トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

ゆとり世代≠さとり世代

息子とダブって自分も平成生まれの新世代に関心が向いてしまう。どこから、来たの?故郷は?。交わした挨拶から振り返っていることがある。表面はどんな顔にも化けられるカメレオンのような君。礼儀正しく、一方で冷めたというか、冷静なところ。

団塊の世代やバブル期を謳歌したおっさん達に囲まれていく彼。

ゆとり教育を受けた世代が社会に出て、結果をさとり、高望みしない世代という意味でさとり世代とも呼ぶらしい。言い得ている部分と、そうでない部分。そういう使われ方なら、少々の違和感。彼の場合は違うようだ。

ゆとり世代と呼ばれたくない胸の内を推し量っていく。君の本当のこころの孤独を。


新語のさとり世代を象徴するように、彼の目からも、見ている限り周囲の若者は無駄な努力や衝突を避け、過度に期待したり夢を持ったりせず、浪費をしないで合理的に行動するように一見、写っていく場合もあるらしい。

上昇思考より、小さな幸せ。しかし、君はそれらに一番危惧していることもわかるのだ。小さく地元でまとまる危険を。地味で堅実なように聞こえることが事実は危うきことを。大海を知らず井の中の蛙に留まることの薄っぺらさの危険を。君は同世代にもっと警告しておきたかったのかもしれない。

グローバル経済下の流れは地域の隅々にも影響を与えていくものでもあることを。経済の脆さはじぶんのことだけかまけていればいいというミーイズムを、どこまでも擁護しては、くれないものでもあることを。

そして、その一方で君は同世代を庇うような発言もしている。

物心ついたときにはバブルが崩壊し、不況しか知らなかった同世代のこと。お金が無いから分相応にしていただけのことがそれほど魅力に欠けることなのかという怒り。

あたかも不景気により、不自由を悟らざるを得なかった世代がそこにいるように。

結果のわかっていることに手を出さない。
「車やブランド品に興味がない」「欲がなく、ほどほどで満足する」「恋愛に淡泊だ」欲がないとは、よく言ってくれるよ、世間というやつは、と。

お金がないとシンプル合理的になるのは当然のことだったはず。

奨学金も毎年、返していかなくちゃならない。親に負担はあまりかけたくない。そうさ、本当のところの君の胸の内。
(研究者も非正規雇用なのだという)社会へでてからの現実感からの一言。

事業仕分け、あやうい政治ショー。バッシング。加えて地方行政の統廃合問題。あおりをくったような予算見直しと削減、削減されてそれはよかったのか。そもそも、その科学研究予算削減は間違いではなかったのかとの、反発と憂い。

知ることはなかった。君の本当のこころの孤独を。
今の君はヘッドハンティングの誘いがあっても、推薦のおかげもあった今の職場のことだからと教授の顔を立てて残ることにしたという、なかなか古風なところのある、君でもあることよ。

他の世代から生存競争の厳しさを言うけれど、全体が右肩上がりの、いい時代の恩恵を味わっている世代からの指摘は彼には響かない。

教科書改訂なんかで、歴史の認識がどうなるともおもっちゃいない。教科書そのものが一つの物差しとみるだけなんだから。
ゆとり教育の世代と冠されて、その後に勝手にゆとり教育の弊害を語られたって、まったく彼にとっちゃあ、勝手な世の中であることよ。

モノより、思い出。共感できる物事を絆いでゆく。生き方。

団塊世代」も「バブル世代」も、 自分らの世代の方が優れてるってみんな勘違いしすぎている場合だってある。
いずれの世代も、そのような優先順位で、もっと共感することがあるのではないかと、ふと空を仰ぐ。

“ものづくり日本”の父、ヘンリー・ダイアー

TBSラジオで聴いてました。2016.12.9 金曜日の内容、よかったので、再検索。
 
明治時代に日本の工業の発展に貢献したヘンリー・ダイアーという御雇い外国人のこと。

日本政府はなんと、大臣より高い月給を、しかも24歳の大学を卒業したばかりの青年ダイアーに払っていたというのは驚きでした。

 


