トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

為替・時々の世相を・エキスポ70”~

まずは少し前のことから、「記事には」

米国の孤立が鮮明となっている。ただ、「米国第一」の通商政策はトランプ大統領の金看板。麻生氏ら出席者によると、ムニューシン氏は「自分に言っても無理。トランプ氏に直接掛け合うしかない」との考えを示したという。米中間だけでなく、世界規模に拡大しかねない「貿易戦争」の回避は、サミットでの協議にかかっている。 

 日本はWTO提訴の「準備はしている」(麻生氏)ものの、様子見の状態。対抗措置に出づらいのは、12日の米朝首脳会談を控え、トランプ氏に拉致問題の解決という「お願い」(日本政府関係者)をしているためでもある。日本を含む6カ国がトランプ氏の政策運営に揺さぶられる状況が続きそうだ。【ウィスラー(カナダ西部)清水憲司】 

北朝鮮協調 火種残る 

 シャルルボワ・サミットの政治分野の協議では、北朝鮮情勢に加え、米国が離脱したイラン核合意などを巡って首脳らが意見を交わす。安倍晋三首相は、北朝鮮問題で議論をリードし、G7の結束確認を目指す。完全かつ検証可能で不可逆的な方法による非核化(CVID)が実現するまで、国連安全保障理事会による制裁決議を履行することで一致したい考えだ。ただ、12日の米朝首脳会談を前に、トランプ米大統領北朝鮮に歩み寄る姿勢を見せており、対北朝鮮圧力でどこまで足並みがそろうか不透明感が漂う。 

 イラン核合意に関しては、離脱した米国と、合意を維持したいフランス、ドイツ、英国との対立が表面化している。日本政府は「核合意を引き続き支持し、維持に向けた関係国による建設的な対応を期待する」(菅義偉官房長官)と欧州寄りの立場だが、北朝鮮問題を抱えるなか、米国に配慮したい思惑もあり、難しい対応を強いられる。 

 政治分野の協議は8日の予定。9日は女性の地位向上や、地球温暖化問題などが主要議題として想定されている。安倍首相は、日本の歴代首相で最多の7回目のサミット出席。13回目のメルケル独首相に次ぐ「古株」だ。

 

米国の孤立が鮮明となっている。


貿易で溝浮き彫り=米輸入制限に批判相次ぐ、G7サミット。

焦点は、米国の輸入制限をはじめとする貿易問題。この問題は議長国カナダのトルドー首相の提案により、2回目の討議で集中的に議論。


自国第一主義を掲げるトランプ米大統領と、米国への対抗措置を打ち出したカナダや欧州連合(EU)加盟国の首脳の間で貿易の在り方をめぐる意見の隔たりは大きく、G7首脳が意見を一致させるのは困難な情勢。


日本を含む6カ国がトランプ氏の政策運営に揺さぶられる状況。




安倍晋三首相は「貿易制限措置の応酬はどの国の利益にもならない」とする日本の立場をあらためて主張。


古いデッキ。見つけたカセットテープを試しに聴いてみたことを振り返っている。声からすると仲間が文章を読んで吹き込んだもの。時代背景からすると内容からしてちょっと、上の世代。変動相場制前の時代の頃を懐かしむように。比較するに安倍・トランプ時代と比べても隔世の感がある。耳を澄ませて聞き入る。


