トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

子規・闘病を支えた絆

NHKの「歴史秘話ヒストリア」再放送視聴。

なんとなく子規という人物、自身のおぼろげさから輪郭として、多少の実感を得たような気になるエピソード。子規の人となりを象徴的に印象付けいている事柄として不慮の友人の死を悼んで友人の葬儀をかってでたという証拠の品々。東京で共に学んだ友人・清水則遠(しみずのりとお)が病で亡くなった時、故郷の兄弟に送ったお悔やみの手紙.。



子規の思いの深さに他の友人もびっくりしたとある。長さ8mもの手紙、亡くなった友人の両親に宛てたものだ。そこには死をみとった正岡子規が仲間にカンパをつのり葬儀を行ったこと、清水が亡くなった時の状況から墓標には何と刻んだか、棺の形に至るまで詳細に報告。

 


そして友として清水を救えなかったことの謝罪と無念の思いを繰り返しつづったのです。長い手紙にはこんな一節も。ご令弟の名をあげることを今後の自分の一生の目的にするつもりです。そのためにはまず第一に僕の名をあげることに務め命を懸けようと思います。



正岡子規が葬儀を全て取り仕切り、若くして命を落とした友人への思いの深さが知れよう。
子規は遠慮なくお節介だが裏表のない性格で、友人たちを惹きつけた。最も親しかったのが夏目金之助、後の文豪夏目漱石だ。多くの人と係わり、また多くの人から愛されもした。
野球に熱中、酒の飲み比べなど友人を巻き込むのが大好きで、誘い方はしつこかったという。勉強がおろそかになると敬遠されることもあったが、友人が離れることはなかった。
子規の病状が悪化し、床から起き上がれなくなると子規の妹が家の庭を手入れをして横になったままでも見える位置に花々が集めて植えられ、また、寝返りさえできなくなると、鳥かごを置いて鳥の声を聞かせ、仰向けで寝ていても視界に入るようにヘチマ棚が設けられていくなどのエピソードなどの解説がつづいていく。
短いなりにも濃縮されたような生涯。子規の人望の深さに圧倒。
生涯にわたる友人たちとのきずなの原点。人との出会いと夏目漱石との友情。それらの内容に魅せられてゆく。
野球に熱中、酒の飲み比べなど友人を巻き込むのが大好きな外交的な子規。内向的な漱石
地方から東京での出会い。性格が全く異なっていても、文学で接近、二人は読書論争、批評合戦を繰り返しながら切磋琢磨していく。漱石の漢文の旅行記を読んだ正岡子規が赤字で添削批評して返してきたのには驚いたという。
正岡子規は、明治22(1889)年、結核を発病。漱石が真っ先に見舞いに。「卯の花の 散るまで鳴くか 子規」
子規(ホトトギス)とは、口の中が赤いことから、結核の象徴だった。
漱石から正岡常則(子規)への手紙。
「帰ろうと 鳴かずに笑え 子規」
病気を笑い飛ばせ、と漱石が作ったという初めての俳句だ。
漱石が教師として赴任していた愛媛・松山市

友の病を案じていた漱石が呼び寄せたのか、1895年松山に戻った正岡子規漱石と同居し、漱石は滋養の付くものを食べさせたという。

元気になった正岡子規はその後再び東京に戻れるまでに。その途上の奈良で詠まれたのが「柿食えば・・」である、というのである。
「柿食えば・・・」は写生俳句と呼ばれ、ありのままを詠うところに特徴。さて、その時の天候は?教授いわく当時の天候を調べてみると、法隆寺を訪ねた日は雨。気象庁の前身なのでしょうか、記録あるんですね。
唯一「柿食えば・・」だけが、雨の気配が泣く明るい。やはり、その他の句は雨の句ばかりであること判明。
その他、日記には宿屋の女中が柿を剥いてくれて、その姿に見とれたことが書かれている。

 

「余はうっとりしていると、ゴーンという釣鐘の音が聴こえた。」釣鐘の音は、東大寺の鐘である。淡い恋心から生まれたのが、「柿食えば・・」だったのではないか。
当時の気象記録や子規の随筆などの資料から、子規はいったいどんな状況下でこの句を生み出したのだろうかと名句誕生の舞台裏まで探るのだから、面白くないわけがない。
この柿の品種は「御所柿」とても糖度が高く甘い柿だったのでは等々。正岡子規は柿が好物だったことからも推測は発展していく。

エピソードの最終章は 闘病を支えた絆、そして最後の日々が明かされていく。
東京・根岸、子規庵
痛みに耐えながら俳句を詠み、それを外に発表するのが生き甲斐となり、友人達も部屋に来ては励まし、なかでも「闇鍋パーティ」の盛況ぶりには笑えて来る。
どんなに苦しくても、友人たちが遠慮なく横にいてほしいということか。「子規庵」で7年の闘病生活。友人達の励ましで、俳句は新境地へと達する。
脊髄カリウスに冒され、猛烈な痛みが襲い、立つこともままならなかった。

「足たたば・・・・」で始まる句が痛々しい。
友人からの贈り物。ロシア・アムール川の石を新聞社の友人から。双眼鏡、地球儀。
英国ロンドン留学中の夏目漱石からの手紙。
「居ながらにしていて西洋のことがわかる。」と子規。

子規に水彩画を勧めた中村不折。苦しみを慰めるため。鋭い子規の観察眼は様々な作品に。

苦しむ正岡子規に見かねて「止めようか?」という友人に、「やれ」と言ったという俳句勉強会。

最後の俳句の勉強会が、明治35(1902)年9月10日、正岡子規34歳に開かれた。子規が亡くなったのはそれから9日後。
明治35(1902)年9月19日、正岡子規永眠。34歳。

その最後は眠るように静かだったと言われている。

友人達の胸に刻まれた面影。中村不折はパリの下宿で訃報を知る。画家として大成していく。夏目漱石は「我輩は猫である」で作家デビュー。
中村不折のパリの下宿には正岡子規の写真。
夏目漱石の作品「吾輩は猫である」には子規を登場させている。

友人達は子規の死後も毎年句会を開いて集い、賑やかに開催されたという。

友と遊び、友と競い合った子規の俳句は今に受け継がれている。