スコットランドと日本とのつながりは、幕末時代にさかのぼる。1863年(文久3年)、後に「長州ファイブ」として描かれる若き長州藩士5人が、海軍強化のための洋行計画を立てて密出国。彼らは、徳川幕府を倒そうとする薩摩・長州藩を支援していたジャーディン・マセソン商会の周旋で、ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアレクサンダー・ウィリアムソン教授の指導を受けた。そこから山尾庸三は1人でスコットランドグラスゴーへと向かい、造船所の職工として働くかたわら、アンダーソン・カレッジの夜学で学んだ。夜学で山尾と同窓だったヘンリー・ダイアーグラスゴー大学に進み、のちに来日して山尾の創設した工学寮の初代都検(教頭)を務めている。

 


19世紀のスコットランドは、教育制度において、イングランドをはるかに凌駕していた。イングランドにオックスフォードとケンブリッジの2大学しかない時代、スコットランドには既に1413年創立のセント・アンドリューズを始め、グラスゴーアバディーンエディンバラの4大学があった。1860年代において、高等教育を受ける人口がイングランドでは1300人に1人のところ、スコットランドでは140人に1人と、10倍近かった。特に1451年創立の名門グラスゴー大学は、学生の5人に1人が労働者階級出身で、貧しい農家の息子が大学教授になるなど、社会的流動性の低いイングランドでは考えられないような立身出世があった。またスコットランドでは実学教育が重んじられていたために、経済学者のアダム・スミスや技術者のジェームズ・ワットを輩出したグラスゴー大学は、まさに産業革命の原動力となっていた。


明治維新によって封建制が崩れ、殖産興業による近代化を急ぐ日本が、社会的流動性が高く実学教育を重んじるスコットランドの教育制度を取り入れ、高等教育機関の創設でグラスゴー大学を手本としたのは正解だった。グラスゴーで学んだ山尾の体験を原案とし、ダイアーの構想した教育課程を受け入れ、技術者養成を目指す工学寮が開校されたのである。ジャーディン・マセソン商会のヒュー・マセソンの従兄でグラスゴー大学の初代工学部教授であったルイス・ゴードンの助言もあり、スコットランドからは多くの技術者たちが、「お雇い外国人」として日本人の指導にやって来ている。

工部大学校の卒業生の多くが、グラスゴー大学を始めとするスコットランドに留学し、1914年に第一次大戦が勃発するまで、グラスゴーのダイアー邸ではいつも日本人が歓待されていた。


イギリスの大学というとオックスフォード大学ケンブリッジ大学を思い浮かべますが、当時、技術の分野で世界最高の大学は1451年に創設されたグラスゴー大学でした。文系では「国富論」を書いたアダム・スミスや、「金枝編」を書いたジェームズ・フレーザー、理系では蒸気機関の改良で名高いジェームズ・ワットや、アインシュタイン以前の最高の天才といわれるウィリアム・トムソンが卒業している名門です。ダイアーはその世界最高の大学(機械工学と土木工学)を主席で卒業したばかりで、突然、東洋の島国に行ってほしいといわれ、多分、複雑な心境だったと思いますが、恩師のウィリアム・ランキン教授の推薦で1873(明治6年)、8人の教授陣とともに日本に到着します。当時の平均寿命は現在より短かったといえ、大学を卒業した直後に発展途上国の大学を創って教育できたと考えると、大変な能力だったと思います。その分、給料は高額で、明治政府のナンバー2である右大臣の岩倉具視の月給が600円のときに、ダイアーの月給は660円。なかなか換算は難しいのですが、現在の金額では月給200万円、年俸2400万円程度ですから、いかに期待されていたかが分かります。

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大日本―技術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像

シェアしたいですね。この内容。

当時の日本論といっても、ちっとも古びてはいない明快な分析。

 

 

 

 

 

 

 

日本論ということでは
対比してみたい、
以前に読んだことのある、戴季陶の『日本論』。

興味深く読んだ記憶が。

お雇い外国人に関しては主体を失うことなく活用した日本への羨望の眼差しが伺えるとともに
母国中国の打算的、拝金主義の横行を憂えているところなどは着目した部分です。


日本に対する忠言も含まれながら記されているだけに戴季陶の
愛国の概念についてより深く考えさせられます。

 

老婆心ながら

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老婆心ながら言っておこうかと、
そういう言葉を投げ掛けられた心象風景も
懐かしく。
 厳しくも暖かい眼差し。

