三代にわたる・陛下の姿
折に触れ、上皇が発せられる考え抜かれたお言葉の背景には、第二次世界大戦で命を失った人びとへの慰霊の思いと、そうした過ちを二度と繰り返してはならないという強い決意が常に存在していたのでしょう。
パラオ共和国への慰霊の旅もそうですし、フィリピン・マニラでも。
なかでも、その原点となったのが“沖縄”だったのではないでしょうか。
あのひめゆりの塔での火炎ビンにみまわれた事件。皇太子時代。
昭和天皇の名代で、沖縄海洋博の開会式出席のため、美智子妃とともに初めて沖縄を訪問(1975年)
自分はニュース報道で知るところでは、そういうことがあったということだけで、詳細までは。
明仁皇太子も『石ぐらい投げられてもいい。そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい』と沖縄訪問前に語っておられ、不測の事態が起こることも覚悟されていたのでしょう。しかし、投げられたのは石どころか火炎ビン。
このような事が起ころうなどとは。
皇太子殿下はテロに騒然とする中で、事件の発生に動揺する警備担当者たちを処分しないように周囲の者にご依頼されていたということなどは後に聞くところ。
数メートル前方の献花台の手前の柵に当たって炎上した炎は、明仁皇太子と美智子妃の足元まで流れ、現場は大混乱に。
一種の極限状態の中で中断されることなく、明仁皇太子は、沖縄の人たちが、日本人、アメリカ人、軍人、一般人の一切の区別なく、身元不明の戦没者を弔った『魂魄の塔』の前に立たれます。
そのときの厳粛な思いを詠まれた歌が検索上から。
(1975年/沖縄訪問から帰京されてすぐに詠まれておられるという)
「花よおしやげゆん(花を捧げます)
人 知らぬ魂(人知れず亡くなった多くの人の魂に)
戦ないらぬ世よ(戦争のない世を)
肝に願て(心から願って)」
二度と戦争という過ちを起こしてはならないという強い気持ちと平和国家建設への強い思い、
そして、象徴天皇という“天皇のかたち”をさらに新たに探し求めるという
その後の陛下としての原点となっていったのではないのかと。
_勝手ながら解釈してみています。
その原点が引き継がれての御振舞のように
今また、沖縄に寄り添われている訪問旅のニュースに接して。
過去に抱いた感想を思い起こしています。
(検索)国立沖縄戦没者墓苑で供花後に一礼される天皇、皇后両陛下=22日午後、沖縄県糸満市の平和祈念公園
それから、
防衛三文書の国会での議論。国会でも議論がつづいています。
自分は議決の必要性を感じている方ですが、今の政権の説明力のなさに一抹の不安も。
経済再生大臣の辞任。任命責任はあるでしょう。
森鴎外のことが書かれている新聞切り抜き。陸軍医だった鴎外も国際社会での位置づけを国力も含めて意識されていたことが。
今の日本に照らし合わせてみても、再度の日本国家の
普請が進みゆこうかという感じの受け止め方がわかろうというもの。
同じく似たようなこころづもりでいます。