トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

日韓メディアリテラシー

韓国左翼政権には経済の実態がわかっていないのだろう。

日本たたきで、対抗上、日本製品不買運動だなどと。韓国の日本製品で稼いでいた業者は驚きを隠せないでいるのに。周囲の監視の眼でも恐れたのか、しぶしぶ韓国政府の方針に右へしながらも、ほとほと、韓国国民はますます、じり貧経済を疑問視していかざるを得ない状況に。

賢い国民はムン大統領の無能さを見抜いているが、反日運動に躍らせられた多数の国民は騙され続け、安倍首相人形に焼けうちとか、日本製ビール、日本製家電の破壊デモンストレーションへとエスカレートしていく。

自分で仕入れた商品を踏み続けている。

自分で、自分の首を絞め続けているわけだ。

日本の団塊の世代と韓国の386世代に共通点は、ないだろうか。子供のころ左翼思想を教わったことでの共通点がありそうだ。これは日本では憲法の絶対平和主義、韓国では反日思想という形をとって立ち現れているのかもしれない。どっちもその時代には、それなりの必然性があったともいえよう。

日本では軍部の復活を許さないために占領軍がつくった憲法が、教育やマスコミに浸透していった。韓国では軍事政権が、その正統性を装うために「抗日戦争」の歴史を偽造していく。

こういう刷り込みは、意外にながく続くものかもしれない。教わったまま左翼思想を答案に書く学校秀才が教師やジャーナリストになり、新たな別物の国体を護持していくのだなというふうにいえるのかもしれない。

日本でも民主党政権には全共闘OBがたくさんいたが、それが原因で自滅した。社会から排除されて運動しか知らない活動家には、官僚機構がコントロールできない側面。就職できなかった弁護士には、ビジネスがわからないという側面。


韓国にも似たような展開がなされている。

米中貿易戦争のあおりを食って、半導体輸出も先細りのなか、それらの行く末を予測することなく、すり替えの理屈、いうなれば、日本の輸出管理のあたかもせいであるかのように、反日カードに転化してしまう。

 

 


その前の徴用工問題。

まあ、日本の日教組と、日弁連より、質の悪いというか、大統領が、司法のしもべでもあるかのように、最高裁判決がそのように下されたのを理由として、国家間で交わされた1965年の日韓合意を反故に。

あたかも二国間で交わされた合意より、重きをおく判決でもあるかのように。

国司法組織が超然と国家間の上位にあるかのように。

これなどは、わざとかよと、言えて来るのだけれど。まあ、先導されるのに慣らされている韓国閣僚の面面には根っから、反省するそぶりもない。

現金化される前に、すでに、そういう方向性がみすかされたことで、すでに、資本の論理に沿って、企業のほうは、韓国からの引き上げを考え始めてもいる。

ますます、韓国経済の地盤沈下を政府先導のもとにすすめていっている証拠の最たるものだ。


笑うような馬鹿さ加減。

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個人請求権は残っているだなどと。

それは、日本政府にいうことでなく、韓国政府にいうべきこと。

日韓請求権協定で、個人請求権分も含めて、一括で、すでに韓国政府に支払っており、以後、韓国側から請求することはないという取り決めでもあったのだから。

支払われていないということであれば、個人請求権がのこっていると、韓国政府に、ネコババは許せないと、訴えるべきだ。訴える相手が間違っている。


いやいや、三菱マテリアルとか、これは、韓国じゃないけれど、中国人徴用工の請求が認められた例もあるじゃないのと。そのような、日本国内の活動家の意見。
よくよく、判例みれば、まったく、同列にも論じられないような請求権協定もない、請求権を放棄してしまった戦後の対応をした中国と同列にしてはいけない事例。