 順送りなのか。
かつての親子関係が逆転するように。
そんなこともあったことを。
あの時は帰省する度に親父がマスコミの影響を
受けて左傾化していないかと自分は心配していた。
 定年後、TV、マスコミの情報には
不自由しない親父だった。
PKO議論、日本の
政治の場で問われたとき、
 息子が積極的
 支持とは
 ちょっと親父にとっては意外だったようで。
さかんに当時の否定的論客の
口真似を
聞かされもした。
もうあれから何年、
 新しい
日本の国際貢献を期待している息子と
等分に
老婆心ながら、今は
 マスコミの論調の相も変わらなさを
見つめている。

シユタージユもゲシュタポも否

安保闘争後の学生運動の火種は形を変え続いてはいたが、組織に属するということは避けて、心情的左派という、そういう感覚で学生時代を送る
人が多かったような気がする同世代に対する自分なりの見方。

自分はというと、心情的に愛した分以上に、嫌いになっていったなと。
それは、やはり、文化大革命というボロを見せつけられてしまったからかもしれない。
ある人に言わせれば、誤った、指導者によることで、それは本質ではないんだとか。

もうそのころには疑いから、確信に。
理念的にも完全に魅力はなくしていたなあと。

新・映像の世紀。番組感想の続きで言えば


シュタージュからの監視に苦悩する国民、これは東ドイツの崩壊前の映像。
プラハの春民主化の芽生え。これは、そういった圧政、東側からの離反を目指すチェコスロバキアの動き。
新任のドプチェク党第一書記のもと、検閲の廃止や政党の復活などの改革が行われたが、八月ソ連・東欧軍が介入し、改革派指導者を一時ソ連に連行してしまった(チェコ事件)。
チェコスロバキアで思い出すのは東京オリンピックで女子体操総合の金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカのこと。
その後ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一化され、チェコスロバキアにもビロード革命がおこり、共産党政権が崩壊。

改革の背中を押したのは、ゴルバチョフだったなあ。独り立ちをせよと、梯子を外されてしまったかのような東ドイツのホーネッカー。あの時が転換点だったような。その後は分水嶺のように。
ベルリンの壁、崩壊、また一方でソ連邦崩壊へと続く。まさに舵をゴルバチョフ自らが切ったかのようだった。




日本の志位委員長のもっと前の不破委員長。TV番組でこうのたまわっていた。
東側陣営の陰りの流れの中で
司会者から問いただされて
「昨今の東西で言えば、東側の陰り、どう思われます」
社会主義諸国の例で言えば、見習うべきところではあえていうなら、ルーマニアですかね。」

そのルーマニア、2ヶ月後、民衆革命によって倒されてしまうのだった。いかにそれまで、チャウシェスク社会主義独裁国家だったか。

倒れてみて明らかになる恐怖政治。

自らを革新政党というわりには。グラスノチ、ペレストロイカ。新思考外交。このゴルビー旋風の改革の狼煙。その本質にも気付くことなく。
というか、理解できないんだろうな。あらたな世界史的変動を。

