トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

宗光の没後120年

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日本が主導すべきと感じること、今こそ多いのではと。

すくなくとも、首相の外交、評価しています。

政権交代で一時期危うくした日米関係が修復に向かいかけたのは評価できるところか。

それよりか、アメリカのほうが外交の基盤が揺らいできているきらいがある。そっちの心配をしなければならないのかもしれない。


とくに安倍首相は、冷戦逆戻りの感ある中、ウクライナとロシア双方に目配りなんかして、ロシア封じ込め、西側と共同歩調を示しながらも、日本とロシアが抱える北方領土問題では、話し合いの糸を切らさないというシグナルを見せるところなどからもまあまあ評価できます。

民主主義と人権とを尊び、力による現状変更の試みには断固反対すると主張続けてきたという言やよし。

左傾がかった人にかかれば、戦前回帰、復古主義平和憲法を否定して、戦争にむかおうとするものだとかいう人もいますけれど、まあ、それは先入観のあるかなりうがった見方。

戦後のあゆみを否定するものだと極論する評論家もあらわれましたけれど、アセアン諸国、インド、中東訪問、オーストラリア、それからアメリカと精力的にまわられて、戦後70年談話しかり、安保法制整備しかり、

しっかり、理解と協力を取り付けても来ている。

いっときはマスコミのへイトスピーチなみの低レベルこき下ろし合戦は、ナチスにたとえられ安倍一強は倒さなければというところまで。

実際のところ、それこそ、そういう例えを拡散するマスコミのほうというか、バラエティー番組の編集姿勢のほうがへイトではないのかと思ってみたり。

冷静さを装い、多少は溜飲を下げたかのような、報道の仕方。
そんな中、首相はというと、一切のそのような報道なんかに迎合もすることなく、相手をましてや、非難することをさけ、
遭難で亡くなられたということにお悔やみに參られる姿が。あれは韓国セマウル号転覆事件の時。
だから、韓国はだめなんだよの声聞かれる中、海に亡くなった高校生の遺族を励ます安倍首相の姿。評価しないマスコミの立脚点は反体制のまま。

脱却して欲しいと真から思うのは意図的な反日教育のほうであるし、マスコミが第4の権力といわれる所以もそこにある。
マスコミ関係者には自戒してほしいものだなと。
これは、双方の国にいえること。

それは振り返る戦没者追悼式にも。

首相の言葉には素直に聞けた一人だけれど、マスコミからのあれは朝日新聞ですか、「加害責任に言及なしの挨拶」という安倍首相への批判記事にはまいりました。坊主憎けりゃ袈裟まで憎しってな感情的な論調。いつまでやってんだろうという気持ちに。
そう受取らざるを得ないような感じになります。

謝罪を首相に要求って、国内であの70年談話。マスコミの理解の程度が疑われるほどに。浸透されていないのか
まあ御用新聞に思われたくなくて紙面も割かれていないことの影響もあるのかと勘繰ってしまいます。

だから、安倍首相、だから、韓国はいうまえに、だから新聞朝日、マスコミはどうなのという気持ちが先行してしまいます。

「だから、韓国はだめなんだよ」というのは、今こそ真に言わなければという時なのではと。中韓にクギ 韓国には慰安婦合意履行要求。


外交では河野太郎。なかなか評価して見ています。本人いわく、「親父の河野洋平とは政治的スタンスは違います」とハッキリ。


陸奥宗光の没後120年
国家の命運を左右する外交の重要性を再認識し、日本国民としての誇りと自信を取り戻す意味からも、宣揚しなければならないことが多いのではと感じています。

宗光の父は、紀州藩勘定奉行 伊達宗広。10歳頃、幕末の政争により父が失脚、和歌山城下から追放。
勝海舟の神戸海軍操練所に入所。後、坂本龍馬海援隊に入隊。
坂本龍馬に「二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わせたほどの才能を発揮していく。

陸奥宗光は和歌山に生まれたのだった。

龍馬の手紙の中にみる陸奥宗光との関係。その手紙の中で龍馬は陸奥のことを『商法のことは陸奥に任せている』
と書いてあるそうなのだ。龍馬にとって陸奥宗光は全幅の信頼を寄せる同士の一人でもあっただろう。
坂本龍馬が暗殺された後、陸奥宗光明治新政府の役人となる。
外国事務局に勤め、外国軍艦の購入に尽力した後、廃藩置県後の神奈川県知事などを歴任する。

しかし、専制的な明治政府の方針に反対するようになる。政府転覆計画に加担したことによって陸奥は、山形で5年間近くの監獄生活を送る事に。
山形の監獄では、ひたすら勉学に。この前後、陸奥を支え続けたのが亮子夫人である。
山形の監獄を特赦によって出獄し、ロンドンに留学する、ここからが陸奥宗光の真骨頂の始まり。

40歳にしてロンドンに渡った陸奥宗光は、イギリスの政治・内閣制度・議会制度について徹底的に研究を行う。
2年近くのイギリス生活を終え帰国した陸奥は、外務省に入省しアメリカ公使となる。2年後には帰国し農商務大臣として初入閣、2年後には外務大臣に就任し、不平等条約の改正に人生のすべてを捧げることとなる。
条約改正の3年後、陸奥宗光は54歳でこの世を去る。最後まで陸奥を支え続けた妻亮子は鹿鳴館の華とも呼ばれ、陸奥の死後3年にして、45歳で陸奥のあとを追うようにして亡くなっていく。


紀州藩脱藩、坂本龍馬との出会い(海援隊へ参加)、新政府へ参画、渡欧。藩閥政府批判、政府顛覆計画への加担、逮捕・繋獄、外遊と、激動の幕末・維新期の一断面を全て体現した人物。
陸奥は神奈川県知事(県令)を短期間ながら務めている。陸奥自身は「多少県制改革等の事ありたれども、茲に特記する程の要なし」と述べているが、有能な人材を登用し、日本全国に先がけて警察制度の創設や船舶調査の実施を成し遂げ、指導力を大いに発揮したといわれている。

日清戦争とそれに続く大国からの干渉、それらへの打開・奔走。
我が国が近代国家として主権を回復し、19世紀の欧米列強がひしめく国際社会の仲間入りを果たしたその立役者の『陸奥宗光』。
治外法権の撤廃と関税自主権の回復に尽力。


現代はというと、尖閣諸島等の問題や拉致問題駐留米軍にかかる諸問題、北の核ミサイル問題等、喫緊の課題に直面。

いずれも主権がおびやかされるというままに。


今こそ、先人の偉大さ、先見の明を再認識し、

近代日本の礎を築いたとき以上の声価を外交で期待します。

陸奥宗光没後120年に

 

政治家の皆さんへ

思うこと多し。