あげつらうのに事欠いて、政権のイメージダウン狙いだったら、あらゆることも辞さないという姿勢なのか。

ちょっと、ひいてしまう。どちらかというと、共産党の主張にちかいなあと。

韓国民主化は1968年の日本の大学紛争と似ている部分を感じている。


民主化運動が、学生を中心に広がった。光州事件のときデモに参加して、投獄された文在寅もその一員だった。


日本人が今の韓国を理解することはむずかしいが、 世代論でみると、文在寅政権を支える386世代は、日本の団塊の世代に近いとみるべきなのか。

日本のマスコミ界も反米、安保反対岸倒せの世代からの交代局面。

それが、字ずらでいえば、後退していくのなら、多少の希望もあるのかもしれないのですが、少なくとも似たような遺伝子を温存させていくかのような交代局面。

世代交代がおこっても、似たような民主的デモを経験しているマスコミ人には、なかには、文在寅にある種のシンパシーをかんじているのかもしれないなあと。


何でも見てやろう。小田実

それにちなんで、あちこち、見に行ったものだ。

書を捨てて街に出よう。劇作家、寺山修司の言葉。

その時の空気は、それでも、懐かしくも、悪くない思い出。

自分も今とは違って、反体制気質に充分に浸かっていた。

それから、かなりの年月を経てしまった。

久々に同窓の集いへの参加。

世代の離れた登壇者の自己紹介を聞く機会を得ることも。


学内の直接の知り合いも少なくなってきたとはいえそういう場に足を運ぶことは新たな友との出会いも。

後輩の世代を興味深く眺めることも。

隣国韓国からの留学生の一人。

その後は日本語ペラペラの韓流スターとして、日韓の女子からの歓声を浴びている姿に変化成長していっている。


感慨深いといえば、どのような政治的テーマよりも感慨深い、出来事だったかもしれない。


同世代の人間ではこういう事例は少ないからだ。

ただただ、同じ構内で世代を超えた宿縁といえば、宿縁というようなもの。

同じ校内を、戦前に身内の親類。

叔父が学んでいたという校内。

同じ建物とはいえ、戦前は陸軍の所有。

戦後は高等教育機関として。


拡張され続けたとはいえ、そのたたずまいの一部は、今にその歴史の趣きを伝え続けている。


戦前は言論強化が国内で厳しく大政翼賛下の方向にあったとはいえ、この学風は独特のもの。


「よく、内地は不自由を味わっているだろうなという先輩の証言の数々」

資料で分かることも。

授業の一環で学生だった頃の資料収集。

学風の成り立ちそのものを学ぶことに。


戦後はGHQの監視。

監視理由は戦前に赤のレッテルの教授が多かったという背景もあってのことなのだろうか。

引き揚げ者をマークしていたとか。

真相の程はよくはわからない。

もう一つの理由は。

政府への協力的だったこと。

つまりは、軍部勢力のシモベのような戦争協力、大陸研究がどのようなものだったのかへの関心。

明らかな事実関係は、戦前には校内にあって、他所と違った点は、マルクス資本論でさえ、自由に閲覧されていたという事実。

それをもって、なにもあの時代でさえ自由だったと言いたいわけでもないんだが。

時はかわり、自分らの世代は戦争を知らない世代。


親世代は復興、戦後復興、右肩上がりの成長経済と自身の成功が等身大のように振り返ることの多い世代。

その後を受け継ぐ世代は、バブルと、リーマンショックよろしく、幸か不幸か、その両面と表裏を経験。

それでも、平和への恩恵とか、非戦の誓いに近い気概は親世代から、曲がりなりにも受け継いでいるという、半ば、橋渡し世代。

その気持ちだけは、なんとなく。責任感の濃淡問われれば、苦しいところもありながら、家族の安穏だけはと、願いながら。


マスコミ界での今に盛んに主張する寛容性という語彙。

違いを認めるも、違いを乗り越えて、よりよい未来を。

対立よりも共存を。

むろん異論のあるはずなどない。


非寛容はいけない。

そのことを叫ぶマスコミ。

そもそも非寛容なところはマスコミ自体に本当にないのだろうか。

 

 

 


興味深く最近見続けているTV番組。松田優作の息子さんが俳優として演じているジャーナリズムを描いた、「歪んだ波紋」

リアルタイムに見れない時はBS録画で、撮りおえたものを。

旨い具合に、今のマスコミ界の歪みをちくりと刺すように。

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これは、面白い、愉快だ。

マスコミをあんまり有難がらない自分には、

感心して見続けてもいる。シリーズは長くはないらしいが。

続編、再読偏と続いて行ってほしいものだなあと。


マスコミの偏向報道を多く見てきているだけに新鮮な感じもしたというのが偽らざるところです。

 

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