私は1期生から4期生までの4年問、講義をさせていただきました。非常に懐かしい30年前の思い出です。そして、私の教壇生活は、昭和22年からちょうど7年前の平成7年までで50年が経ちました。従って、私は、その年を境に教壇に立っのを止めました。いま50年間を振り返ってみて、最も生涯忘れることの出来ない授業と言いますか、講義というのが、この四年間の〇〇大学でした。皆さんのように、創立後30年経っている大学に入って来られる学生と、創立当初に「これから大学を創るんだ」という時に入って来た学生とでは、全然、意気込みが違うと思うんです。私は〇〇大学の創設期と、戦後、新しい校名に変わった国立「和歌山大学」にも、当時若僧でしたけれども、関係をいたしました。それから、定年になってから行った奈良のある大学の創設にも若干、関係をいたしました。〇〇大学では、関係したと言っても、スタートから関係したのではないのですけれども、1期生から4期生までの間、ここの教壇に立ち、本当に一生忘れられない感激の4年間を過ごしました。何を感激したのかという話を、これから若干話してみたいと思います。時代背景に大学紛争、ベトナム戦争〇〇大学が出来た1971年、昭和46年というのは、どんな年だと思いますか?まだ、皆さんの多くは、生まれていないでしょう。開学の2年前に、実は、東大が「大学紛争」のために、東大が始まって以来、初めて入学試験が出来なかったんです。そんな年なんです。1969年には「大学紛争」がピークに達して、東大安田講堂に立て籠もっていた学生が、8500人の機動隊によって封鎖を解除させられた。すごい攻防戦でした。これは1月のことでしたから、3Hに予定していた入学試験が中止された。東大の歴史始まって以来、そんなことはなかったわけです。その翌年、1970年3月15日には「大阪万博」が開催されました。その直後、3月末に、私は、イギリスへ学会出張のために、羽田からモスクワ経由パリ行きの日本航空のメイドゥン・フライト(maidenflight)と言いますか、処女飛行に乗りましてモスクワ・パリを経て、そしてロンドンに入りました。その日航機には、たくさんのJALのお偉方や招待客が乗っていました。ほとんどの招待客はモスクワに行く人たちでありました。その3日後、ロンドンのホテルのベッドでラジオを聞いていると、日本の飛行機がハイジャックされて、ファイター、戦闘機が追いかけているという情報が入ってきました。「よど号」がハイジャックされたのです。現在、亡命先から「帰ってくる」とか「来ない」とか言っている赤軍派が、JAL機をハイジャックして北朝鮮に行ったんです。このように「万博」で国を挙げて、経済成長の栄華を賛美している日本で、同時に、こういう出来事が起こった年でもあったのです。そして、その翌年、共産党の知事が大阪府に誕生しました。この黒田了一という人は、大阪市立大学法学部の憲法の先生でした。京都府知事蜷川虎三さん、そして、大阪の黒田さん、共産党がいわば上り坂だった時代です。一方では、この年、197!年から72年にかけて、日本のGDPアメリカに次いで世界2位でした。21世紀は"日本の世紀"になるんだ、と思っていた時代です。その時、「明日という字は明るい日と書くのね」という日吉ミミの歌でしたか、がありましたね。皆さん知らないでしょう?私も長い間、「明日」という字を書いてきたが、「明るい日と書くのね」とは、その歌で初めて教えられました。とにかく、「明日は明るいんだ」と、日本は「万博」で浮かれていましたが、その年の中頃には、公害による「イタイイタイ病」の発生が、ものすごい勢いで社会問題になってきたのです。そういう時に、世界一の強国、アメリカが、「ベトナム戦争」に介入し、財政的にも苦しくなった。その結果として、71年8Hには、ドルを切り下げざるを得なくなったわけです。今まで1ドル360円だったものが、いっぺんに308円に下がった。いわゆる「ニクソン・ショック」と言われるものです。社会情勢を簡単に言いますと、こうしたことが〇大が出来た時代の背景にあります。開学前に文部省と掛け合う〇〇大学が出来た時に、私が、どのように関与したかを申し上げておきましょう。昭和43年か44年でしたか、大学が出来る2年ぐらい前だったと思いますが、ある日、後に経済学部長になられる関順也先生(後に、初代〇〇女子短大学長)が、私の家にお見えになりました。私は、和歌山大学で図書館長もやり、学部長もやりましたので、文部省(当時)との間に、いわばルートを持っておりましたし、ノウハウも若干分かっていました。また、和歌山大学では大学院もっくりましたので、そうした関係で文部省に何回も行って顔見知りもおりました。関先生が見えて、「〇〇大学をっくるんや。