トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

胡適_朝河貫一

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身近にある過去から考えようとしている。弟の世代やまた息子、娘たちからの世代からも学ぶつもりで。

YとMとは親しく会話している。机を並べて学んでいる。
まるでパレスチナとイスレエルの引きずってきた関係がこの両者においては
消えうせたかのように仲良くである。
お互いが日本への留学生。
身近にある過去から考えようとしている。
弟の世代やまた息子、娘たちからの世代からも学ぶつもりで。


それらを見て数年前にも似かよったケースを見ていたことを思い出す。
一つの中国をめぐっての一方での論争もある中で。それまでは大陸側からの武力解放も辞さないという発言もあって、
まさかkとOとの間で冷静でいられる訳はないだろうというのが大筋のところだった。
しかし、微笑ましい誤算だったのだ。
つづいてあれは天安門での民主化運動で騒がれていた頃。
きわめて困難な時期。同じような冷静さが示された。

広場にあつまった学生を鎮圧に乗り出す政府軍装甲車。
彼らも息を呑んでテレビ画面を。
改革開放経済にむかってデリケートな問題となってしまっていた。
G8では国際社会がこぞって経済制裁をすべきだと議論し始めていた。
日本の対応は
その大勢がどこにむかうか、いわば様子見といったところだった。
kもOも。寡黙なふたり。
政治的発言は慎重にして控え目だった。
とくにkの同学には党幹部の子弟が多いだけに、どこで、どういう発言がひろわれ、それが母国に伝わらんとも限らないという用心なのだろうか。
身内に等しい学生にまで警戒心を高め心を閉ざしている風にも見えたのだ。
それにはOも心を痛めていたはず。
助走するかにみえた開放経済路線が頓挫すれば、ますます、良好だった両岸問題は遠のいてしまう。
それがkとOの共通の認識だったのだ。
ふりかえって当時の彼らの強い意志がどこによってたつものなのかと、想像をめぐらせている。
彼らの警戒心は何のためであったのかと。
kにそって云えばそれは異国でつかんだ台湾との友情を失わんが為。
相互の観点からみればそれは将来の友好の絆を失わんが為。

そして両者とも口にするのは、共に過した日本の地を第二のふる里だと云ってはばからない。

そして、彼らは両岸問題を乗り越え、今やビジネス現場ではタッグを組んでいるのだ。
ウィン・ウィンの関係を象徴するように。
それに比していまは国際社会での日本はどうだ。
経済的にはアジアのなかでの日本の沈下傾向がますます囁かれている。
そして、その自信喪失の裏返しでもあるかのように一部では尊大な態度が目に付いてくる。

そうなるとやはりやりきれない。
近くは近畿圏のとある番組でのシーンがその悪例だろう。(一番云いたい事を寓話的に語ればこのような感じなのだ)

6/5日曜日の昼一時半からの『そこまでいって委員会』。(何年前か?ちょっと不明)
番組のコメンテーターのひとりの態度。国旗の件に話が及んだ時に、
大人気なくも声を荒げて中国出身の女性タレントに暴言を吐いていた。
自分の中にも同種の意見は確かにあるもののこういう出方をされるとすべてが興ざめなのだ。
一体いつからテレビにでる大人がこうも
狭量な人になったのだろうかと。

偏向した歴史観から、戦犯旗呼ばわりされる発言におなじように合点できないのはやまやまだけれど、

そうかといって、罵声とかヘイトは頂けない。

隣国と言ったってアジアからの進出してきてる滞在者や、観光客のほうが日本を理解しつつある。
自分の場合は深くは知らないのだ。戦争経験世代の書き記した体験
あとは旅行、紀行案内番組、取材記事。

