トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

オルテガの大衆病理学

マハヤーナ

大乗に乗るか、小乗か。いずれの軌道の車に

人生を

タイトル「大衆の反逆」には違和感。「大衆の充満」のほうが相応しい。

オルテガへの共感はもともと。

 

しかし、解釈となると

 

書評とも違った自身の理解から異論在り、善なる大衆が悪政を正すみたいな

勘違い。そのような書ではない。

如何に大衆が根無草的な要素をはらんでいるかを問うている。警世の書。

 

 

 

わたしは歴史の絶対的な予定説を信じない。

 

革命というのは既存の秩序に対する単なる反逆ではなく、新しい秩序を樹立することなのである。

 

慢心しきったお坊ちゃんの時代。

 

進歩主義者は立派な未来主義の仮面をかぶりながら、そのじつ未来には無関心なのである。

 

彼は自分自身凡庸であることを自覚しつつ、凡庸たることの権利を主張し、自分より高い次元からの示唆に耳を貸すことを拒否している。読み継がれる名著は、常に反省を促してくれる。オルテガが指摘した、衆愚の実態解析。

 

『汝が国に何かをしてもらおうと考えるまえに、汝が何をもって国に貢献できるかを問え

に近しい指摘。

 

カルメラ星人が、地球人の政治家の影響を受けているってか?おかしいぜ。君はいつから主義者に?」

「俺はナショナリストになったわけでもないよ。今は20世紀の哲人スペインのオルテガの言葉を聴いている。」大衆ではないなにか卓越したものに奉仕するように生をつくりあげるのでなければかれにとって生は味気ない。高貴さは権利によってではなく自己への要求と義務によって定義されるものというそれだ。

カルメラ星でもそうだったじゃないか前世代達の英断の数々を俺達は見てきている。

カルメラ星、消滅までのごく前の話。消滅は想定内のこと。時計の針は生物学的死が近づいてきたようなものに過ぎなかった。大事な因子を残そうと、そして、そのタネを植える畑としての探索が続いた。私達は地球という惑星を知らされ使命を告げられた。

俺達がなぜ選ばれたかって。そりゃ、その話の可能性を信じたのが俺達だけだったからさ。

カルメラ星での高貴ある解決の歴史をこの惑星でも活かさんと。俺はスマップの曲に次いで、哲学ではオルテガに執着しているんだ。オルテガは決して歴史の絶対的な予定説を信じなかった。短絡的な発展史観などは信じなかった。(わたしは逆に、あらゆる生、したがって歴史的生は、純粋な刹那によって構成されているものであり、その一瞬一瞬はそれに先行する一瞬に対して相対的に未確定であるために、現実はその一瞬において逡巡し、-カ所で足踏みし、多くの可能性の中のどれに決めるべきかに迷うものであると信じている。この哲学的逡巡こそが、あらゆる生的なものに、まごう方なき不安と戦慄を与えている)と。

「この哲学的逡巡とは、優柔不断とは似て非なるものだと思うんだ。」(まごう

方なき不安と戦慄)の緊張感の中から()を探り当てる力の源泉。カルメラ星での数々の成功がそうだったじゃないか。経済の悲観的な観測に左右されたり、ペシミスティック、ニヒリスティックな心象風景が続いていても、かの惑星同様この惑星でも達成は可能だと。「俺はケネディが人間本来の善性を愛し信じたように究極の可能性を改めて信じてみるよ。働きかけを、成せることを、出来ることからはじめた上でね。」

戦争犯罪、虐殺、許せない」

「武力をたのむ国は自滅するよ」と。

 

大衆操作 という落とし穴。そこには、大きな情報の受け手となる人々が、マス・メディアを通じて操作され動員され、

つまり判断力を喪失した集合体(mass)として存在している場合だってある。

本来は情報の理性的な受け手であり判断者であるはずの大衆が、無意識下のうちにいわば潜在的な波間に漂う群集となりうることを意味している。

歴史に学べは大衆は、ドイツのナチズム、イタリアのファシズムなどにみられるように、変質する弱さをはらんでいる。