助けてくれへんか」。「君、学部長やるんやろ?しっかりせいや」。彼とは、京都大学では同じゼミナールです。年齢は私より関先生の方が上なんですけれ・ども、実は、彼の方がゼミナールでは後輩なんです。そんな関係で、私の家に来られて、そういう話があったんです。関先生は日本経済史、私は、西洋経済史で、同じ経済史なんです。それで、申請を出す段になって、「西洋経済史は誰や?」と聞いたら、今日も、ここにいらっしゃる北さん(現、教授。比較文化研究所所長〉ということでした。しかし、彼は、まだその当時、大阪大学大学院の学生なんです。だから、「ちょっと無理やな。文部省通らへんで」と言ったんです(笑い)。仕方がなく、大学としてはそのまま、提出したところ、文部省でクレームが付いて、「研究では講師採用は可であるが、誰か、ちゃんと講義できる人を正式に迎えた方が良い」と、こう言われたと言って、また、相談に来られたんです。北さんは、私の大学院での、私のゼミです。だから、北さんより上の、例えば、東大の先生が来るとか、あるいは大塚史学系の人たちを連れて来られたら、彼が困るだろう。そこで、私に、すでに名前を出しているから、文部省に行ってもらいたい、ということになったのです。そこで、文部省にまいりましたら、「角山さんが講義にくると言うなら仕様がないな」という話で、その一言で決まりました。本来なら他の先生が来ているはずだったのですが、それで私がここへ来ることになったのです。しかし、私が北君の上に来るとなると、彼が気の毒なことになりますから、私は、毎回は出て来られないこともあり、非常勤講師となったわけです。たまたま、その年、昭和46年から、私は、日本学術会議の会員になりまして、東京には毎月のように来ていました。従って、私が上京する時に、ここで講義をする。その後は、北さんにお手伝いをしていただき、色々、面倒を見てくれるということで、私は来ることになったわけです。
経済史で"大塚史学"批判を講義最初の講義は、46年の4Aから始まったんです。4月から始まっても、誰も上級生がいないわけでしょう。新入生300人。ここは、入学生を定員どおり真面目に取られたんですね。普通、私立大学で定員300人といったら、当時は、少くとも400人は採用するんです。ここは一組50人で6組。きちっと300人で水増しも何もないんです。私立にしては立派な大学です。ところで、〇大にどういう学生たちが集まったか。本当に、「これから自分たちで、新しい21世紀を、日本の、世界の21世紀をっくるんだ」という情熱に燃えた学生が大多数でしたね。私は、この大学で「一般経済史」を持ちました。後には、「西洋経済史」を持っことになります。その授業の中で、私は、大学というところは研究するところであると同時に、教育するところである、ということを実感しました。大学は学問研究という面、そして講義という二っの仕事が先生に課せられていることを、改めて、教えられました。普通、大学というところは、私は、ずっと京大ですけれども、戦前の国立大学(帝国大学といった)で経済学部といえば東大と京大の二っしかなかったんです。そして、経済学部の教授というのは、二っしかない帝国大学の教授ですから、日本を代表する第一線の研究の成果を発表するという形で講義をされる。それを我々学生はじっと聞く。だから、原則として毎年、同じ講義というのはないんです。毎年、違う新しい最先端の研究成果の講義です。ということは、テキストは使わないんです。毎日が新しい、毎年が新しいということになれば、極端な場合、「ノート講義」しかないのです。そのノート講義というのは、今みたいに、印刷機、情報機器も発達していない時代ですから、先生がノートに書き上げてきた原稿を読み上げて、「一何々…行変えて」と、そんなことまで言って、ノートを取らせていたんですよ。そうすると、やがて1年か2年後になると、ある場合にはその講義が一冊の本になったものです。それが、テキストと言えばテキストだったわけですが、いわば講義録ですから、また年が替れば新しいのが出ます。私は、それを創大でやろうとした。ところが、戦前は、わずか200人くらいしか学生がいなかったので、それでも良かったのです。ところが、だんだんと学生数も多くなってきましたら、むしろ「テキストを作ってほしい」という学生の要求が上がってきたものですから、やむを得ずここでは、私は、テキストを使わせてもらいました。しかし、私が、和歌山大学で講義をしていた時は、ずっと毎年、京都大学で教えられたように新しいノートを作って、そして学生の前で、「これが、一番新しいんだ」と、講義をしたものです。何を講義していたかと言うと、「大塚史学」批判であります。「大塚史学」と言っても、今の人は知らないでしょう?