リベラル派のゴルビー批判のなかにあって、自分の場合は間違いなくゴルバチョフを羨望の眼差しで見ていたことを振り返っている。

国連pko成立時は当時社共は戦争する国になるとかいいましたけれど、
その後の評価は日本の自衛隊国際貢献に称賛の声が高いのが実情だ。なになに野党共闘でだと。

昨今の安保法制もそうなるだろうと踏んでいる。

湾岸戦争の頃の指摘、やはり、歴史学者、林健太郎の「~警告」どおりだなと。

食法餓鬼にならないように

右手にコーラン、左手に剣

それから、次に思い浮かべているのは_渋沢の言う論語算盤!右手に論語、左手にそろばんということになるだろうか。


 論語といえば孔子ということだけれど、
 主長するところは倫理という言葉に置き換えて受け取っている。


 道徳と経済の合一を唱えたのが渋沢栄一だ。

 日本資本主義の父。

 次に思い浮かべるのは日本人の倫理観を世界に解説しようとされた新渡戸稲造


 太平洋に架ける橋たらんと。

 平和を希求され、異文化理解の先導を。


 剣にまつわる言葉では

食法餓鬼にならないように、戒めとして

次の言葉を拝するようにしています。

つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣
  は信心のけなげなる人こそ用る事なれ


(登録済みの_というのがわかる)父の遺品のなかに軍刀が、

戦死した兄弟の形見

ということで、誰にいうでもなく、こういう文を書いてみることに。

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拘置所にタイムスリップ

都内巡りその跡地で今は別の建物が。春に訪れた場所。昨日見た夢の内容を思い起こしては考えている。夢の内容によっては自在に歴史を行き来しているわけだから、そういう意味ではタイムスリップだと自分なりに合点。時代は昭和でいえば9年10年11年、自分の生まれてもいない頃のこと。まるで演劇、戯曲の主人公を演ずるように日本にたどり着いた異国人の役を演じていた。ジョンソンという変名をもつ実のところは赤軍第4部から派遣されたコミュニストゾルゲに成り代わっているのだ。ドイツ人ジャーナリストという触れ込みで周囲からの信用も勝ち得てしまっている存在なのだ。そして、夢のなかで反芻するもう一人の自分は、冷静にそのジョンソンの胸中の内奥を想像しながら哲学しているのだ。場面は尋問と黙秘の日々にみずからピリオドを打った瞬間。その後の尋問官からの言葉「何か、言い残しておく事はあるかい?」しばしの沈黙。「在りません。」問い詰める相手のその眼は決して勝ち誇っているのではない。例えて云えばフルマラソンの最後の伴走者でもあったかのように。言い残す事はないとそう言ってはみたものの、心の中では思い起こすことはあったのだ。その一つはエリセーエフ君のことだ。年齢もそうだがジャポロニストという視点に立てば先輩格の彼。わたしが、日本に魅せられたという以前より日本を愛してもいただろう。バイクで三宅坂、神保町、事故ったとき、ベットで臥せっていたときに君の書かれていた新聞投稿にも目をとおしていた。帝政ロシアの貴族の子弟とコミュニストが異国日本で遇いまみえるなんて、なんとも不可思議なことかと。夢想している。評論を読み思考するうちにブルジョワの君のおぼろげだった人物造詣も修正され、鮮明になっていった。日露戦争がエリセーエフの日本、極東への関心の第一歩だったろうが、左翼思想に傾倒しはじめる時期のあった君のこともわかってきたのだ。その後君は主張する審美眼と宗教的観点から左翼思想とは一線を画していくのだが。自分は諜報の職務上、日本の指導者層からの君の噂も副産物のように耳にした。東北のズーズー弁まで理解してしまう変わった愛される外国人の君。留学生として優秀な成績で、明治天皇出席のもと銀時計組とともに最前列に。陛下にしても印象を強烈に残していたのだろう、陛下が君のことを詳しく周囲に尋ねられていたらしいことも聞いてしまった。帝政ロシアの庇護のもとに、それまでの自由な勉学の日々だった君。その君の教養に嫉妬する自分を確認していた。帝政崩壊後、彼はいまはどこに流浪しているだろうかと。できうれば忌憚なく語り合いたいとも思っていたのだ。しかし今は叶わぬこと。君の日本語で書かれた日記をひもといていた記憶にある6月2日の記述部分。ペトログラードの獄舎内のこと。「解放されるか銃殺されるか、両者のうち一つ。それですから私はできるだけ気が鬱(ふさ)がないようにして、いらざる心配をしない。午後の二時頃番人が来て件の男とが私を下の廊下に連れ出した、そこにはすでに十八人の囚人が立っていた。