、コロナウイルスの流行は宗教にとどめを刺すことになるのでは」と。ようは、そんな、浅はかな、見方しか出来ない人で、以前からそのようなこと述べてる人であるからして見ても驚きもしない。宗教を身近に感じる人、それは、死と向き合っているか、それ以外となると、世を少しでも良くしようとする市民活動家か、その真逆でもある、極悪非道の汚名でも、受けてしまった無実の罪人。そういったかたのほうが、ホントは宗教の真実に近いところに居るかもしれないのだ。平々凡々の日常の繰り返しに限っていえば何ら.疑問も感じないできた人には、特に感得しずらいことで、あるかもしれないのだ。なんか、自分はそのように言われた方が、納得も、できようというとらまえかた。

 

「問われる宗教と”カルト”」。なんだ、こりゃ。宗教社会学は、若い時の選択専攻でもあったから、馴染みのない話題でもない。カルトの定義は、となると、色々議論もあるんでしょうが、カルトの語源はキリスト教に由来している。まぁ、カルトと異端と同義に捉えることに異議は無いが、宗教に名を借りた反社団体の横行、それをさも、宗教の派生的害のように、安直そのものの訳じり顔で解説されてしまうと、それは、違うだろうと。人間の内在している罪からの側面、無視するよういう人もおれば、そそのかす人とそそのかされる側の人間があるだけさ、という人も。

自分の場合は、「走れメロス」のセリニンデイウスのように、友の誠実に応え最後まで信じ抜く世界のことであり、それに感応した王様までが、ワシも仲間に入れてくれないかいと

いう、究極の理想社会のことであり、何も、現世、現実社会を捨てた、あの世の世捨て人が選択する、あの世の話でもなさはそうにも思えるのだが。哲学に合い通ずる世界でなくして、なんの宗教。宗教の存在価値は、そのようにも捉えている。

 

国際社会の人権意識、人権宣言の数々もそのようなものに根差したものであり、昨今、無力と嘆かれる国連の創設も、そういった欧米社会に根差した宗教文化にも支えられての淵源、そこに言及する解釈もある。

 

メディアの浅はかさは、僅か数十年前の歴史しか見ない、近視眼的なものに囚われすぎてしまっている。先の戦争すら、講演者の生まれにも時代の反映をという他ないのか、薄っぺらさと、認識の違いのあり様も、様々にある事を思い知ることに。

 

安倍ガー。それに、追随することに気をよくする人もいれば、あの時からでもないが、より、保守に親近感を、抱く様になった自分の様なものまで。色々だなぁと。