大塚久雄という先生で、この方が経済史だけでなく、あの当時、日本は敗戦直後ですから、どのようにして国を建て直すか、日本の経済を立て直すか、という国民的課題がありました。それに対する歴史的な解答、ヒントを与えたのが大塚史学であったわけです。しかも、大塚さんは、イギリスの経済史を中心に研究してきた方ですから、「これからの日本は、戦時中のものを含め、封建的なものを廃して民主主義を確立しなければならない。そのモデルがイギリスである」という考えを持っていた。それからもう一つは、日本は、明治維新以後、非常にいびっな経済の発展の仕方をしてきたんだ。だから、こんな戦争までしてしまったという反省も込めて、今の言葉で言う「工業化」、これをもう一度イギリスがたどってきた道を学びながら、資本主義への道をイギリスをモデルにして考えて行こう、と言われていたのです。そして、日本も封建的なものを改革し、資本主義の発展を可能にする条件を作り出していこうとします。「市民革命をやりましょう」ということなのですが、戦時中は、「革命」なんていう言葉を使うとえらいことになります。そこで、大塚さんは、戦争末期の1944年に『近世欧州経済史序説』という本をお書きになります。そこには大塚史学のエッセンスがあったのですが、それを読みますと、いわゆる封建制から資本主義への移行については「市民革命」「ブルジョワ革命」の道を辿らざるをえないというわけです。大塚さんは当時禁句であった「革命」という言葉を使わないで、そういう図式を出していました。もっとはっきり言いますと、大塚さんの後ろには、政治的に共産党の言う理論がありました。それを私は、如何に間違っているかということを、講義を通じてずっと「大塚史学批判」をやってきた。和歌山大学でもやりました。ここでもやりました。ここが和歌山大学と違うのは、先程も言ったように、普通、テキストは使わないんだけれども、だんだんそれを使わざるを得なくなってきたのです。そこで、何を使ったかと言いますと、ちょうど1年前の1970年に、私は、東洋経済新報社から『経済史学』という本を出しました。この中で、大塚史学批判を書き、新しい経済史として、いわゆる近代経済学新古典派の経済史、そういう成長理論、成長史学を日本で初めて紹介し、提起したのです。
真面目で、意欲に燃える学生たち私は〇〇大学では、朝の9時から始まる授業、1時問目を受け持ちました。金曜日だったと思いますが、その前の晩に、八王子からここの非常勤の先生の宿舎に来ます。夜中になると、バスなんかありません。大体、〇大へ行くバスは夕方6時頃に終わっていましたから(笑い)。仕方ないからタクシーです。ところが、タクシーの乗り場に行くと、学生らしい人が1人、2人いるんですね。「何してるの?」と、一度、聞いたことがあります。「君、〇〇大学の学生?」「はい」「何してるの?」「3人くらい集まるまで、待ってるんです」と言うんです。タクシー代は高いですからね。大学まで学生の身で、一人でなんて乗るわけにいかん。寮へ帰ってくる学生が、夜中10時、11時頃ですよ。学生が、そんな頃まで何していたのか?東京へ行ったり、あるいは他のところヘミーティングに行ってるんですよ(笑い)。僕は、あまり事情は分からないから、タクシーの運転手に聞いた。「ここの学生どうですか?」「ここの学生は真面目ですわ。あんなして3、4人集まるまで待って、それでタクシー代浮かして帰ってきて1時、2時。それから寝て、朝6時に起きる」「ほう、そうか」。私の講義は9時から始まる。翌朝、それまで時間あるから寮を見せてもらおうと思って行った。そうしたら、びっくりした。もう皆、起きているんですわ。6時から起きてるんです。それで勤行してるんですよ(笑い)。そして勤行が済んだら、ご飯を食べて、まだ、9時まで時間があるんですよ。その時間に、私がずっと回って見たら、私の『経済史学』というテキストを広げて予習しているんですよ。私は、長い間、「経済史」を教えてきて、テキストも使ってきた。しかし、「経済史」を予習する学生なんて聞いたことない。ものすごく真面目なんですよ。それでぴしゃっと9時から始まる授業。このような大教室での授業は、もう少し学生が増えてからでした。初めは小さい教室で講義したのを覚えてるんですけれども、確か9時までに、ほとんど学生は入っているんですよ、ここの学生は。