裏の小さい戸から出て下庭を通った、そこには一本の桜の木が咲いていた。それを見ると私は日本を思い出して、どうかもう一度日本の桜を見たいものだと考えた。」いままさにわたしの心境と同じだ。彼のように解き放たれるであろうかと。夢の内容は続いてさらに思い出す。思い残す二つ目のことだ。それは拘置所から、また別の拘置所に移送されるさなかに出逢った車中の日本人思想犯のことだ。治安維持法違反、不敬罪のかどで取り調べの長身の壮年で、同じ護送車内での少しばかりの短い会話のうちにも親しく感じた壮年。その罪状があまりにも不具合ではないかという印象をもった壮年のことだ。わたしのそれまでの習性からして相手の考えを読み解く作業に掛かる事は本能的なものだった。事業家でもあり、信仰人でもあるというその壮年の考えている事はそれは想像を超えてそれまでの範疇にあてはめようのないもののように思え残念する他なかったのだ。「あなたは、どういう罪で」その壮年からの問いかけもあった。あのときも今も日本的ファシズムの兆候は予想されていたし、日本の軍部と政界の動きは刻一刻と波瀾を含んできていた。だからわたしはおさらいでもするように越し方を振り返っていた。自ら志願して革命軍に、それから、戦士として、それから諜報の世界に引き立てられるようにして祖国の外の世界に至ったことを振り返っていた。ヨーロッパからアジア、太平洋問題にまで、私の収集した情報分析、それらが信頼され、とうとう風雲告げるこの極東の島国日本にまで来たのだ。わたしは送り込まれるべくして送り込まれたのだった。結局のところ、とうとう、日本官憲にみやぶられ捕らわれの身となってしまった。日本は社会主義には向かうことはないのは私の見方だけでなく、他のルートの諜報筋からだってそうだったろう。それでもそれに近い擬似社会主義、いわゆる歪な上からの国家社会主義への兆候は十分見て取れていたのだ。だから2・26事件はその興味を更に倍加するような衝撃だったのだ。自分はというとそのときはたやすくドイツの大使館にも居て刻々と入ってくる日独首脳層の収拾方の打ち合わせに耳を傾けていたのだ。そしてそれに対する情報分析を逐一ソビエト赤軍第4本部に送っていた。今後の平和はどうやって守られていくというのだろうか。それも今となってはせんないこと。護送車の壮年の呟きを思い出している「思想統制は宗教統制からはじまる。かつて聖徳太子も法華信者だったというのに、現下の日本は国家に強制されるようにして国家神道の道に統制されていく」その言からみても他の国粋主義的な法華主義者とはわたしは注意して見分けることの肝心さだけは気付いていたのだった。わたしのマークしていた新渡戸の近いところにあの壮年がいたなんて、見落としていた。あの壮年に、もう一度逢う事が叶うならそこらへんのことを深く聞いてみたいのにというのが心残りといえば心残りなのだ。私自身の聖徳太子びいきはそもそもそれ以前の奈良公園の散歩にはじまる。日本にきてこよなく日本の文化に魅せられてしまったのは正倉院の宝飾品の数々を観てからだ。そこにはペルシャ湾岸以西の影響と思われる文物も。ペルシャからむこうはわたしの祖父のバクーの地方。その後石油で潤う地。正倉院でのひとときはまさに遠い故郷の香りに出逢ったようでもあったのだ。そこに異文化を繋いでいく思想の萌芽を感じ始めていた。それからのわたしの思索は従来の思想は思想としてジャポロニストの側面を加えていったのだ。シルクロードを経由したこれらの文物、文化はすべて大乗仏教を敬う国王に庇護されるかたちで渡ってきただろうことが想像できてもいたのだ。だから、あのときの壮年の(聖徳太子も・・)という言葉には天啓にも似たような衝撃を得たのだった。国を束ねる意思。逞しく異文化を繋ぐ深い心。学ばなければならないことの多いことよと、しかし、わたしはいつか処刑されるかもしれないし、また外交取引で解き放たれるかもしれない。また、それにしたってその後の苦難もあるのだ。それ以前だって不安定な心持のうちに過してきた。革命政権のその後の内部でのかけひきやら、対立、粛清騒動が将来に影を宿していた。敵の敵は味方だとか、半端な史観が大手をふるってもきた。そんな人間を道具としか見ないような風潮にあきあきもしてきていたのだ。その反動でか日本女性に溺れたし、酒にも溺れた。最後の心残りは日本人の彼女のことだ。私の罪が彼女に及ばないことを願っている、彼女は自分の活動とは無関係なのだと。今は祈るのみだ。(無神論の君が祈るだと?そうさ、笑っておくれよ。)終。
 (これは風刺のつもりで描いたわけでなく、反面では畏敬の念を込めたつもりなのだが。)

