生きるとは、世界とかかわりをもつことにほかならない。 世界がわれわれに示す一般的様相は、われわれの生の一般的様相でもある。
『大衆への反逆』は、大衆の危険性について論じた本である。 これは今の日本にもよく当てはまる。
マスコミと大衆受けする政治こそがここで批判されている。いわゆる劇場型政治の問題。
現代は、あまりの豊かさに自らを見失っている時代である。
地球の裏側のニュースもすぐ伝わってくるし、過去に関するわれわれの知識も増大した。我々が手に入れることができるものも、かつてなく豊富である。
世界は空間的・時間的に拡大した。人々の移動と交易。
かつて庶民は、自分が「思想」を持っていると思ったことはなかった。これに対して、今の平均人は、真の思想を持っていないにもかかわらず、自分が「思想」を持っていると思っている。
これからの社会は良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれない。しかし、悪くなることを予測させるような事実が多い。
優れた人は、自分は不完全だと考えている。しかし、現代の大衆人は自分が完璧だと思っている。
文明の原理に関心をもっていない人々が社会を指導しているということである。
貴族、すなわち優れた人間は、自らすすんで奉仕をする。貴族は努力の人である。
現代の大衆人は、文明世界に現れた原始人なのである。「慢心しきったお坊ちゃん」の時代なのである。
権利を単に受動的に享受している。
19世紀より前、生とは障害だらけで苦しいものだった。
ところが、現在の大衆は、それを空気のようなものだと思い込み、それらを支えている仕組みに恩義を感じていない。
自由主義的デモクラシーと科学技術の発展はかつての貴族が築いてきたもの。
しかし、今や大衆が凡俗であることの権利を主張し貫徹しようとしている。
大衆人は、国家を自分のものだと思い込み、国家を動かして創造的な少数者を押し潰すだろう。
今の世の中、「大衆」が充満している。今や大衆が権力を握っているが、政治は場当たり的で未来像が無い。
新しい規範を生み出す能力が無ければ、単に子供のように飛び跳ねているだけである。
創造的な生には、節制や品格や刺戟が必要である。
人間には献身が必要であって、自分だけのために生きるのではない。
生の現実を直視する人は、自分が迷える者であることを知る。
科学を支えている科学者も皮肉なことに大衆人である。科学者は専門化されており、ごく小さな領域のことしか知らない。 にもかかわらず、彼らは専門分野以外に関しても傲慢に、すなわち大衆人として振舞う。
大衆人の特徴は以下の通り (1) 生は豊かで容易だと思っている (2) 自分は立派だと思っていて他人の言葉に耳を貸さない (3) 自分の意見を直接行動で押し通そうとする
つまり、「慢心しきったお坊ちゃん」の時代なのである。
ロシアは、マルクシズムでカムフラージュした新しい民族である。アメリカは、技術でカムフラージュした若い民族である。 いずれもヨーロッパが生み出した文化でカムフラージュした歴史の浅い民族で、まだ世界支配を獲得することはできていない。
義務から逃げて、権利だけを振り回している。傾向においては、大衆は、自分の能力を過信し、慢心する。
彼らは自分が多数派であるということにあぐらをかいている。彼らは、自分を超えている者に畏敬の念がない。
平均人が権力を握ると、平等という名の下に優れた人々を抑圧する。大衆は、時代の風になびく。
大衆は「平均人」。他人と同じであることに心地よさを感じ、安心してしまう。
文明は、異なる考えの人々が共存するために、手続き、ルール、礼儀などを作ってきた。
かつてのコミュニティの中で生きてきた庶民には自分の足場があった。庶民と大衆は違う。大衆人にはモラルがない。
国家(ステート)は、出自の異なる集団が共同で何かをしようとすることによって生み出される。
しかし、現在の平均人にとっては、生は安心で安楽である。大衆は、自分が自分の生の主人であるような気分でいて、そのような環境が維持される仕組みには無関心である。
現在の大衆は、傾向として環境に甘やかされているために、自分に優る者の存在を認めない。
しかも文明を正しい方向に導く力が無い。
馬鹿は休むことを知らない。19 世紀の貴族は、人々に経済的手段、肉体的手段、市民的手段、技術的手段を与えた。しかし、今や大衆は大きな顔をして、それら文明の起源を知らない。
高貴な生と凡俗な生
もちろんここで言っている高貴な生とは、世襲貴族のことではない。
自らすすんで奉仕をする。権利が奪われそうになれば、自ら闘って奪い返す力がある強い人のことである。
中身が薄っぺらなものを
やたらと改革だとか維新だとかの
表層部分だけで
惑わされることのない