前の大学では、9時に出席なんて、学生はおらへんから、9時から授業したことはないんです。ここで初めて9時から始まる講義をもったんです。ところが、皆が、9時前にぴしゃっと入っている。そして、私が、教壇に立っと、皆、ぱっと立ち上がって礼をするんです。今でもそうですか?(笑い)そう、えらい変わったな。(笑い)その時は、皆、立ち上がって礼をする。誰も、号令をかけるわけでもないんです。ある目、学生が廊下を歩いて来たように思ったんだけれど、ドアを開けて入って来るかな、と思っても入って来ない。どうなっているのかな、と思って、廊下のドアを開けて見てみたんです。倒れてるんちゃうかなと思ってね。そうしたら、廊下の外で私の講義を聞いていたんです。「君、君、ここで何してる?」「遅れて来ましたので、ここで講義を聴いております」。私は、こんな学生は初めてや。「どうぞ、入って下さい。遠慮せんで、ええから」って。入ってきた。真面目でしょう。感動しました。そして、講義が終わったら、数人の学生が私の演壇を取り囲んで質問です。予習して来ているし、私の講義は、今も言ったように、「これからの日本をどうするか」ということなんですから、単なる昔の経済史の話と違うんです。大塚史学の話と違うんです。大塚史学は「今、革命を起こさないといけない」と共産党の言っていることを言っているんです。それはおかしいのではないか。ここで、私は真剣勝負をしているつもりだったんです。それが、ここの学生にはピンと響いたんですね。日本では、その頃は、社会科学の方法についても、たいてい、大塚さんの『社会科学の方法』(岩波新書)という本を使っていました。その点ではものすごい影響力を持っていたんです。高等学校、中学校の教科書から大学のテキストまで、皆、大塚さん系列のものを使って講義するわけです。大塚さんはイギリス経済史、ドイツの方は松田智雄教授、それからフランスは高橋幸八郎教授という東大の三羽ガラスが揃っていました。それで「日本の経済史は、大塚史学で非ざれば人に非ず」という時代だったんです。私は、それに対して敢然と、「それは間違っているんだ」と主張したんです。その当時の歴史学界の主流は、「一国資本主義論」「一国革命論」でやってきたわけですね。それは間違っていて、グローバルに物を見る見方が大事なんだと言ったんです。今でこそ「グローバル」「グローバリズム」と言うけれども、私は、その当時から、大塚史学の「一国資本主義」に代わるものとして、「世界資本主義」ということを言っておりました。〇大の学生は、あの時は本当に反応が速かった。
「21世紀は、自分たちの手で」との自覚当時〇〇大学に対する評価は冷たかったんですよ。冷たかったらどうしよう、就職することは難しい開学以来のハードル。そこでここの学生は何をしたか。僕は、今でも忘れません。彼らは言いました。「実力で行こう、実力で」と。実力というのはですね、まず、資格を取るということ。何の資格か。経済、経営の資格であれば、まず、会計士の資格を取る。学生たちは入学した時から、会計士の試験に合格するために研究会を持ちました。そして、「同志、集まれ」という形で募集した。そして入ってくるなり、その方面の勉強をした。学生でありながら、在学中に資格を取った。それも1人や2人ではない。これは、なかなか取れるもんじゃないですよ。私は、ずっと和歌山大学にいて、昭和25年から20年経っていましたが、在学中の合格というのは、ほとんどいなかったんじゃないですか?まあ、1人取ったぐらいかな。ここは続々と取っている。それからもう一っは、実力主義で行けるところは、例えば、メディア、新聞社、放送局、これらの会社は主義、主張に関係なく採ってくれる。それからもう一つは公務員試験です。しかも、外交官の上級職の試験の時は感心しましたね。大体、ここで3時半か4時半に授業が終わったら、あとはクラブ活動がありますが、それから信濃町に行ってセンターで勉強をし始めた。そこに夜までいて、語学を勉強する。これも私が聞いているところでは、続々と外交官試験に合格している。そして、あの時は、忘れもしませんね。共産党は、先程から言っているように、ぐんぐん伸びていた時です。向こうもやりますね。〇大にオルグを派遣したようです。ある目その紙ビラが貼ってありました。「何日に集まれ」という風なビラを貼った。しかし、間違っていましたね。