『宮澤賢治の世界』



続いて

この本は多くの賢治ファンや賢治研究者にとって反感なしには読めないものだが、敢えて賛意を示せる部分があるとすると、田中智学批判。賢治が病弱ではなく元気で長生きしていたら、帝国大本営のプロパガンダに協力していたかもしれないからだ。著者は賢治を「遊民」と呼ぶ。それも高等遊民と、つまりはお金持ちのボンボン。彼は農民の解放を訴えていたように私たちは思ってしまうが、現実の賢治は貧しい小作農と共感しあうことはできなかったし、彼らの世界に立ち入ることもできない、金貸し、質屋の息子だからという決めつけ。賢治は故郷花巻では地方財閥といえる家系。戦後で言えば、新左翼の活動家が貧しい家庭の育ちではなく、裕福な資本家の息子みたいなもの。自らを革命家と気取ったりしてはいるが、親の仕送りで生活して地に足がついていないその思考回路に疑いも抱くことなく、理想は語るが、その共感の輪には限定的で、挫折しては空想に逃げ込むように詩とか文学に慕っていたのではないかという、あくまでも、下卑た見方。そういった主張を旨とする評論に似ている。賢治を引き摺り下ろすことにかけては右に出るものはいないかもしれない。これがこの作品で、殺人事件とタイトルにはあるが推理小説でもなくあくまで評論。シニシズム(冷笑主義)から極端なところではレイシズム増幅になるかも、という自分なりのとらまえかた。そのような読後感。
そこまで、賢治を腐すことはできかねるという自分としては、賢治の弱さというよりも、夢や抱いた希望とか、化学の知識、彼が向けた宇宙への洞察のほうに興味が向く。吉田司がスキャンダラスな賢治像を追ったのに比して、どちらかというとより、明るい、ファンタジーの方への理解ある評論のほうへ、批判があるとしても目を向けていきたいほうなのだ。軍配をあげるとしたら前記の評論などを。
賢治と同時代に多少の批判を受けた軍人、啓蒙家も、少なからず。
それは石原莞爾であったり、板垣征四郎。といったところか。世界的指揮者小澤征爾の名付けの親、満州国内で歯科医の事業をしていた小澤開作。当時の時代風景、脚光を浴びる両名から一文字ずつ、貰って付けられている。
「八紘一宇」の四文字に込められた理想と現実との乖離。過去に読んで感銘した、満州建国大学の卒業生の物語『五色の虹』を思い出す。それから、漫画家、安彦良和の『虹色のトロツキー』等を。簡単に歴史を安直に二項対立で裁けない、複眼視することの大事さを教えてくれている。
思考停止に陥らないこと。とんがった意見に引き摺られないことを、教えてくれている。
幼い頃に記憶と家族を失った日蒙二世の青年・ウムボルトは、赤化運動の折、憲兵に捕まり拷問を受ける。しかし、関東軍参謀・辻政信によって釈放され、日本軍統治下の満州に建てられた建国大学に入学する事になった。そこで、ロシア赤軍を創ったトロツキーが父の知り合いであること、自分はトロツキーを招き入れる為に軍上層部の思惑によって学校に入れられた事を知らされる。旧満州を舞台に日本軍の政治的陰謀に巻き込まれながらも、強く生き抜く青年の物語がはじまっていく。手に取る前はタイトルに敬遠してはいた。



