トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

近代史のなかの日中関係

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当時の国際関係を次のよう分析していた江兆銘。
以下は1933年11月22日付けの胡適への手紙である。
日本とアメリカが戦争をすることになると、必ずその戦争の前に、日
本は我が国にどちらにつくか態度表示を求めてきます。中国が日本を援
助しなければ、日本は華北と海口を占領します。日本陸軍は350万のうち、
300万をアメリカへ、50万を中国に向ける。要するに日米戦争の決着がつ
く前に、中国は再起できないほどの大敗をするでしょう。米英ソと日本
との戦いでは米英ソが勝つのは明白です。しかし中国の経済の中心はこ
の100年で北から南へと移動し、通商活動も海岸線に集中しています。
現在の戦争は経済戦争となったにもかかわらず、中国軍は自立するため
の経済的な裏付けをもっていません。よって軍隊が海岸線に移動すれば
他国の催偶とならざるをえず、軍隊が西北地方へ移動すれば地方の盗賊
となるしかありません。言い換えれば中国は、ベルギー(中立)になる
ことはできず、ソヴィェトとなるか、領地が分割されるか、国際共同管
理を選択するしか道はなくなってしまうのです。私達は軍事・財政の上
でベルギーたる資格(中立たる資格)をつくって、大戦の勃発に関わら
ず、私達は努力して国家建設をしなければなりません。今日の状況を考
えると、中立政策を実行できないことは、すでに述べた通りです。しか
し現在および将来、中立政策を完遂しななければならないことも、また
すでに述べたとおりです。外交はこの点において、その時々の状況に適
切でなければならなりません。諸葛武侯は次のように言っていいます。「自
らを養い、献身的に努力して、元ぬまで頑張っても、成功と失敗は前も
って予想することがでない。」私達は今努力して中立政策を実行する準備
の外に、別の方法はなく、日々中立政策を準備するのみです。しかしこ
れには、物資と時間が必要であり、日本に妥協するのもやむをえないの
です。
江兆銘の外交政策の理想は、「予想される大戦(日米戦争)
での中立政策」であった。しかし現実的対応として、「日本の侵略による破
壊行為を避けるために日本との1一時的妥協」を選択せざるを得ないというこ
とであった。中立政策を実施するには、「生産力を上げること」とそのため
の「準備期間」が必要であると考えたからである。

江兆銘は当時の中国の国力では、日本とやむを得ず妥協
するしかないと考えていた。言い換えれば、「中日提携」は「長期戦の-過
渡期的な段階」と捉えていたと考えることができる。
江が、中日連携政策を具体的に提起したのは、1934年1月からであった。
中国国民党第4期第4次中央委員会全体会議の開会の辞で、
中日親善と反共を表明した。要旨は次の通りである。
・中日親善、反共を国家の方針とする。
・1931年9月以来、国難が続き、去年3月以来、我が軍隊は長城一帯で苦
戦し、日に日に厳しい状況である。共産党は南昌を襲うことを図り、
5月には華北で日本軍と停戦協定を結んだ。
共匪の発生して以来、中国歴史上農民が失業する結果となり、さらに
加えてここ数年経済が没落し、農村は崩壊した。江西一省をもって人
口600万人が減少した。
同年4月には、満州問題を保留した上で中日友好関係を築く談言舌を須磨弥
富郎領事に提案している。さらに1935年になると、対日関係打開のため
の一連の具体策を発表している。
・平和統一の目的は救亡図存を求める力を結集することである。
・新しい1年は引き続いて剃共・生産・建設に従事し、公明な政治をす
るように努力する。
・「救亡図存の方針」で、「剃共」と「侵略への抵抗」の重大である。
・中国は、現在軍事力がまだ十分な準備が整っておらず、めざましく発
展している国(日本)が亡国に導くこともあり得るので妥協も必要で
ある。
・「救亡図存の方針」は、一心不乱に没頭して励むことしかない。
・日本が中日の膠着した局面を打開することを望む。
また「中国の問題と解決方法」という本を中国語版以外で、英、独、仏、
蘭語で出版し、各国の首相と外交部長に英文書を一冊ずつ贈呈した。この時
中国語版を海外駐在の各大使、公使及び各庭、部、会長と省政府の主席等に
郵送している。
上記の施策をまとめると次のようになる。①中国が滅びないように国
家建設のため「剃共」「生産」「建設」を実施する。②中国は十分な軍事力が
整っていないので、日本との妥協もやむを得ない。③中日問題を2国間の問
題にせず国際問題化する。(中日問題の現状についての書籍を出版し、各国
に配布している。)
この後、江兆銘は蒋介石とともに外交政策として、「中日提携」の具体的
政策を実施していくことになった。当時、日本側も、広田弘毅首相・有吉明
公使が中国との「和協路線」をとっていた。1935年1月29日、江は有言公使
と会談した。江は広田演説を賞賛した上で、「日本が満州問題・中
国問膚を平和的に解決する意図を表明し、中国は排日の取り締まりを行うこ
とを相互表明する」ように提案している。.また江は「日本が中国を侵略しな
いことを表明すること」を申し入れている。有吉はこれに対して、「日本が
侵略的意図のないことはたびたび表明している」と返答している。江は上記
を踏まえた上で、「中日外交に関する報告」の中で、「中国が現代国家たらし
むるには、統一と建設が必要であり(制度上の欠点…交通の困難、経済的落
伍、教育の不備上 そのためには長期の和平が必要である。」と述べている。
「長期和平」は、中国にとって民生安定のために必要不可
欠であると考えており、後の和平運動とも共通する。以後、江は「中日連携」
を可能にするための一連の施策を実施している。
・1935/02/27 江兆銘・蒋介石の連名で提出した排日貨禁止法案が中央政
治会議で可決される。
・1935/03/07 江兆銘と有吉公使が中日間の諸問題につき会談し、「排
日運動を取り締まって、英米から借款を受けることを否定する」ことを
告げる。
・1935/03/12 総理(孫文)逝世十周年記念合、江兆銘は、「和平」「奮闘」
「救中園」について演説するとともに、中日連携の意義を説く。
・1935/03/15国民政府、排日教科書を禁止する。
「政府の検定を経ざるもの並びに廃止に決定したる教科書は今後絶対
に使用すべからず」と国民政府教育部は全園各市教育長に発令する。
・1935/05/17 中日両国は公使館を大使館に昇格させ、それぞれ初代大使
に有吉明・蒋作賓が任命される。
・1935/06/10 国民党敦睦邦交令[中日友好・排日運動禁止]を発し、抗日
運動を禁止する。
「わが国現在の自立の道は、内は、政治を改正し、文化を促進し、も
って国力を充実すべく、外は、国際信義を守り国際和平を共同維持す
るにある。わが国民は友邦と努めて親睦し、排斥または悪感情挑発の
言論あるべからず。この趣旨よりして、とくに団体を組織して国交を
妨害するごときことあるべからず。右命令する。各自よく遵守すべし。
違反者は厳罰に処する。」
この時期聯合通信上海支局長であった松本重治は、江兆銘にインタビュー
をし、中日関係についての見解を得た。(1935/06/20)
・中国と日本とは地理的、歴史的、はたまた人種的に密接な関係にあり、
政治の運用 如何によっては、共通の利害の上に立ってゆくことがで
きると断言する。日本は資源が少なく、中国は多い。日本は各種の手
業、技術が発達し、中国の資源を充分利用し得る。日本の技術と中国
の資源は、東亜経済の確立に必要であり、これを基礎として中日両国
は、共通の利害の上に立つことができる。
・今日、中国は、もちろん軍備の点で日本に劣り、戦争には勝てないか
もしれないが、日本に抵抗し、日本を疲れさせることは、中国にもで
きることだ。その結果は、日本にとっても中国にとっても利益とはな
らない。それよりも、共通の利害のため努力すべきである。日本もこ
の点を諒解してくれることと思う。