誰も行かなかった。反応なしですよ。偉いね。それは何故かと言うと、外の大学は当時、皆「大学紛争」を抱えていたんですよ。先程も言ったように東大もそうでしょう。和歌山大学でもそのために、私も身体をこわして、学部長を辞めざるを得なくなりました。すごい徹夜の断交だもの。そして、皆、多かれ少なかれ、教官も学生も主導権争いで、民青か反民青かで、とにかく大学は揺れていた。どんなところでも必ずその影響があった。ところが、ここにはそんな学生運動は出なかったんです。不満、不平がなかったかと言うと、あるんですよ。あるんだけど、ここのやり方は他の大学と違っていた。例えば、ここの創立者が、どう言っていたかということが、かなり大きなヒントになって、皆、その提言に基づいて考え始める。しかし、ここは終わりではないんです。始まりなんですよ。だから、皆、そこが違っていて、「21世紀は、自分たちが創る」と言っていたのです。
大学に必要な「建学の精神」今日も見てみたら、校舎の入口の碑に「人類の平和を守るフォートレスたれ」と書いてある。この大学の「建学の精神」ですね。やはり大学というのは、一っ理念がちゃんとしていないといけない。大体、国立大学には「建学の精神」がないんです。「国のため」と書いてあるだけなんです。だからいい加減なもんで、今は「国破れて、山河あり」なんで、国が破れているのに「国のため」などと言っている。だから、戦後は「国のため」などという人はいなくなった。「会社のため」ということになっていった。ところが、国立大学はずっとそれでやってきた。ここは違います。私は、ここの講義で「大塚史学批判」をやりました。それで何をやったかと言うと、先程、言いましたように、「一国資本主義」ではなくて、「世界資本主義」と言いますか、グローバルに歴史、あるいは経済を考えなければいけない、ということを説きました。そして、大塚さんが言うように、封建制から資本主義への移行に問題があるのではなくて、「産業革命」以後の資本主義が、どのようにグローバルに展開して行ったのか。その中で、どのように富める国と貧しい国が生まれて、この現代の世界の秩序は出来ているのか、ということを説きました。それからもう一っ、「大塚史学批判」の中で、大塚さんは、生産中心ばかり言っていたんです。生産力ですね。ところが、物がない時はそれでいいけれども、だんだんと豊かになってきた。これからは、そうではないのではないのか。むしろそれよりも、その生産物がどこの誰によってどのように消費されたのか。消費、あるいは、私は「暮らし」と言うようになるんですが、それが、これから如何に大事か、ということを説きました。それは、その後の、私の研究の中で、ここで講義したのが1971年から75年ですが、その結果が、75年の2Aに河出書房新社から出た『産業革命と民衆』という本です。これは、イギリス経済史の中で、大塚さんが全くやらなかった、産業革命時代の庶民の生活ですね。イギリスの労働者はどんなものを食べていたのか。お便所はあったのか、なかったのか。どういう水を飲んでいたのか。あるいは洗濯はどうしていたのか。風呂は入っていたのか。そういうことを、私はこの『産業革命と民衆』という本で書きました。これはものすごく版を重ねました。10年以上あちこちでテキストに使われました。私は生活史と言いますか、消費中心の、物の消費だけが暮しでなく、こころの豊かさのために「時間の消費」も入れて考えなければならないと思うのです。こうしてやがて、私は『茶の世界史』(中公新書,1980)『時計の社会史』(中公新書,1984)『時間革命』(新書館,1998)という本を書くんですけれども、そういう点からも、ここで講義した1971年から4年間というのは、ものすごい日本経済の転i換期であったと同時に、世界経済の転換期でもあったわけです。その講義をしている時、73年のことですけれども、ご存知の通りの「オイルショック」が起こりました。これから資源問題、あるいは環境問題、人口、食糧問題は、一体、どうなるんだろうという問題が発生しました。そういう点も講義の中で取り入れました。そして、〇〇大学の学生も、その中でこれからの世界文明がどう動くんだ、ということ論議していました。現代世界の出発点がそこにあったわけですから、恐らくその時に学んだことが、今も延長して続いていると思うんです。