未来の清新な政治経済学徒よ
力を与え給え
第三の黒船
トランプ後の米国
それに覇道路線邁進中の中国
米中対立さらに激化・日本の立ち位置は?
不確実性と不安定な国際情勢
統合の流れと並行する分断化の流れ
哲人カントが望んだ、交易から平和への沃野はどこへ
先例や、縁故主義にとらわれることのない風通しの社会へと
再びの学びは
一例として、
現在以上に当時欧米列強の影響を受けていた日本の立ち位置がわかり。隣国の清国はその列強の支配下に陥っていたこともわかる。下級武士でありながら、残された文献から、当時の彼の危機感が浮き彫りに。
曇りないその観察眼のその姿勢は、今も古びていない。
(備考検索キーワード)
「八重の桜」の時代を駆け抜けた仙台藩士。
「ホワイトハウスを見たサムライ」 玉蟲左太夫
あまり知られていない日本人として初めて世界一周
(もちろん「岩倉使節団」にさかのぼる維新前。玉虫左太夫自身のこともあまりにも知られていないのであるが。)
1860年(万延元年)日米修好通商条約の批准書交換使節団の一員として渡米。
戊辰戦争の敗者として歴史に埋没している。敗戦後捕縛され獄中で切腹。1869年5月20日
玉虫左太夫らがした万延元年遣米使節の詳細ももっと見直されてもいい。
国際人としての先駆けの人といえます。
参照すべき最大のものは
「航米日録」
幕末の動乱期における日本の欧米との関係や当時の日本人の気構え、世界各国の風俗について知ることができる貴重な記録。
言葉はわからないなりにアメリカ人やその他の国の人々と交流を図り、各国の様々な施設や文化に驚嘆し、物価や風俗、環境などの様子を克明に記録している。
また、儒教精神を重んじ、礼には厳しいながらも、アメリカ人たちの自由な気風や上下関係にとらわれない情の厚さなどについては素直に驚嘆し、認めている。
また、当時欧米列強の支配下に陥っていた清国における支那人たちが欧米人に受けている仕打ちを見て、日本が同じ轍を踏まないようにしなければならないということを実感する。
開国には肯定的であるが、その後の外交姿勢については憂慮を感じていたということでしょう。
他に、参考・演劇ミュージカル玉蟲左太夫の世界
画像のページは化学者玉蟲文一『一化学者の回想』から
文一氏は玉蟲左太夫の末裔。