江兆銘・蒋介石による一連の「中日連携」施策は、「売国奴」として反江・
反蒋の空気を強めることになっていった。とりわけこの「売国奴」とし
ての非難は、江兆銘に向かい、政権内部(国民党)でさえも、孔群照・宋子
文・孫科は江兆銘を攻撃していた。国民党内外から激しい攻撃にあった
江は、一度辞任を表明しているが、この時、蒋介石は江を全面
的に支持した。(1935.8.20)蒋介石の江復帰の提案に対して、誰も反対し
なかった。これは国民党内では蒋の権威が絶対であったことを意味する。そ
して9月2日「中日連携」政策を確認し、正式に江を行政委員長・外交部長に
任命した。蒋介石はすでに別の路線(中ソ連携)を模索し始めた時期である
が、この時点では、まだ江は利用価値があったのであろう。
・1935/09/02蒋介石「如何改善中日関係」を発表。
・1935/09/02蒋介石、中央第185次常務合議で、江兆銘を継続任命。
11。華北分離工作とコミンテルン中国共産党中国国民党の方針転換
中華民国中央政府が中日親善を進めている中で、日本軍は華北分離工作を
開始していた。中国知識人の間では、さらに抗日意識が強くなり、親日新聞
社(国権報)社長が暗殺される事件が起るなど反日テロ事件や「不敬事
件」がおきた。
国内の抗日ムードの中で、中国国民党共産党の方針が大きく変化してい
くことになった。満州事変直後は、中国共産党も基本的には蒋介石と同様「安
内壊外」であった。中国共産党は、対日批判よりも対「蒋介石」批判を全面
に出していた。当時最大の敵は国民党であった。しかしコミンテルンの方針
の変化により、中国共産党も新たな革命戦術をとることになった。
1935/05/02『国権報』社長・主筆湖恩樽、天津の日本租界で暗殺される。
1935/05/03『振社』社長・主筆自適桓、天津日本租界で暗殺される。
1935/05/04上海共同租界で発行の『新生』週刊5月4号に
「掲載の閑話皇帝」、天皇に言及。
中国共産党は新たな革命戦術=人民戦線方式の「抗日救国のために全同胞
に告げる書」を発表(1935.8.1)。蒋介石もまた新たな対日戦術とし
て、前述のように対ソ接近を試み始めた。
「対日交渉派」のリーダーである江兆銘は、抗日派の非難を受けるだけで
なく、狙撃され重傷を負った。ついで江の腹心であった庸有壬が暗殺された
ことにより、国民党内部での、「対日交渉派」は力を失うことになってしまう。