土屋 哲 自伝的ノンフィクション『アフリカへつなぐ夢 』(作中では道夫=土屋 哲である)
道夫は夫妻で招かれた宮中晩餐会でマンデラ大統領と会うことができた。
1995年7月にマンデラ大統領は国賓として来日されたのであった。
そのとき道夫は、大統領に、かつて刎頚のまじわりを結んだ盟友、オリバ・タンボ前議長と道夫が写っている写真と、前議長直筆の礼状を手渡した。写真を見たとたんにマンデラ大統領の顔は、柔和にほころび、満面に笑みをたたえながら、今度は「苦労をともにした盟友です」と、両脇の両陛下にこもごもに写真を見せられた。

道夫がアフリカ文学に取り組むまでの道のり。
敗戦が決まって復員後は1950年6月に朝鮮戦争が勃発。
おもえば世情はキナ草さ漂う中、道夫の勤務した高校の先生の九割が、昼間大学院に通う道夫とほぼ同年輩の者か、税理士とか医師といった別の職業をもっている人ばかりだった。
生徒の中には、道夫より年上の者がいたり、組合の委員長もいた。戦後の混乱期で、まだまだあぶれ者とか一攫千金を夢見る猛者どもが、街中に充満している時代だった。
(略)
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荒れる安保闘争・大学紛争の頃 大学側と学生側のパイプ役として、
道夫の大学紛争の終生忘れられないエピソードが。
心から信頼できる人間とわかったら、その友情をとことんまで大切にしてつきあっていこうという、人生訓を。
(略)明治大学で在外研究の順番がまわってきたとき、道夫は一も二もなく任地にアフリカを選んだ。
(略)そして、ここから道夫のアフリカ遍歴ははじまった。(略)ケープタウンで短編小説家としても有名な
非白人詩人ジェイムズ・マシューズに会った。マシューズは白人官憲からマークされていた、反体制派の先頭を走る詩人だ。
そんな危険人物と白昼堂々と会うことは、なんともスリリングな体験だった。白人扱いの道夫と、非白人扱いのマシューズとでは、アパルトヘイト体制下の南アフリカでは、会う場所を見つけるにも骨が折れる。
(略)ロンドンでも道夫は、南アからの亡命作家、ルイス・ンコーシとアレックス・ラ・グーマに会ったとき、執念深い南アの諜報機関の尾行を警戒した。
道夫は何としても、アフリカ民族会議(ANC)と接触して、彼らの闘争を蔭ながら支援したいと考えていた。
(略)
ANCの代表部を日本に置いてはどうかと提案したら「それはグッドアイデアだ。日本は重要な国だから、さっそく検討しよう」ということに。
後日、道夫が泊まっていた、リッジウェイ・ホテルの道夫の部屋に、マセモーラ首席代表と、コーニ事務局長、それに1973年にロンドンで会い、当時ザンビア大学教授としてアフリカ文学を講じていたルイス・ンコーシの四人が集まった。
ANCの同志にまつわるエピソードなどを次から次へと語りあううちに、すっかり心を許しあい、意気投合する仲になっていた。
ほどよく酔うほどにANCの歌を森繁調の低音で、思いをこめながら口ずさんでくれたマセモーラ首席代表。
このつながりがはじまりだった。
【20世紀を生きて アフリカへつなぐ夢 ポプラ社】一部(抜粋)

ここに至るまでの過去(戦前、第二次大戦中)を邂逅
終戦と抑留、労働奉仕。22歳、第8陸軍病院は病院敷地を英軍に明け渡す事になり、道夫たちは石炭の町バトアランに移動していた。
山峡のこの町で道夫ははじめて食料不足と栄養を補うためにカタツムリを食べた。カンナの葉にしがみついて、白い粘液の航跡を緑の葉にとどめている、カラが7センチはあろうかという、あの茶白まだらのグロテスクな大型のカタツムリだった。
思い出すのは第十五多門丸乗船を明日にひかえていた戦前の9月24日の夜のこと。
陸軍予備士官学校、仙台時代。九州・博多の旅館に泊まっていた道夫に和歌山電話局から電話が入った。
いっしょに中学に通った仲、当時電話局に勤めていた親友からだった。
「いまお母さんがそばに来ているからわかる」というのだ。出立を前に母の涙声を聞くのは、道夫にはたえられなかった。電話のコードを伝って、気丈な母の涙をこらえている声が聞こえてくる。「どうして連絡してくれなかったの?母というものは、どんなところへでも、どんなむりをしてでも、自分の息子には会いに行くものよ」声はつまっていた。やがてくりごとが嗚咽にかわるのがおちだった。「よくわかりました。それでは、みんな元気で、仲良くね。ぼくもげんきだから、嶋村君にもよろしく」そういうのが精一杯で道夫は電話を切った。その夜、床についてから、それまでのいろいろなことが、次から次へと走馬燈のように、頭をかけめぐって、寝付かれなかった。前日の9月16日には離隊候補生の壮行会と銘打って、親族との最後(?)の面会がゆるされていたのだ。
でも道夫は母に来てほしいという連絡をとらなかった。もって生まれた一刻者のせいだったのかもしれない。
道夫の判断はこうだ。仙台は、和歌山からいかにも遠い。父は海外勤務、兄は中国の戦線で従軍中、姉妹を和歌山に置いて母がひとり、それにわずか3時間ぐらいの短い面会のために、貴重な旅費と時間をかけて、はるばる仙台くんだりまで来てもらうのはいかにも心苦しい。面会が終わったあと、ふたりの息子を
戦地に送り出したさまざまな思いに心を痛めながら、ひとりとぼとぼ、遠い旅路を汽車を乗り換えながら和歌山まで帰る、母の淋しげな姿を思い浮かべると、どうしても来てほしいとは、道夫にはいえなかった。「いよいよ、九月末に南方にむかって出発します。お元気で」という簡単な手紙を受け取った母は、電話局にいる嶋村君のところにかけこんで、八方手をつくして、博多の旅館にいることをつきとめたらしいのだ。
あの時はいま親離れして遠くへ去って行くわが子を、もう一度自分の胸にしっかりとたぐりよせ、親子のきずなの確かさを確かめたかったのかもしれない。(略)
物語りの愁眉は
ナイロビ大学での受賞式場面。
送り出した梱包を見たときには道夫は思わずかけよって、わが子のように、荷物をだきしめた。涙が出た。ケニアへの用意していたプレゼントのタイプライター。
おかげで十日間という短時間で、記念すべき3月7日の贈呈式をむかえることができた。
副学長をはじめ、道夫の友が多数列席してくれた。ボイス・オブ・ケニアや主力新聞三紙と朝日・読売・共同の現地特派員も取材にすがたをみせてくれ、贈呈式は盛り上がった。図書寄贈の席で同時に、最新悦IBM全自動タイプライター2台を贈呈できた。これは、道夫とナイロビ大学との交流を新聞で知った仙台陸軍予備士官学校11期生の戦友たちが、道夫を激励し支援しようと集めてくれた義援金で購入したものだったのだ。
土屋哲(さとる)略歴
和歌山県生まれ。東京大学卒。ナイジェリアのイバダン大学、ケニアのナイロビ大学などで日本文学を教え、これらの大学やセネガルのダカール大学に日本語関係の講座を開設。明治大学教授を務め、アフリカ文化などの紹介に努めた。
著書

『アフリカのこころ 奴隷・植民地・アパルトヘイト』
『現代アフリカ文学案内』
『僕たちにもチャンスをおくれ!!』(詩人M・O・ムチャーリとの共著