トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

尾張のエンタテイメント大名を偲びます

bs番組

昨日の再放送の新日本風土記

視聴して

思い出す。

似たような歴史発掘解説。

それらのことを、思いだしながら、番組での

印象シーンを

備忘録のつもりで。

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大須大道町人祭」。日本全国から50組近いパフォーマーが集結。2日間で40万人の観客を動員する商店街主催のお祭りです。42年前の第一回、目指したのは江戸時代の大須の姿でした。派手好きの殿様、七代目尾張藩主の徳川宗春を偲ぶように。

 

宗春は幕府の緊縮政策に抵抗するように取り締っていた芝居や興行を奨励し「芸どころ・大須」のきっかけを作りました。

 

令和元年のお祭りでは商店街を南北2チームに分け、広場に立つ金と銀の柱を賭けた対決が10年ぶりに行われました。

 

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暴れん坊将軍ドラマなんかでは史実と違って宗春のほうを悪役にし過ぎの感があります。

宗春は、自ら奇抜な衣装に身を包み、家臣一同にも思い思いの衣装を着させて、壮大なコスプレ行列を作り上げて姿を現し、尾張の民衆の度肝を抜いた。

宗春が藩主となって早々に派手に振る舞って見せたのは、民衆を喜ばせることが第一だったのはもちろんだが、自らが率先して楽しんでいる姿を見せることで、民衆に遠慮なく楽しむことを促そうとした意図があったのでしょう。


よほどの自信と強い信念がなければできることではありません。


民衆が豊かになれば自ずと国も豊かになる。繁栄した国家では民衆の生活も豊かであるという、この真理を宗春はよく理解していたということでしょう。

 


 しかし、江戸時代の商業振興には致命的な問題が有ります。 実は江戸時代の税制は基本が農地に対する課税であり、 商業者からは余り税が取られていないのです。
 …つまり。積極財政で商業振興しても、思うように税収が増えない。 だから、宗春の改革は、 尾張領内を楽しく華やかに彩りながら、財政は傾くだけ。
…流石に「お家を預かる」のが仕事の家老達はたまりかね、 幕府に介入してもらい宗春を「強制隠居」に持ち込みました。

安倍総理は「積極財政と規制緩和(特区政策)」を行い、 経済振興をしていますが、これより大きいのが「資金供給」です。
 (日銀が)市場に資金を供給して経済を振興しました。 アベノミクスと対比されているように、実は江戸時代の幕府もこれを上手くやっています。 元文の改鋳

 



時の流れをもってしても、評価が定まらない人物も多いです。そんな一人に徳川宗春もあがるのでしょうね。
 いずれにせよ、彼をザックリと評価するのであれば、徳川吉宗享保の改革による、国内における経済、綱紀粛正した時代の中で。
 ただ、尾張だけはある程度の規制緩和を実施して、めずらしく明るい街にした。
間違いなく、その部分は評価に値… まぁ…
街を明るくして、消費を喚起させ、経済を活性化した。

幕府の貨幣鋳造策、金融緩和。
 この部分は、安倍晋三元首相も徳川宗春も似ている気がするのですが、彼ら二人の政策で違うのはどこなのか、その活性化を推進する本体たる、国の財務状況は健全か?と問えば、双方とも不健全な財務状況のスタート。
  いずれにせよ、アベノミクスとの比較で評価してみた場合”私個人としては”宗春の積極財政を好みます。裏も表も無く、とにかく世の中明るくするためにバカ騒ぎする。

消費だけじゃなく投資になるような戦略。

そんな方策も、長い目で見れば、消費の喚起と同時に、少子高齢化にブレーキをかける事のできる妙手であるのかもしれませんからね。

現在で、叫ばれているところの成長戦略の足らなさ。

 

宗春の場合結果だけみると×の暗君ですが、名君に入れときます。


藩政改革を行った行動力はありますし、宗春侯が藩主になってから、財政は更に悪化していますが、
行った改革の結果がでる前に、罪を受けて隠居させられてしまったからで、 改革を続けていたらどうだったかまではわかりません。


ですから、かなり大目には見てですが、「徳川宗春・名君説」に、一票いれときます。

 


そもそも吉宗vs宗春の構図で短絡的に語られがちですが、歴史家の新たな分析によれば、新事実も。


つまり吉宗は、宗春が自身と異なる政治理念(政策)の持ち主とわかった上で重用していたともいえること。

宗春が尾張藩主として対立する政策を公然と実施したところで、吉宗がそれをただちに理由に失脚させようなどと考えにくい点。

 吉宗は、通春(宗春)を奥州の梁川藩主に任命している。この梁川藩というのは、尾張藩の分家にあたり、3代藩主が跡継ぎの亡いままなくなって、幕府の直轄地となったばかりだった。
吉宗は、一度幕府のものになった梁川藩を、石高をそのままにして通春(宗春)に与えた。
石高が減らされずに藩が再興されるというのは珍しいことらしい。この辺りからも、宗春への厚遇ぶりがうかがえるということも。

今一度常識に立ち返れば地域密着型の積極財政政策をとれた宗春と幕府のみを考え「天下」一律の倹約政策しかとれなかった吉宗。
どちらが経済的に効率がいいか。暴れん坊将軍ドラマなんかでは史実と違って宗春のほうを悪役にし過ぎ。

 

教科書的には、享保の改革を行った吉宗が名君とされる。新田開発、人材登用(大岡越前など)、火災対策(町火消し)、医療政策(小石川養成所)、目安箱の設置など、善政を敷こうとした努力によりウェイトをおいて評価。

しかし、過度の倹約や増税で民衆を苦しめていたのが現実ではないのか。

幕府がこの方針を強化するものだから、各藩が右に倣えとなるのも当然である。


政府の財政重視で民衆の生活を度外視していた側面はいなめません。


 宗春の場合は、倹約や増税でがんじがらめにされた民衆を豊かにするために、祭りや派手な衣装で民衆を喜ばせることで、活気を与えようとした。


その中で、宗春は真っ向から対立する規制緩和を断行した。

よほどの自信と強い信念がなければできることではない。

その信念とは、民衆の生活を豊かにすることに他ならない。


実際のところ、対立した、宗春との経済政策の成果の差を検証しておくことも無意味なことではないのかも。


宗春は再評価たるべき人間だと思います。