ホテルから撮ったスカイツリーの夜景。

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遺影の中の愛犬

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ブログに載せるだって、そいじゃあ映りの良いのを選んでおくれよ。ワンちゃんの僕だって気にするのだ。それに額縁にいれて眺めてくれるのかい。なんで、そんなに見つめてくれるのさ。そんなら、なぜもっと生前に見つめてくれなかったのさ。どうでもいいけど、どうせ見つめられるなら、同性のご主人のほうでなくって、欲をいえば異性の奥さんのほうがいいんだけどなあ。この選ばれたワンショットの日のことも鮮明に覚えているよ。記憶が甦ってくる。休日の朝。僕が犬猫病院から退院してもどってきたんだったよね。その病院にかつぎこまれたのは、奥さんが僕の異変に気付いてのことだった。入院はしなくてよかったんだけれど、便秘で胃腸が大変な事になっていたんだよね。早く家に帰りたくってしかたなかった。新しい犬小屋も用意されている事を知ってから、無性に帰りたくてたまらなかったんだ。だから治療が終わって病院からも解放され車で送り迎えされ、自分の寝床にたどりついたときは大安心だった。だからそのときのワンショットは忘れていない。「責任がもてないから、犬なんて飼えない、反対だ。」そんな僕を飼い始める前のそう言ってたご主人の会話など知らない。でも、ご主人のほうがよく散歩につれてくれたっけ。犬猫病院のときは家族全員が僕の回復を祈ってくれていたし、色々心配もかけた。それに心配をかけたのは、それ以前だってあった。それは無断外泊した事件。(こいつ、自分を犬と思っていなくって、吠えることをしないんで、ちっとも番犬になってなくって用心、悪いんだぜ。)そのようなご主人と友人とのやりとりを聞いてしまった日のこと。僕は裏山にこっそり、ひとり駆け上がったんだ。自分は犬なんだと。彼らとは超えられない境界があることを突きつけられたショックでぼんやりとあたりの景色を眺めていた。このまま、どこかえ消えてしまおう。それが無断外泊事件の騒ぎに。あのときも心配をかけた。でも戻ってきてからは犬としてのプライドが許さなかったんだ。あのまんま役立たずなんて言われたくもないしね、だから僕は努力して吠える事もマスターした。それに人間界の特にご主人の思考パターンも理解したんだ。犬語で盛んに会話したんだけれど、それがどこまで、ご主人のほうに伝わっていたかは心もとないのだ。もどってきた時、ほおづりして、云ってくれた言葉を思い出す。ご主人いわく。猫でなくてそれは「我輩は犬である」という僕のことを素材にした一文を約束してくれたんだよな。それからの散歩の後のひととき。世の中も変化を求めだしていた頃。ご主人のそれからは報道番組のテレビを途中で切り上げ、なにやら本を手元において考える風であった。本のタイトルは確か「ライオンは眠れない」サミュエル・ライダーのもの。そのまえはというと「チーズはどこえ消えた」というやつ、あれには新味は感じなかった。あれが出たのは、たしか小泉さんが首相になる前。僕もご主人の横で斜め読み。ライオンは眠れないのほうがその後の小泉構造改革路線と近未来を予告していた。単に予兆を察知したら、早めに別のチーズをというよりは内容があった。だからだ。ご主人はその続編か、亜流の読み物としてひょっとしたら、僕のことをダシにでもするつもりだったのだろうか。僕としてはそうしてくれたほうが嬉しかったんだけれど、でもなにが忙しいのか生前には果たしてくれなかった。いろいろ寄り道して、本人オルテガがどうだとか、かぶれてるようだけれどオルテガは大衆の病理をこれでもかってみせつけるばかりだし、どう考えても貴族主義に立脚している。自分としても飼い主のことをこういっちゃなんだけれど、僕の目から見てもどうみても、貴族でなく庶民に違いないのだ。そのご主人の口からオルテガがどうのと出てくるんだから吹き出しそうになるのだ。ステテコのほうがお似合いといったところか。まあ衆愚のひとりとはいわないにしても、生活にあくせくしてる俗人のひとりに見える。深刻ぶったそんな人生のことより、それにとってかわるレジャーや娯楽が一杯で、まあ適度にそれらのことも楽しんでいる風にみえるご主人でもあるが。それでも、僕としてもご主人同様にオルテガに感銘するところはあるのだ。それは政治にあきあきして無関心になることは、白紙委任と言う形での選択をしてしまっているというそれだ。選択しない事によってすでにそういうことを選択してしまっているという愚。またそれに気付かない群集のことも、あちこちでオルテガは上手い具合に言い当てているところがあるのだ。それだけはいえるのだと。その伝でいえば自民党をぶっこわしてでもこの改革をと叫ぶリーダーもいたのに、その改革のホコ先はしりきれトンボで終わった民主党政権。大衆の判断のなせるところ。さらに進めるべきはどの部分で修正されるべきはどこだと云って進んでいくかにみえた道筋も劇場型だとの簡略フレーズのもとに両断され、いまでは二度とあの時代には戻りたくないと、そう思われてもしかたないような事態に。党をぶっ壊してもの気迫どころか、いの一番に党を壊さない事と政権を前政権にはわたさないことが誓われる内向きのリーダーの下にあの当時。生活第一って議員生活第一だったってこと?また、それってよくよくみつめるもなぜ震災復興、復旧は3項目目なんだよと、よく、嘆いたものだった。衆参与野党のねじれ現象がどうだと障害のように理由付けいうまえに民主党政権時、与党内の結束掌握さえあやしくなっていたのが真相じゃなかったのか。

