トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

厥(そ)の美(び)を済(な)せるは

ワインを愛し農園を守って、三人の姉妹を育ててくれた温厚な両親。末娘のわがままを聞き入れ日本にまで留学させてくれた両親。朝早くから大地の息吹と共に寝起きしてきた両親。父、母がシモンにとってのまず大きな教育環境だった。両親のひどく驚いたのは我が娘の行政マンとの結婚とそれからの破局。離婚後は温かく静かに見守ってくれた父。生計のほうも農業とて市場経済の動向と無縁ではなかった。米国を含む各国の農業補助金政策に対する干渉が続くなかで農民が役所に放火するなど、デモもエスカレートしていった。「親父さん。みなと一緒にくり出さないのかい。」近隣のさそいに、一人留まった父。父が出くわすかもわからない別れた夫との対決になりはしないかとの気まずい不安。「私のことはいいの。遠慮はいらないわ。」シモンは思った。デモから何日かして、不耕作地に対する税金の見直し、農家の社会保険の分割払いや、近代化、後継者育成への貸し付け制度が発表された。農民はこれでも不十分だと怒ってさらに騒ぎ立てようとしたが、その農政のこまごました修正にも元夫が少なからず汗をかいていることを想像していたシモンだった。「シモン、元気でいるかい」「身体は大丈夫かい」だから父は日本での再婚をとても喜んでくれた。私が日本に勉学にやって来たとき昭和天皇が亡くなられて大喪の礼に遭遇することになった。母国フランスではくすぶっていた教育問題が再燃し、荒れた教育現場もまた爆発するか、静寂にもどるのかの微妙な緊張をはらんでいた。「高校生のデモが成功したのは政治家が次の選挙をきにしているからですよ」両親はそうつぶやいていた。大学改革法案反対のプラカードでバスチューユ広場が埋まることはかつてないことだった。ジョスパン教育相とミッテラン大統領はエリゼ宮殿に高校生代表20名を招いて向き合っていた。その後、即位の礼で訪日していたロカール首相は帰国するや、45億フラン(約1000億)の緊急対策を打ち出している。後輩の高校生が提起したことはフランスの国民がかかえる全体の問題でもあった。将来の職業選択の不安、進級できなくて退学してゆく生徒の増加。留年の増加。半数の生徒がカリキュラムについていけないという不満をもっていた。高校生が突きつけた問題は大学にもあてはまる問題だった。選別強化と競争はエッフェル塔のように階層社会をイメージする若者でふくれあがりつつあった。高さと落差と登りにくさをそれにみたてた表現でピラミッド型よりはしまつの悪い、とはよくいったものだった。はたして教育は望む方向にむかっただろうか。それに、それは日本にきたときも思ったが政治家も学生も、五十歩百歩で、世の不平、不満の草刈場が教育問題だった。教育がなってないからというが、いずれの国からもその教育の理想を耳にすることはなかった。留学以来のふたたびの日本。父からは「カセムと一度、フランスに帰国することはないのかい」さらに「お金はあるかい」と。温かい家族のぬくもり。これが自然のものだと。日本で出遭ったイラク国籍のカセムについても、シモンは自分と同じように考えていたきらいがあることに気付くのだった。隣で寝ていたカセムが夢にうなされるようにして朝早く、飛び起きることがあった。あのアルカイダ疑惑で刑事らしき訪問を受けた翌日のことだ。「主人は出て行って居りません」その夜は、きっとカセムにとっては長いものだったに違いない。「また来ると言っていたかい」寝る前のカセムの言葉。「いつとは、聞いても言ってくれなかったわ」「・・・」沈黙。私は彼の真の援軍であっただろうか。シモンは自問自答した。彼の生い立ちはシモンの頭の中で整理されてはいたのに、血となり肉とはなっていなかったのだ。消化されることのない彼に在る戦争の影はシモンを発奮させた。