トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

コンスタンチン君はいくつに?

13歳になったコンスタンチン君は背は母親より高く、なかなかのイケメンで日本語を勉強しているとのこと。日本とかかわる仕事をしたいと話した。
もらったお見舞いの手紙は400通、80歳のおばあさんが送ってくれた千羽鶴を大切にしている、という。3日の命、ショック死もある、と宣告された命は、すっかり成長した姿と、はにかんだ笑顔を見せてくれた。

国境を越えた救出劇、決死の緊急輸送は見事花開いた。

コンスタンチン君を救え      (2000年放送NHKプロジェクトXより)

コンスタンチン君はサハリンに住む3歳の男の子、母親が洗濯用に沸かした100℃近いお湯の入ったバケツにお尻から落ち、全身の90パーセントにやけどを負ってしまった。サハリンの病院で70時間の命と診断されたが、専門医もいなく、手のほどこしようがなく見守るだけ・・・家族は医療の進んだ日本での治療に最後の望みをかけた。
 サハリンに住む日本人から、北海道庁に救急依頼の電話があり、外務省にその知らせは届いた。当時は7年前に大韓航空機墜落事件が起こったこともあり、ソ連に対する反感もあった。サハリンと北海道のあいだには鉄のカーテンがあったのだ。
 サハリン知事から正式な要請も届き、外務省から海上保安庁へ、連絡は飛び、ベテランパイロットが札幌医大の救急医を乗せ、サハリンに飛ぶことを決断した。ソ連軍の戦闘機がスクランブルをかけてくるおそれもあり、緊張が走った。なんとか空港に近づいたが、深い霧で滑走路が見えない。上空に待機1時間、燃料も減り引き返すしかない、と思った一瞬、霧の隙間から滑走路がかすかに見えた。「今しかない!」と着陸!
下手なドラマより緊迫した場面に目をそらすことができなかった。

 全身包帯に巻かれたコンスタンチン君を抱き抱えた日本人医師は、その温かみと、血液のにじみ出た湿り気を感じ、このままにはできない!と感じたという。助かる可能性は非常に低いとわかっていながら。
 すぐ飛び立った飛行機の中で治療開始。これほど重いやけどは初めて、うめき声をあげる幼子に医師たちは緊張した。札幌医大へ到着したのは、20時間後。一刻も早い皮膚の移植が必要だったが、提供者がいない。助かる可能性のあるぎりぎりの55時間後、東京の病院から皮膚が到着。手術は4時間近くかかった。

 一週間後、移植した皮膚はしっかり張り付いていた!意識が戻った息子に、童話のテープを聞かせ続けていた父親は涙を流した。
3
日後、母親も稚内に着き、87日後一家はサハリンに無事戻った。
緊迫した画面の連続で、まさに、「事実は小説より奇なり」である。

  小さな命を救おうと、東西冷戦末期、日本とソ連との間で交わされた、「善意」のバトンを克明に取材されていた。前例のない超法規的措置が、外務省、法務省海上保安庁の間で検討されていく。「ビザはどうするのか」「飛行経験のないソ連領空を安全に飛べるのか」「手術に失敗したら日本の恥にならないか」しかし、関係者は様々な思惑を超えて、見知らぬ幼児の命を救うことを最優先に掲げた。最初の電話からわずか17時間後、海上保安庁の輸送機がサハリンへ飛び、コンスタンチンくんは札幌医科大で手術を受けた。両親は涙ながらに日本人への感謝を述べ、ゴルバチョフ大統領も謝意を表明した。1990年8月20日の夕方、旧ソ連のサハリンで、3歳の男の子が大やけどを負った。誤って熱湯が入ったバケツを倒したためだった。コンスタンチンくんの親は、医療技術が進んだ日本で手術が受けられないかと知り合いに相談したことが切っ掛けだった。

時をもどせるものなら、あの雪解けの時代へ。

 

いまは

大勢の人たちの命が戦争で失われていっている。

プーチンのはじめた戦争。

 

プーチンゴルバチョフの最期の言葉をどう受け止めていたのだろう。

侵攻を憂いていた。あくまでもウクライナとは話し合いが必要だと言っていた。

戦争は止むことなく続いていく。

今現在であったらどうだろう?
コンスタンチン君の命は救えただろうか?