自分とは縁遠いアカデミックな世界
角山栄 和 歌 山 大 学・名 誉 教授 ・堺 市博 物館 長・(当時)
『私の見た草創期』
講演タイトルに魅せられて読みすすめる。
(抜粋)
関先生が見 えて、「大学をつくるんや。助 けて くれへんか」。 「君 、学部長や るんや ろ?」。彼 とは、京都大学では同 じゼ ミナールです。年齢 は私 よ り関先生 の方 が上 なんです けれども実 は彼 の方 がゼ ミナール では後輩 なんです。 そんな関係 で私 の家 に来 られ てそ うい う話 があったんです。
関先 生は 日本経済史 、私 は、西洋経 済史 で、同 じ経済史 なんです。 それ で、申請 を出す段 になって、「西洋経済史は誰や?」 と聞いた ら、今 日も、 ここにい らっしゃ る北 さん(現 、教授。比較文化研 究所所長〉 とい うこ とで した。 しか し彼 はまだその当時 大阪大学大学 院の学生なんです。 だか ら「ちょっと無理や な。文部省通 らへんで」 と言 ったんです(笑 い)。
(中略)
講 義が終 わった ら数人 の学生が私 の演壇 を取 り囲んで質 問です。予習 して来 ているし、私の講 義は今 も言 った よ うに「これ か らの 日本 を どうす るか」とい うことな んです から、単な る昔 の経済史 の話 と違うんです。大塚史学 の話 と違 うんです。
大塚史学は 「今 、革命を起 こさない とい けない」 と共産党 の言 って いるこ とを言 っているんです。それはおか しいのではないか。
ここで 私 は真剣勝負 をしてい るつ も りだ ったんです。それが、 ここの学生 にはピンと響いた んですね。日本では、その頃 は、社会科学 の方法 につ いても、たいてい、大塚 さんの 『社会科学 の方法』(岩波新書)と い う本 を使 って いま した。そ の点 ではものす ごい影響力 を持 っていた んです。高等学校 、中学校 の教科書か ら大学 のテ キス トまで、皆、大塚 さん系列 のもの を使 って講義するわ けです。 大塚 さんはイ ギリス経済史 、 ドイ ツの方 は松 田智雄教授 、それか らフランス は高橋幸八郎教授 とい う東大 の三羽ガ ラスが揃 ってい ました。それで 「日本 の経済史は、大塚史学で非 ざれば人 に非ず」 とい う時代だ ったんです。私 は、それ に対 して敢然 と、 「それ は間違 ってい るんだ」 と主張 した んです。 その 当時 の歴史学界の主流 は、「一 国資本 主義論」 「一国革命論」でや って きた わけですね。それ は間違 っていて、グローバル に物 を見 る見方が大事なんだ と言ったんです。今 で こそ 「グローバル」 「グローバ リズム」 と言 うけれ ども、私 は、そ の当時か ら、大塚史学 の 「一国資本 主義 」に代わ るもの として、「世界 資本主義」 とい うこ とを言 ってお りま した。創大の学生は、あの時 は本 当に反応が速か った。「21世紀は、 自分た ちの手 で」 との 自覚、、、、。

ここまで、読んできて、昔のことを(1974~75)。
しかしながら地方の学び舎でありながらも
日中関係の研究においては自分らのほうが歴史があると自負する雰囲気のある学風。その中で、抜かれてしまった感の漂う当時の周囲の嫉妬の感情は確かに一部の教授、学生にあった誤認発言「早稲田にしてやられるなんて」早合点の誤解発言、当時のことを。
検索した講演内容はほぼ理解。当時の時代の雰囲気だけは冒頭に記されていた通り。以下教授の語りの続きの部分を抜粋。

1971年 、昭和46年 とい うのは、 どんな年 だ と思 います か?ま だ、皆 さんの多 くは、生まれていないでしょ う。開学の2年 前 に、実は、東 大が 「大学紛 争」のため に、東大が始まって以来、初めて入学試験 が出来なかったんです。そ んな年 なんです。1969年 には 「大学紛争」が ピー クに達 して、東 大安 田講堂 に立て籠 もっていた学生が、8500人 の機動 隊 によって封鎖 を解除 させ られた。す ごい攻防戦で した。 これは1月 の ことで したか ら、3Hに 予定 して いた入学試 験が中止 された。東大の歴史始 まって以来、そんなことはなか ったわけです。