彼が取り組もうとしている平和への模索と、そこにたどり着いた日本の魅力について。シモンも関心と縁がないわけではなかったからだ。そうはいってもあの時はなぜ夫の不安に理解を示せず、自分の不安ばかりを優先させたのだろう。シモンはカセムがひょっとしてアルカイダのメンバーではないかと疑ってみたことがなかったかと問われれば真っ向から否定できないからだった。この人と一緒になったことは間違いではなかったか。間違いない、と言えるだろうか。そればかりを考えていた。彼は故国では有識階級かもしれないが湾岸戦争以後その国の国際的信用も落魄している。彼は国にもどればしかるべき進路が用意されていると言っていた。米国の圧力と国際社会の非難が続く中でその話をカセムが持ち出すこともなくなって久しい。カセムの飲食業も仮の姿で、隠されたカセムの本来の任務はイラク政権と駐在イラク大使に操られているだけではないのか。そんなこともふとかんがえてみたシモンだった。9・11のアメリカのテロをきっかけとするイスラム社会に対する偏見は米国でもアジアでも同じだった。日本ではまだ、少数であるだけに目立たないというだけであった。同じ外国人でもシモンに向ける眼とカセムに向ける日本人の眼は違ったし、そのことまであの時は深刻に受け止めていなかった。当時カセムには友人、渡辺がいたし、今ではUがいる。夜にうなされるほどの彼の不安の中身に彼の深い孤独感を意識はしなかったのだ。彼の身になって考えれば、もっともっと、あの時見えてたことも、わかったこともあるだろうにと。振り返って東京での渋谷、新宿、歌舞伎町はふたりの受け取り方も違ったに違いない。夏は一緒にアイスクリームをほうばりながらカラフルな若者の衣装に関心をしめしたり、お互いの趣味を、色彩に味覚に臭覚にとあらゆる五感を動員して論じたものだ。でも、今から考えれば、私が心から笑ったように、カセムは心から笑っただろうか。私の幸せはそんなささやかなものが大事でたまらなかったはずだ。でもカセムは違ったのではないだろうか。シモンは彼が語る歴史と、自ら古書店で手にしたある報道写真家の写真から過去のイラン・イラク戦争の本当の姿、被害をみて考えを改めるに至った。彼は楽しい喧騒の街なかにいるほど孤独を感じていたに違いない。子ども連れのニューファミリーに出会えば、イラクで同じ年恰好の赤ん坊を殺された夫婦の悲哀を思い出したかもしれないし、女子高校生らしき少女がはすっ葉な言葉で男子学生にくってかかる姿をみては自由というものの定義について幅を広くしていたかもしれない。酔っ払いの喧嘩にでくわせば、満足に食事もとらずに、震えながら爆撃機の通り過ぎるのを肩を寄せ合っていた多くのイラク家庭の夕飯時を思い出していたかもしれないのだ。そこまで細かなことは語らないカセム。しかし、それが実態ではなかったか。たった一言、なんかの拍子に「君は戦争を知らない」と。それは戦争の怖さは頭では理解できないさ。とシモンには聞こえるのだった。「経験しなければ、解らないというなら不幸が続くだけじゃない」シモンは言葉にしようもない言葉を彼の背中に投げつけるのだった。カセムの机の上には日・ア(アラビヤ語)辞典が必ずのっている。手にとって眺めると川崎寅雄という人が編纂したものであることが記されていた。
シモンにむかってカセムがかつてつぶやいた言葉を思い出す。アラブ諸国とアラブ文化に造詣の深い中近東史専門の日本人がいると。その言葉を思い出した途端、フランス人でありながら(この最新日・ア辞典ってアラブに遠い日本で、川崎さんってどんな気持ちで苦労しながらこの辞典を編纂したことでしょう。)という気持ちが湧き上がってきたのだった。とにかく、ふたりとも日本語には不自由しない。おまけに漢字のほうも書道教室でめきめき実力をつけている。そのうえに、辞典は最良の違う文化圏をつなぐ橋でもあったのだ。
 (素材文献)フランスの教育環境に関しては『フランスの憂鬱』岩波新書を創作の素材に。

