トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

金庸・東洋のデュマ

f:id:bookcafe911:20210329175652j:plain



男も女も正義と友情と名誉を重んじるナイスガイが多く登場する。もちろん欲に固まった極悪人も登場する。またウイグル族が奪われたコーランを取り戻すために現れるなど、中国ならではの国際性・スケールの大きさもある。ストーリー展開がたくみで意外性があり、ロマンもある。

書剣恩仇録〈1〉秘密結社 紅花会 (日本語) 単行本 金庸(きんよう)著

 

f:id:bookcafe911:20210329180858j:plain



金庸(きんよう)、1924年3月10日 - 2018年10月30日

香港の小説家でもあるが
香港の『明報』とシンガポールの『新明日報』の創立者でもある。

文学以外の活動


1959年5月20日に創刊した『明報』は中国語圏のみならず、世界的にも影響力を持つ新聞で、金庸は創刊以来、武狭小説の連載と共に社説の執筆も手がけてきた。中国で文化大革命が行われていた時期、金庸共産党の施策に反対する態度を明らかにし、左派の論客たちと紙上で激しい論戦を繰り広げた。一時は身の危険を感じ、香港を離れたこともあったほどである。

 

香港の中国返還が決まるや、返還後の香港の政治体制を決める香港基本法起草委員会に、中国側の推薦で選ばれた。一貫して共産党を批判してきた金庸が中国の推薦を得たのは、香港内外でのその影響力が考慮されたことに加え、中国の政治指導者層内部にも、金庸の武俠小説の愛読者が少なくなかったからと言われる。金庸の提出した香港の政治体制についての法案は、現実を直視して香港の政治的安定を優先し、中国の許容範囲内での民主主義と自由を認めるというものだったために、香港では不評で、特に民主派からは総攻撃を浴び、香港の初代行政長官を狙う野心家との非難も出た。だが、1989年に天安門事件が発生すると、即座に中国への抗議声明を発して委員を辞したことで、世間を驚かせた。法案自体は、その後紆余曲折を経たものの基本的には金庸の草案に沿ったものとなっている。

その後、『明報』を辞して引退したものの、各方面での活発な活動を続けており、中華圏において、大きな影響力を持っている人物の1人である。

金庸は、香港を代表する名士の1人であり、小説の執筆は多彩な活動の一部に過ぎない。

元々は外交官を目指して大学で勉学に励んでいたが、当時の共産党思想と相いれない金庸の思想が敬遠され、外交官の道が閉ざされた金庸は、勤めていた香港の新聞会社で新聞連載の形で武侠小説を発表していきます。


映像化作品
中華圏(中国大陸、中国香港、台湾、シンガポールなど)で数え切れない程のテレビドラマ、映画、ゲーム、マンガなどが製作されている。

金庸の作品は中華圏で多くの人に読まれており、ほとんどのファンが原作を熟知している。そのため、映像化作品は脚色が求められる傾向にある。しかし、その結果、原作とかけ離れたものに仕上がる場合が多く、そのため金庸自身は映像化作品のほとんどに不満を持っている。時には厳しく抗議するときも。

金庸の作品は、歴史が大きく動いた時期を背景にしているものが多く、史実と想像上の人物を絡めて物語を展開していきます。また、その性質上、物語の中で、民族間の争いや葛藤が描かれることが多く、しかしながら、伝統的な中華思想に縛られない公正な描かれ方は金庸の小説の大きな特徴の一つです。

 

また、ほとんどの話の主人公が、武術に優れ、厭世的・禁欲的で義侠心に厚いものの、ちょっと思慮に欠ける、という性質を有しており、それに主人公を一途に思う、けなげで知恵のまわるヒロインが力を貸して、物語を展開していく構図が多くなっています。

金庸武侠小説の最大の功績は、それまでは大衆娯楽ものとして一段下に見られていた武侠小説を、知識人の間でも好んで読まれる文学としての立場を確立させたことにあると言われて ます。

