たまたま視聴して気になったので調べてみることに。
範多範三郎
日本の実業家 (1884-1947)
東京アングリング・アンド・カントリークラブの創設者。
アイルランド系英国出身の実業家で範多財閥の創設者エドワード・ハズレツト・ハンター(E・H・ハンター)を父、大坂の薬種問屋・平野常助の娘・愛子を母とし、その次男として1884年2月29日に誕生し、幼少期を神戸市で過ごす。
7歳でイギリスに留学する。グラスゴーで青少年期をすごし、19歳から3年間ロンドンのロイヤルスクール・オブ・マインズ(王立鉱山学校)で鉱山学と治金学を学ぶ。
卒業後ロイヤル・スクール・オブ・マインズ学会、英国地質学会、南洋州採鉱冶金学会、米国採鉱冶金技術者学会の会員に加わり、1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけて米国の鉱山と精錬業などを視察。父E・H・ハンターの経営するアンティモニー精錬会社の技術監督としてビルマ(現在のミャンマー)、タイ、マレー半島の鉱山を調査して歩き現場実習を積んだ。1909年(明治42年)から1910年(明治43年)にはロンドンのクロンプトン商会で電気技師として勤めた。
1910年(明治43年)4月2日付けで英国籍を取り、この年の暮れに帰国した。英国名はHansaburo Hunterで、その綴りを略したHans Hunterが通称のハンス・ハンターの由来である。
英国籍になって日本に帰国したハンス・ハンターは、ロイヤル・スクール・オブマインズの同窓生たちと共同で朝鮮雲山郡一帯の鉱業権を取得して雲山鉱山、大楡洞金山経営に乗り出した。ドイツ、スペイン、イタリア人との共同経営で成功をおさめた。その他にも兄範多龍太郎と厚昌鉱業(株)、当時の朝鮮の富豪尹一族の子息とソウル・マイニング・カンパニー・リミテッドも共同経営し、金鉱山で成功を遂げた。
明治末期に日本に帰国した。
1918年(大正7年)に大分県の鯛生金山を取得し、同年6月に資本金100万円で鯛生金山株式会社(Taio Gold Mines Co., Ltd.)を設立する。旧鯛生野鉱山から鯛生金山に改名する。削岩機をはじめ立て抗エレベーター、選鉱場、精錬所、火力発電所にも英国製の最新設備を導入し、英国から技師数名を招き操業を開始する。金の産出量は大正7年に90kg、大正10年(1921年)に500kg、大正13年(1924年)には1tに達し、東洋一の金の産出量を誇った。しかし、その後新鉱床の発見がなく、公害問題が発生したのを期に、大正14年(1925年)に鯛生金山の鉱山権と経営権を、兄の範多商会の総支配人・木村鐐之助に譲渡した。
1924年(大正13年)に宮崎県の旧延岡藩主内藤政挙子爵より、見立錫鉱山と大分県内木浦鉱山の鉱山権を取得して、龍三鉱業合資会社を設立する。1925年(大正14年)6月に大阪から活動の本拠地を帝国ホテルにおいて、見立鉱山開発のためにイギリスのアングロ・オリエンタル・マイニング・コーポレーション の資本を導入して、同社との合弁会社Toyo Tin Limitedをロンドンに設立する。またその子会社として、資本金100万円の東洋鉱山株式会社を設立した。 イギリスの最新鋭の設備を導入。1927年(昭和2年)から錫精鉱の生産を開始する。1931年(昭和6年)の満州事変を契機に、軍需産業の拡大により錫精鉱の需要は増大し、錫精鉱556tの実績を示して量産体制となった。
見立錫鉱山は最盛期には1500人もの従業員を擁するようになり、社宅が多数並んだ。ハンターは従業員の福祉を大切にする経営を行っていたという。
1933年には大阪の厚昌鉱業株式会社の取締役も兼ねた[1]。