関連Myブログ記事ー大都会の砂漠ートトヤン


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大都会の砂漠

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絵画展をキッカケにふたりのデートは鎌倉の大仏見学、浅草あたりまでの海上バスでの舟遊び、東京ハンズでのショッピング。渋谷、新宿でのミュージカル観劇と。その後飽きずに何度も行ったのは神田界隈の古本屋廻り。「シモン、これ読んでみないか。」差し出されたのは大佛次郎著『パナマ事件』だった。「オサラギ・ジロウ?」   ときに話題は中東全体におよぶことも。ふたりとも日本語で考え、日本語で語ることがすでに自然になっていた。ナセル主義を継承しようとしたサダムが暗殺され、近くはイスラエルのラビン首相の死。「流血と涙はもうこれで終わりにしよう」とラビンが呼びかければ、「世紀の受難の終わりの始まりにしたい」とアラファトが応じたのだった。あの感動的なシーンからまた逆戻りの受難の様相が中東全体を包んでいる。かつてスエズ運河国有化をナセルが決めてから、フランス・イギリスが怒って軍を差し向けたことを思い起こしている。カセムの信望するナセルの一番追い出したい西欧列強はシモンの母国フランスでもあったわけなのだ。だから「西欧列強と闘った日本」。これがカセムの日本にあこがれた理由のひとつでもあっただろうと。国内でのクルドの現実を見せ付けられ、それがためでか虚無的に見える一方で、人びとを結び付けようとする汎アラブ主義のナセルを密かに慕う少年だったことも見えてくる。シモンのみるカセムの取り巻きのイラク青年はよそよそしい。打ち解けた印象ではない。一切の政治的発言もしなければ、そういった話題がでようとすると避けるきらいがあった。料理のレシピづくりを手伝う姿も本来の仕事のかたわらでとにかく稼がなければという感じだった。今から考えればそういった反応も理解できるシモンでもあった。日本に来てからも、どういった拍子の発言が独裁政権のほうでどう捉えられるかわかったもんじゃないという彼らなりの防衛本能も働いていたのではないだろうかと。カセムの友人関係にもっと眼を凝らす。その点、カセムの住んでいた上の階の友人、Uとかその前の住人の渡辺なんかはフランクだった。「尊敬すべきメソポタミヤ文明を背景にもつカセムさん、カセムさん。ちょっとお尋ねしますよ」とか、「カセムさん。今、僕の友人たちとお茶会してるんだけれど、仲間にはいらない」とか、たちまちにして、カセムが彼らに惹かれた理由もうなずけるのだった。それまでのカセムは多分日本に憧れてきたものの、そういう日本人には出くわしてはいなかったろうと思うのだった。せかせかしたビジネスマン。ひっきりなしに出入りする地下鉄。高層ビルと消費社会。関心事は個人の損得勘定に収斂され、ただただ石油文明の恩恵にあずかりながら中東の文化に無関心な人を見るばかりの日本。そういう日々ではなかったかと。シモンはカセムがもうもどるべき故郷のなくなっているという現実に目をこらしていた。彼の能力は何に使ってゆくというのだろうか。都市工学。勉学の意味。最近の歴史懐古趣味。日本礼賛。彼の父はイ・イ戦争を有利に導くための関係国づくりの相手でもあったフランスへの遊学を勧めたらしいが、彼の選んだのは日本だった。有利な武器を運んでくれるのはフランスであって、日本ではない。しかし、日本は中東地域から一番石油を買い上げてくれる国でもあった。戦後の目覚しい戦勝国をもおびやかすその日本の国力の復興ぶりと勤勉で慎ましやかな眼差しはカセムの心の琴線にひびくなにかであっただろうと。