その翌年、1970年3月15日 には 「大阪万博」が開催 され ま した。その直後、3月 末 に、私 は、イ ギ リスへ学会 出張のた めに、羽 田か らモス クワ経 由パ リ行 きの 日本航空の メイ ドゥン ・フライ ト(maidenflight)と 言 います か、処女飛行 に乗 りま してモスク ワ ・パ リを経 て、そ してロン ドンに入 りま した。その 日航機 には、た くさんのJALの お偉方や招待客が乗 っていま した。ほ とん どの招待客 はモス クワに行 く人た ちであ りました。その3日 後 、ロン ドンのホテルのベ ッ ドで ラジオを聞いている と、 日本の飛行機 がハイ ジャック され て 、 フ ァイ ター 、戦 闘 機 が 追 いか けて い る とい う情 報 が 入 って きま した。「よ ど号 」がハ イ ジ ャ ック され た の です 。 現 在 、 亡命 先 か ら 「帰 っ てくる」 とか 「来 な い 」 とか言 っ て い る赤 軍 派 が 、JAL機 をハ イ ジ ャ ック して 北朝 鮮 に行 っ た んです 。 この よ うに 「万博 」 で 国 を挙げて 、経 済 成 長 の栄 華 を賛 美 して い る 日本 で 、 同時 に 、 こうい う出 来事 が起 こ った年 で もあ った ので す 。 そ して 、そ の翌 年 、共 産 党 の知 事 が大 阪 府 に誕生 しま した。 この 黒 田了一 とい う人は 、大 阪 市 立 大 学 法 学 部 の憲 法 の 先 生 で した。 京 都 府 知 事蜷 川 虎 三 さん 、 そ して 、 大 阪 の 黒 田さん 、共 産 党 が い わ ば上 り坂 だ っ た 時代 です 。一 方 で は、 こ の年 、197!年 か ら72年 に か け て 、 日本 のGDPは ア メ リカ に 次 い で世 界2位 でした。21世 紀は"日 本 の 世 紀"に な る ん だ 、 と思 っ て い た 時 代 です 。 そ の 時 、 「明 日とい う字 は明 る い 日 と書 くの ね」 とい う 日吉 ミ ミの 歌 で した か 、 が あ りま した ね。 皆 さん 知 らな い で し ょう?私 も長い 間 、 「明 日」 とい う字 を書 い て き たが 、 「明 るい 日 と書 くの ね 」 とは 、 そ の歌 で初 め て教 えられ ま した。 とに か く、 「明 日は 明 るい ん だ 」 と、 日本 は 「万 博 」で 浮 か れ て い ま した が 、 その年 の 中 頃 に は 、公 害 に よ る 「イ タイ イ タ イ病 」 の発 生 が 、 ものす ごい 勢 い で 社 会 問題 に なっ て き た の です 。そ うい う時 に 、 世 界 一 の 強 国 、 ア メ リカが 、 「ベ トナ ム戦 争 」 に 介 入 し、財 政 的 に も苦 し くな っ た。 そ の 結 果 と して 、71年8Hに は 、 ドル を切 り下 げ ざ る を得 な くな った わ けで す 。今 まで1ド ル360円 だ っ た も の が 、 い っ ぺ ん に308円 に下 が った 。 い わ ゆ る 「ニク ソ ン ・シ ョ ック」と言 わ れ る もの です 。 社 会 情勢 を簡 単 に言 い ま す と、 こ うした こ とが 時 代の背 景にあ ります 。
開学前 に文部省 と掛 け合 う。大学が出来た時 、私が、 どのよ うに関与 したか を申し上 げてお きま し ょう。昭和43年か44年 で したか 、大学が出来 る2年 ぐらい前 だった と思いますが 、ある 日、後 に経済学部長 になられ る関順也先生(後 に、初代 女子 短大学長)が 、私 の家 にお見 えにな りま した。私は、和歌 山大学で図書館長 もや り、学部長 もや りま した ので、文部省(当 時)と の間に、いわばルー トを持 ってお りましたし、ノウハ ウも若干分 かっていま した。 また、和歌 山大学 では大学院もつくりま した ので 、そ うした 関係 で文部省 に何回 も行 って顔見知 りもお りま したから。
【関連】画像