とくに台湾は、Jポップやアニメなど日本のサブカルチャーが溢れている。

日本文化が好きという台湾の若者のことを哈日族(ハーリーズー)と呼ぶらしい。

ふりかえって、日中国交回復時に、印象に止めた人物、事柄、順不同で、備忘録のように記しておこうかな。

林麗ウンさん
 1933年3月、台湾・台中生まれ、40年から52年まで、日本・神戸の小、中、高校で学び、神戸中華同文学校の教員となる。52年に中国に帰国し、北京大学で生物学を学ぶ。

53年から中連部に勤務し、局長となる。全国人民代表大会常務委員を五期つとめた後、現在、中国共産党中央委員、中華全国帰国華僑連合会副主席、中国国際文化交流センター副理事長。

 

 


Eテレ「日本人は何を考えてきたのか(6)」石橋湛山

民本主義社会主義軍国主義マルクス主義へと、多くの知識人が転向を繰り返す中、湛山は時代の潮流に流されることなく、
あくまで自らの信念を貫いた。帝国主義全盛期における小日本主義の主張、ファシズム戦争への不屈の抵抗、冷戦下の「日中米ソ平和同盟」
構想など、驚くべき洞察力と先見性をそなえた湛山の言論

台湾の総統、李登輝
説明:●岩里政男氏は日本名で、台湾名を李登輝(り とうき)氏といいます。
●昭和63年(1988)~平成12年(2000)の間、中華民国の総統でした。
憲法を改正し、永年地位が保証されていた外省人国会議員の特権を剥奪します。外省人とはもともと台湾にいた人ではなく、戦後移住してきた人のことらしい。元からいる人は本省人というそうです。沖縄のウチナンチュー、ナイチャーと似ているのかな。
●総統選挙を実現させ、任期を米国と同様に1期4年、2期までとするなど、数多くの改革を行ないました。
親日派で知られます。今でもいちばん上手に話せる外国語は日本語だそうです。
中共政府ににらまれていることはご承知のとおりです。でも、平気の平左、我が道を往く。
参考:HP「李登輝 Wikipedia」(2020年の7月にお亡くなりになられました。)

 

それから、
朝河貫一のことも外せない。

『朝河貫一』の『日本の禍機(かき)』という論文原稿

すぐに日本で出版され、大きな反響を呼びおこす。

『列強をまねて植民地獲得の侵略戦争の道を歩めば、やがて日本は国際社会で孤立化し、アメリカとも戦わざるをえない状況になり、悲惨なことになる』と洞察しています。

その後、日本は彼の危惧したとおりの歴史を歩んでしまいました。

彼が亡くなったのは1948年ですから、日本のみじめな敗戦を、悲しみを込めて、アメリカで見守っていたことになります。

イェール大学在籍の日本人で、世界的歴史学者の朝河貫一からの母国への忠告。

彼の心からの諫言(かんげん)を受容できなかった日本の指導者層。

アメリカかぶれに、日本のことが分かってたまるか』という反発があったのかもしれません。

日清戦争』『日露戦争』に勝って、自分たちを過大評価し始めた日本が、西欧の列強をまねて、植民地主義、軍事拡大路線に走ろうとする日本。

『国際的孤立化、国家滅亡への道』であると観て、鋭く批判。

西欧の自由思想、合理主義を身につけながら、それでも最後まで日本のサムライのプライドを持ち続けた日本人であったのでしょう。

『異文化を理解し、その上で日本文化を主張できる日本人』という、これからの日本人が目指すべきお手本のような人物が、100年前に存在していたことになります。

生前の彼を知るアメリカ人は、彼の英語が『完璧』であったと、口をそろえて述懐しています。

明治維新、戊辰(ぼしん)の役で官軍に敗れた二本松藩(現在の福島県)の藩士の貧乏息子、朝河貫一。

渡航資金もままならなかった朝河を支援した大隈重信アメリカ女性と結婚してアメリカに永眠するも、自分を理解し支援してくれた縁は忘れない朝河の死の間際までの活動。

それに、受け入れてくれたアメリカの懐の深さも感じていただけに、それらの自身の運命的な定めとしての役割、天啓のように。

追加考察メモ


朝河貫一と胡適