 「それより、シモン。ずっとこのところ、旅行らしき旅行もしてこなかったし、瀬戸内の方に行きたいのだけれど。どう?」「ほんと!うれしいわ。で、なぜ瀬戸内なの。」「実は瀬戸内にある大久野島というところにいってみたいんだよ。」シモンにとってそんなカセムからの提案は唐突で意外だった。シモンも気晴らしがしたかった。日本の地方をまだ知ってはいなかった二人。東京にずっといて東京から日本を判断して東京に住む住空間から人々の発するシグナルを共有していたきらいがあると常々感じていたからだ。「そう、肩肘はらないでくれよ。ユックリ、行って、じっくりみて帰ってきたいんだよ。」
 「カセム、スキよ。大好きよ。」シモンは旅支度にさっそく、何を着てゆこうかと頭の中は回転しだしていた。そもそも、アルカイダではないけれど、他国に潜伏しその国の信用を得るためにカメレオンになれるのがスパイだとしたら彼こそはそれではないかと疑ってみたこともあった。決して、彼が不誠実の人間ではないことはわかったが、シモンはカセムが誠実であればあるほど、その傾倒してゆく、彼自身の内面葛藤の内側のほうを知ってみたく、どうしても神学理論とか社会学の分析理解を引き合いに、なぜアジアに執着するのかを解明してみたくもあった。カセムはどちらかというと他のイスラム青年のような生活力はない。カセムがいいとこのお坊ちゃんであったのにくらべ、周りの彼らのほうはしぶとく、我慢強く、転んでもただでは起きないふてぶてしさがあった。取り巻きの彼らのほうはイスラム教は生活の糧であり、集まりは生活の互助組織であることはシモンの目からもあきらかであった。それを拒むカセムでもなかったが、もっと高位の精神性、哲学面のほうに飢えていたカセムであったので、好んでUとか渡辺とかが語る議論のほうに魅せられたのだろうと。カセムの言葉、「敬いこそすれ」にも表れているように思えるシモンだった。シモンの今までの理解ではキリスト教を改宗してイスラムに入るのがイスラム青年との付き合いの鉄則であり、彼が東洋の哲学に傾倒しだしていることがなにかの間違いではないかと思っていたからだ。シモンはカセムの気持ちをただ知りたいと思っていた。シモンの見つめてきたカセムの印象は様々に変形していく。よく考えれば自分には両親がまだ健在だが、カセムには亡くなっていない。戦争での父親の死亡の報せは日本で、それもかなりあとから知ったとのこと。彼にはもう戻るべき故郷はないといった雰囲気だ。もっともっと彼の孤独の深さを知りたいと願った。その原因はシモンからみてカセムの一種独特な特権階級に属していたところから派生するなにかであることに気付く。カセムの日本にやってきた当時の友人は同じイラク出身の出稼ぎ青年だったし、故郷をたまたま同じくする幼友達であったし、学友だった。彼は夏の休暇を通じて彼らの属している派遣先業の指示で清掃の仕事に就いたりしたこともあったという。学業のかたわら、日本の就業慣行を肌で知ることのなかから日本との関係をまた世界を見つめるカセムであることを知る。だから、シモンのカセム像は知らない事実を加えることによって多少は変化してゆくのだった。カセムにとっての同じイラクの友人のもの足りなさの理由もすこしく想像できるのだった。カセムの前では取り繕ったように故国に対する忠誠的言辞をあえて証明するかのように述べる彼ら。カセムの父が当時独裁的国家に多少とも連なる特殊なテクノクラートだからだろうか、カセムのほうでは周辺でのそんな迎合の仕方に比例するかのように落ち込んでいくのだった。人間的な真の対話はどこに。
 彼がいつか告白した独り身の頃の話。思い出す。まだ店をもつ前の頃のこと。仲間の語らい「カセム。東京のどこにも故国をおもわせるような景色はないな。」「そうだな。そのとおりだな。」カセムはそうつぶやきながら仲間にまじって身体をうごかしていたという。カセムは屈強な彼等とちがって、力仕事は慣れなかったはず。常磐線南千住駅から山谷。仕事は建設現場でのコンクリート仕事と穴掘りと雑役、片付け。手配司を囲んで何人かの顔見知りもできた週末は、みなそれぞれにひとかどの個性の持ち主であることを認識したという。宿でのことと日中のことが交互に織り成すように語られてもいた。仕事における知識や能力の欠如が見いだされると、多くの山谷住人は決して見逃さず、相手を小ばかにし、「そんなことも知らないのか」というのが常だったらしい。世の中、常に自分に訪れた他人に対する優越性を事あるごとに確認しないではいられないという人もある。他人から、尊敬や羨望を受けたことのない裏返しでもあるかのように。露骨にそれらの態度を示されるとカセムのほうもさどかし辟易だっただろうと。ギャンブル好きの人。巨人ファンの野球好きの人。政治好きの人。話題はそれぞれ。さしづめ、カセムは皆から、なにをかんがえているか解らないやつだぐらいは思われていたかもしれない。日本人の大半は労働センター常連組。外国人であることが一見してわかるカセムらは正面から求職するわけにはいかない。手配司がかなりフトコロをあたたかくしたようにみえたのは大企業も安い労働力を求めて外国人就労者に頼る傾向に加速度を増した結果なのだろうかと分析めいたことを。イラク青年はおしなべて差別や偏見のなかで暮らしている。カセムは父のスネをかじって日本に来たが、同郷の彼らは爪に火を灯すような生活をしながらまだ、故国に仕送りまでしていたのだ。彼はいった。俺はわずかの期間だが、彼らはいつまでも続くのだろうと。そう思うと傷だらけになった手。作業中にしてしまった火傷の痕などをみながら、現場で投げつけられた言葉を思い出すといっていた。「代わりならいくらだってあるんだぜ。」でもそのときカセムは新しい住まいで出会った学生渡辺の言葉を想起したという。「偉大なあのメソポタミア文明を背景に持つ国から来られたということですよね。カセムさん」彼がこの言葉をくれたのだと。最大の激励ではないのか。異国でのたったひと言が励ましになっている。そういう励ましの言葉をくれた彼らを裏切ることはしないようにしよう。そう誓ったという。相手を尊重する姿勢がそのひと言にあらわれていることに間違いはなかったという告白。当時のふんばるカセムの姿を想像している。