離合集散の結果、党名は民進に変更ですか、女性党首はいいとして。

要は外交・防衛、教育・福祉・厚生いずれの面でもやはり、政策的には野党のままでいててもらったほうがという感じです。

 


 何党であれ、いい政治政策を掲げて実行してくれるのであればそれにこしたことはないのですが。
ワンちゃんの僕も飼い主のご主人の認識と共有したところは、下記のオルテガに対する理解でしょうか。

 


オルテガは警鐘を鳴らす3点。

▲「満足しきったお坊ちゃん」の時代
▲ 時代の高さはなにで測るのか

▲「専門主義」の野蛮性
 自由民主主義、工業化、大衆情報化社会の誕生を予見した十九世紀思想家オルテガ。大衆のもつ危うさに今日なお警鐘をならす書がオルテガの『大衆の反逆』だ。大衆は、ドイツのナチズム、イタリアのファシズムなどにみられるように、変質する。大衆操作 という落とし穴。そこには、大きな情報の受け手となる人々が、マス・メディアを通じて操作され動員され、つまり判断力を喪失した集合体(マス)として存在している場合だってある。本来は情報の理性的な受け手であり判断者であるはずの大衆が、無意識下のうちにいわば潜在的な波間に漂う群集となりうることを意味している。マルクス主義では、人民大衆こそが新たな社会の創造をになうのだとして、積極的なとらえ方がなされているが、オルテガの人間理解はむしろ懐疑的だ。近代合理主義の発展史観をこそ疑っているのだ。一見良いことだと思う社会の大衆化現象が、実はいろいろな危険をはらんでいると
彼がこの社会学の名著といわれる『大衆の反逆(La Rebelion de las Masas)』を書いたのは、いまから80年も前の1930年。大恐慌が起こった直後のこと。大衆化とはかつては少数のみの占有物であったものを大衆のものに開放される意味で良いことではある。が、そこにある、何を実現改善したらいいかわからないという衆愚の暴走の危険性のあることも喝破しているのだ。彼はデモクラシーと科学技術の落とし子である大衆を「波間に漂う人間」と称し、「過保護なお坊ちゃん」と見る。自分をとりまく高度で豊かな文明をあたかも空気のような自然物と錯覚し、文明を維持する緊張感を忘れ、不従順で自己閉鎖的な人間と化してしまっている場合すらあると心配している。
 彼は現代の大衆を文明社会の中に突然躍り出てきた「野蛮人」だとまで形容する。貴族は官僚にとってかわり、民主主義の装置も改善されつつあるが、大衆の本質は変わっていないと。そしてこの模範的な少数者の欠如と無知蒙昧な大衆の反逆(充満)が当時のヨーロッパの現実だと解釈しているのだ。(シュペングラーの指摘「西欧の没落」に相通ずる部分)そしてかれはこうした難破船状態からの脱出方法としては、 彼がどこまで仏教に関心があったのかはさっだかではないのですが、とくに釈迦の伝える所の利他という姿勢に着目していることが伺える点が興味深いなぁと。