1924年2月6日生、浙江省海寧県出身。
1948年より香港に。1955年処女作「書剣恩仇録」を発表、壮大かつロマンあふれるストーリーで一躍、武侠小説の雄となる。以来12部の長編小説を創作、香港・台湾及び中華世界において、幅広い層の読者に支持を得て、国民的作家となる。70年代半ばに引退。1995年現代中国の代表的な作家を選んだ20世紀中国文学大師文庫で魯迅、沈従文、巴金に続き、第4位におかれる。一方、香港を代表する日刊紙「明報」、文化誌「月刊明報」を創刊。内外の政府首脳とも対話を重ね、中国返還後の香港のあり方を決める“香港基本法”の起草委員を務めた。1993年「明報」の社主を引退。香港特別行政区準備委員会の香港側委員も務めた。1999年浙江大学人文学部長に就任。主な作品に「碧血剣」「雪山飛狐」「射雕英雄伝」「天龍八部」「連城訣」などがある。

 

香港の小説家でもあるが
香港の『明報』とシンガポールの『新明日報』の創立者でもある。

『明報』の論調は、中立的であると評され、『大公報』や『文匯報』など中国政府・共産党に近い左派紙に比べてリベラルであり、『蘋果日報』などと比べるとやや保守的とされる。

1990年代中頃以降、中国に対する批判的な論調はあまり見られなくなったが、2017年12月26日の紙面では六四天安門事件を取り上げるなど一辺倒な姿勢ではない。

センセーショナルな大見出しを打つことは少なく、レイアウト・色彩といったデザイン面はおとなしい。
アダルト記事はなく、中立的な用語を使う傾向が強い。
香港の小中学校で購読されることが多い。
最近は、市場競争の影響で大衆紙に近づいているという指摘もあるものの、今も厳格なイメージがある。
香港市民からの信頼は比較的厚く、2010年の香港中文大学の調査によると、地元の中国語新聞としては信頼性の評価が最も高い(地元新聞全体のトップは英文のサウスチャイナ・モーニング・ポスト)。読者には知識層が多いとされる。


『明報』に社説と武狭小説を毎日執筆連載して、人気作家としての地位を不動のものとすると共に、かつて属した『大公報』などの左翼系の真の目的が劉少奇国家主席打倒にあることを、終末期には当時権力の絶頂にあった林彪の失脚をそれぞれ予言し、政治評論家としての才能も遺憾なく発揮した。1972年には『鹿鼎記』の連載終了と共に、突如作家としての断筆宣言を行って世間を驚かせた。

 

香港の中国への返還が決まると、香港基本法起草委員会の委員に、中国側の推薦で任命されたが、返還後の香港の政治体制について、金庸が示した方案は、香港の政治的安定を優先させ、中国側の意向に沿ったものだったために、民主派から激しい非難を浴びた。ところが、1989年に天安門事件が発生するや、金庸は抗議して即座に委員を辞し、再び世間を驚かせた。

その後、金庸は『明報』を辞し、持ち株の大半を売って引退した。しかし、引退後もオックスフォード大学の客員教授に選ばれたり、香港特別行政区準備委員会に香港側の委員として参加するなど、その活動は衰えていない。1999年より浙江大学の人文学院長を務めた。2002年には、15作品ある自身の武狭小説の改訂を開始した。

2018年10月30日、香港の養和病院で死去。94歳没

金庸の業績に対して、相当な数の栄誉、勲章が授与されている。

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (2020/11/22 )等から検索チェック。

 

 

その他【検索キーワード】「金庸小説の醍醐味

 

f:id:bookcafe911:20210329175742j:plain

 

f:id:bookcafe911:20210329175855j:plain

 

f:id:bookcafe911:20210329180035j:plain

 

f:id:bookcafe911:20210329180112j:plain

 

f:id:bookcafe911:20210329180217j:plain

 

(備考)

八四年(同五十九年)十二月、中国とイギリスは中英共同宣言を発表し、九七年(平成九年)七月に香港は中国に返還され、中国の特別行政区になり、返還後五十年は、社会主義政策は実施しないことが示された。
資本主義は維持され、一国二制度となる


テキスト人革  誓願 百十八

 

香港の未来を思いつつ、中国の要人たちと会談し、歴代の香港総督などとも交流を重ねてきた。
 そして、今回の九五年(同七年)十一月の香港訪問では、著名な作家で、日刊紙「明報」を創刊し、「良識の灯台」として長年、世論をリードしてきた金庸と会談した。 (1995年11月)
彼は、返還後の香港の社会体制を決める「香港基本法」の起草委員会の委員も務めていた。
 二人は、「香港の明日」「文学と人生」をはじめ、幅広いテーマで五回の語らいを重ね、九八年(同十年)、対談集『旭日の世紀を求めて』(日本語版)が発刊されている。