ゆかりの人物(故郷編)

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 2020年は近い将来としては東京オリンピックが。1964年の過去の東京オリンピックには和歌山にゆかりのある人もその実現に貢献している。
 米国日系人でただひとり東京オリンピック準備招致委員会委員に選ばれ、東京オリンピック招致に奔走した日系二世の実業家、和田勇氏のことを。
ヨーロッパや中南米の国際オリンピック委員を自費で訪問、1964年の東京オリンピック開催実現に大きく貢献している。この方の父母は和歌山県の人だ。
 祖国へ、熱き心を―フレッド・和田勇物語〈高杉良)この物語は誰しもが感動したと思う。
そのほかにも、和歌山ゆかりの人といえば、同時代の活躍されてきた姿を拝見したことのある作家の(故)有吉佐和子さん。
まだまだ、たくさんの方の名前も知られてはいる。
最近では芸能界で活躍されている坂本冬美さん藤原紀香さん、小西博之さんなどが和歌山ゆかりの人として浮かぶが、地域の有名人、偉人といった観点でたどってみれば、企業人としてはパナソニック創始者松下幸之助氏がくるだろうか。
 
もっと時代をさかのぼれば徳川吉宗というところか。ゆかりの人に違いない。

さらには、科学雑誌「Nature」に日本人として初めて論文が掲載された天才南方熊楠(みなかたくまぐす)、世界で初めて麻酔手術を行った華岡青洲(はなおかせいしゅう)。
 不平等条約改正である治外法権の撤廃を成し遂げた陸奥宗光
アメリカのニューヨーク市民が等しくその死を悲しんだという和歌山県広川町出身の濱口梧陵(ごりょう)。和歌山県議会初代議長。
 英国の文豪ラフカディオ・ハーンは、氏を「A LIVING GOD」(生ける神)と評して世界に紹介され、「稲むらの火」は防災の象徴として認識されている。
 津波(ツナミ)の言葉が世界共通語になったのもそのときからかもしれない。

 

 

 

 

 

 故郷を離れて暮らす若い人にも、先人を、知り、誇りをもって、また、それぞれにある、今住んでいるところでの地域の先人に学んでいかれることを。

 

日豪の絆

オーストラリアでクリスマスツリーを眺めていた、
皆が半袖で、季節は夏で、旅行客の自分らは
日本人客らしい人が歩いているぐらいの認識は
持たれていたみたいだった。
アジアのなかでは滞在者の内訳としては中国人も
多かったのだが。
タクシーも利用したがその際の運転手は東南アジア系の
顔立ちをしていた。
日本では自動ドアが当たり前なのに
こちらでは自分であけなければならなかった。
車種はファルコンGLというやつで
フォードの中古ぽいのが大勢を占めていたみたいだった。
運転は右ハンドルで日本と同じ。
だからレンタカーも観光に利用してみる気に。
借りた車種はトヨタカローラ
なんだか安心感あるので、快適なドライブだった。
グレイトハウンズの高速パスにすれ違いながら
一時は草原の中を。
こんなとこでエンスト出来ないよなぁという
心細さも。
右を見れば、牛の群れ。
左を見れば、羊の群れが。

戦争遺産を大切に保存している国、オーストラリア。
日本からの攻撃も受けた国でもあるのに
かかわらず、豪軍人が
中心となって、
日本軍人の遺骨や、
戦闘機、潜航艇が保存されている。