ハンターは1925年(大正14年)に釣りクラブの「東京アングリング エンド カンツリー倶楽部」(Tokyo Angling and Country Club)を設立。最初の会長は、日本の首相の加藤英明、メンバーには外国人実業家、日本の財閥の実業家、外交官、日本の政治家が名を連ねた。
ハンターは栃木県日光市の中禅寺湖を "釣りの理想郷" とみなし、中禅寺湖で倶楽部活動を行ったり、鱒釣りの環境を整えた。当時の中禅寺湖は夏の高級避暑地として知られており、イギリス、フランス、ベルギー、イタリアなどの外交官が別荘を構え、日本の外国官らも集い、当時は「夏は外務省が日光に移る」と言われる状況だった。
日本とイギリスの両方にルーツを持つハンターは、中禅寺湖での倶楽部のイベント(釣り大会やセーリングボートのレース)などを通し、諸国を結ぶ"架け橋"になろうと努力し、国際親善や相互理解という夢を実現しようとした。(ハンターによる中禅寺湖での1929年ころのクラブ活動は、NHKのアーカイブ映像にも残されている)
日本と英国の両方にルーツを持つハンス・ハンターは、日本が軍事色を強め国際関係が悪化すると、国と国の争いに翻弄されることになった。
1931年には満州事変が勃発。6年後には日中戦争に発展。日本の中国進出(中国侵略)を快く思わなかったのがイギリスとアメリカで、米英は中国に武器を供給し、日本とイギリスは敵対関係となった。
1939年に第二次世界大戦が始まる。
1940年(昭和15年)、戦時色が濃くなるにつれ国内の鉱山開発が促され、宮崎見立鉱山の関連事業として、大分県内に木浦鉱山を開発、大分市に錫精錬所も建設した。錫精鉱の採鉱から選鉱、精錬を一貫して操業する。
だがソビエト連邦がドイツと密約を交わしてラトビアに軍を進め、駐日ソ連邦大使館内にラトビア領事館を設けたため、赤坂の範多事務所に設置されていたラトビア国領事館は閉鎖された。名誉総領事の地位を失ったハンス・ハンターは、英国籍のまま日本に留まることは難しくなり、日本国籍を回復して日本に留まるかあるいはイギリス国籍を残し国外に移住するかの"究極の選択"を迫られる状況になった。
1940年(昭和15年)10月1日、第5回国勢調査が実施された際に日本国籍の回復届けを提出し(同時に母親の姓「平野」ではなく父の姓「ハンター」の漢字表記を採用し)「範多範三郎」に改名する手続きを行い、5日に受理された。
第二次世界大戦開始後に日英の敵対関係が一層深刻化したことで日本政府が国内の英国資産を没収するようになり、日本政府は英国資本の東洋鉱山についてもハンターから経営権を奪って日本の会社に与えることにし、ハンターは経営を退かざるを得なくなり、イギリス人技師も全員相次いで帰国せざるを得なくなった。さらにハンターは「東京アングリング エンド カンツリー倶楽部」の活動まで禁止されてしまった。
ハンターは東洋鉱山をラサ工業の傘下に入れ、イギリス本国、米国、カナダなどに散在していた貸借関係と財産整理にあたった後、一切の事業から身を引いて東京小平に設けた範多農園で隠遁生活に入った。この前後に範三郎の実弟・英徳とその妻エリザベスが相次いで他界した(英徳は英国留学から帰国後、原宿の表参道に広い屋敷を設け、虎ノ門で英徳商会を営み、蒸気自動車や電気自動車、木炭自動車を販売していた)。
戦争という個人ではどうにもならない大きなうねりに巻き込まれて活躍の場も奪われ、弟夫婦も失ったハンス・ハンターは独りで酒をあおる日が増えていったという。1945年に終戦を迎えたが、その2年後の1947年に脳梗塞で死去。64歳だった。
宮崎県日之影町の見立地区には見立錫鉱山の資料館「英国館」があり、そこに従業員らと仲良く映るハンス・ハンターの写真が残っている。
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