トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

脱リベラル

リベラルの貧しい処方箋。昨今のお門違い。

その筆頭にくる出来事といえば、安保法制批判、反対、抵抗の姿だったなと。戦争をする国に、戦争法反対だとかの短絡的単純思考。今でこそ、笑ってるが、周囲にもそれに同調する姿を見なかったわけでもない。

リベラル自認する側でも、自戒する人、中には、ポピュリストに転じていたことを告白する人は、また、限られてくる。バブルに経済踊っている前と後では、大いなる違いも。以前のリベラル派は、少なくとも、適時、適切な批判はその時代の先々に警鐘を鳴らしていた。あの高度成長まっしぐらの日本、上り坂の渦中にあっても驕る事なく、平和の意味を肌身に知っていた。非は非として、歴史からの学びもあった。それを基盤に、普遍的人権の尊重意識から、地球の反対側で起こっている人種隔離政策アパルトヘイトにも、果敢に異を唱えたりと日本政府の漫然とした経済優先を批判、真っ当に非難も制裁も加えない日本外交に怒っていたのが当時のリベラルだった。関心のアンテナは、広く開かれていた。それがいつから、怪しくなってきてしまっていたのだろうか。全てが内向き。いまでは、リベラルだなんて、公言するのも、躊躇してしまうぐらい。大衆迎合のポピュリストと呼んだほうがスッキリ理解もできようかというぐらいまで、その関心の先にあるのは。目の前が明らかになる事だけ。酷いのになると、よその紛争とか、避難民の窮状に目を向けている暇あるんだったら、自国の格差問題、何とかセーよ、他国のことなんかにかまけてる場合かと、まぁ、わからんでも、ないけどね。そこまで、物事、矮小化して、何でも体制批判に結びつけようとする側には加勢したくはない。そのような、心境で昨今はリベラル派自認する側を見つめている。