これらのことを見学することは
不戦の誓いにつながるものであつたことは
言うまでもないのですが。

加えて、ここ最近の日本での安保法制論議の時
歴代のギラード首相、アボットも、かねてから
理解を示されていたことはよく知られるところ
でありますが、あわせて記しておきます。

【関連】豪州国会両院総会 安倍内閣総理大臣演説-平成26年7月8日(現地時間) _youtube

ゆとり世代≠さとり世代

息子とダブって自分も平成生まれの新世代に関心が向いてしまう。どこから、来たの?故郷は?。交わした挨拶から振り返っていることがある。表面はどんな顔にも化けられるカメレオンのような君。礼儀正しく、一方で冷めたというか、冷静なところ。

団塊の世代やバブル期を謳歌したおっさん達に囲まれていく彼。

ゆとり教育を受けた世代が社会に出て、結果をさとり、高望みしない世代という意味でさとり世代とも呼ぶらしい。言い得ている部分と、そうでない部分。そういう使われ方なら、少々の違和感。彼の場合は違うようだ。

ゆとり世代と呼ばれたくない胸の内を推し量っていく。君の本当のこころの孤独を。


新語のさとり世代を象徴するように、彼の目からも、見ている限り周囲の若者は無駄な努力や衝突を避け、過度に期待したり夢を持ったりせず、浪費をしないで合理的に行動するように一見、写っていく場合もあるらしい。

上昇思考より、小さな幸せ。しかし、君はそれらに一番危惧していることもわかるのだ。小さく地元でまとまる危険を。地味で堅実なように聞こえることが事実は危うきことを。大海を知らず井の中の蛙に留まることの薄っぺらさの危険を。君は同世代にもっと警告しておきたかったのかもしれない。

グローバル経済下の流れは地域の隅々にも影響を与えていくものでもあることを。経済の脆さはじぶんのことだけかまけていればいいというミーイズムを、どこまでも擁護しては、くれないものでもあることを。

そして、その一方で君は同世代を庇うような発言もしている。

物心ついたときにはバブルが崩壊し、不況しか知らなかった同世代のこと。お金が無いから分相応にしていただけのことがそれほど魅力に欠けることなのかという怒り。

あたかも不景気により、不自由を悟らざるを得なかった世代がそこにいるように。

結果のわかっていることに手を出さない。
「車やブランド品に興味がない」「欲がなく、ほどほどで満足する」「恋愛に淡泊だ」欲がないとは、よく言ってくれるよ、世間というやつは、と。

お金がないとシンプル合理的になるのは当然のことだったはず。

奨学金も毎年、返していかなくちゃならない。親に負担はあまりかけたくない。そうさ、本当のところの君の胸の内。
(研究者も非正規雇用なのだという)社会へでてからの現実感からの一言。

事業仕分け、あやうい政治ショー。バッシング。加えて地方行政の統廃合問題。あおりをくったような予算見直しと削減、削減されてそれはよかったのか。そもそも、その科学研究予算削減は間違いではなかったのかとの、反発と憂い。

知ることはなかった。君の本当のこころの孤独を。
今の君はヘッドハンティングの誘いがあっても、推薦のおかげもあった今の職場のことだからと教授の顔を立てて残ることにしたという、なかなか古風なところのある、君でもあることよ。

他の世代から生存競争の厳しさを言うけれど、全体が右肩上がりの、いい時代の恩恵を味わっている世代からの指摘は彼には響かない。

教科書改訂なんかで、歴史の認識がどうなるともおもっちゃいない。教科書そのものが一つの物差しとみるだけなんだから。
ゆとり教育の世代と冠されて、その後に勝手にゆとり教育の弊害を語られたって、まったく彼にとっちゃあ、勝手な世の中であることよ。

モノより、思い出。共感できる物事を絆いでゆく。生き方。

団塊世代」も「バブル世代」も、 自分らの世代の方が優れてるってみんな勘違いしすぎている場合だってある。
いずれの世代も、そのような優先順位で、もっと共感することがあるのではないかと、ふと空を仰ぐ。

“ものづくり日本”の父、ヘンリー・ダイアー

TBSラジオで聴いてました。2016.12.9 金曜日の内容、よかったので、再検索。
 
明治時代に日本の工業の発展に貢献したヘンリー・ダイアーという御雇い外国人のこと。

日本政府はなんと、大臣より高い月給を、しかも24歳の大学を卒業したばかりの青年ダイアーに払っていたというのは驚きでした。

 


スコットランドと日本とのつながりは、幕末時代にさかのぼる。1863年(文久3年)、後に「長州ファイブ」として描かれる若き長州藩士5人が、海軍強化のための洋行計画を立てて密出国。彼らは、徳川幕府を倒そうとする薩摩・長州藩を支援していたジャーディン・マセソン商会の周旋で、ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアレクサンダー・ウィリアムソン教授の指導を受けた。そこから山尾庸三は1人でスコットランドグラスゴーへと向かい、造船所の職工として働くかたわら、アンダーソン・カレッジの夜学で学んだ。夜学で山尾と同窓だったヘンリー・ダイアーグラスゴー大学に進み、のちに来日して山尾の創設した工学寮の初代都検(教頭)を務めている。

 


19世紀のスコットランドは、教育制度において、イングランドをはるかに凌駕していた。イングランドにオックスフォードとケンブリッジの2大学しかない時代、スコットランドには既に1413年創立のセント・アンドリューズを始め、グラスゴーアバディーンエディンバラの4大学があった。1860年代において、高等教育を受ける人口がイングランドでは1300人に1人のところ、スコットランドでは140人に1人と、10倍近かった。特に1451年創立の名門グラスゴー大学は、学生の5人に1人が労働者階級出身で、貧しい農家の息子が大学教授になるなど、社会的流動性の低いイングランドでは考えられないような立身出世があった。またスコットランドでは実学教育が重んじられていたために、経済学者のアダム・スミスや技術者のジェームズ・ワットを輩出したグラスゴー大学は、まさに産業革命の原動力となっていた。


明治維新によって封建制が崩れ、殖産興業による近代化を急ぐ日本が、社会的流動性が高く実学教育を重んじるスコットランドの教育制度を取り入れ、高等教育機関の創設でグラスゴー大学を手本としたのは正解だった。グラスゴーで学んだ山尾の体験を原案とし、ダイアーの構想した教育課程を受け入れ、技術者養成を目指す工学寮が開校されたのである。ジャーディン・マセソン商会のヒュー・マセソンの従兄でグラスゴー大学の初代工学部教授であったルイス・ゴードンの助言もあり、スコットランドからは多くの技術者たちが、「お雇い外国人」として日本人の指導にやって来ている。

工部大学校の卒業生の多くが、グラスゴー大学を始めとするスコットランドに留学し、1914年に第一次大戦が勃発するまで、グラスゴーのダイアー邸ではいつも日本人が歓待されていた。


イギリスの大学というとオックスフォード大学ケンブリッジ大学を思い浮かべますが、当時、技術の分野で世界最高の大学は1451年に創設されたグラスゴー大学でした。文系では「国富論」を書いたアダム・スミスや、「金枝編」を書いたジェームズ・フレーザー、理系では蒸気機関の改良で名高いジェームズ・ワットや、アインシュタイン以前の最高の天才といわれるウィリアム・トムソンが卒業している名門です。ダイアーはその世界最高の大学(機械工学と土木工学)を主席で卒業したばかりで、突然、東洋の島国に行ってほしいといわれ、多分、複雑な心境だったと思いますが、恩師のウィリアム・ランキン教授の推薦で1873(明治6年)、8人の教授陣とともに日本に到着します。当時の平均寿命は現在より短かったといえ、大学を卒業した直後に発展途上国の大学を創って教育できたと考えると、大変な能力だったと思います。その分、給料は高額で、明治政府のナンバー2である右大臣の岩倉具視の月給が600円のときに、ダイアーの月給は660円。なかなか換算は難しいのですが、現在の金額では月給200万円、年俸2400万円程度ですから、いかに期待されていたかが分かります。

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大日本―技術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像

シェアしたいですね。この内容。

当時の日本論といっても、ちっとも古びてはいない明快な分析。

 

 

 

 

 

 

 

日本論ということでは
対比してみたい、
以前に読んだことのある、戴季陶の『日本論』。

興味深く読んだ記憶が。

お雇い外国人に関しては主体を失うことなく活用した日本への羨望の眼差しが伺えるとともに
母国中国の打算的、拝金主義の横行を憂えているところなどは着目した部分です。


日本に対する忠言も含まれながら記されているだけに戴季陶の
愛国の概念についてより深く考えさせられます。