トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

教皇来日

畏れ多くも、教皇に成り代わっている夢をみた。

 

夢の中では、サンフランシスコ教皇を演じ続けている自分を

観察するもう一人の自分がいた。

来日中のニュースを印象に残していた。それが為でもあろうか。

 

理想と現実。教皇の自分は

日本国憲法のことは、まんざら知らない訳でもない。

 

もし、自分が、ラグビーの監督でスカウトされるように、首相にスカウトされたら、多分、安倍首相と全く同じ抑止力認識になるだろうなと、現実的なそれが判断であることを。アルゼンチンでの幼少期を振り返る自分がいた。

 

9歳のとき。異国のニュースに接して、涙を流す両親の姿を見た。

 

それで長崎、広島の事柄は、この82歳になるまで、一度は訪れてみたいところになった。

 

それが、叶った。

 

行こうとしてもお相手のお国が、迎えてくれるかどうかにかかっている。

 

快よく快諾してくれた、関係者に感謝している。

 

私が、両親のその時の涙をみて、感じたように、この原爆慰霊碑の場に、立って改めて核廃絶の決意を強くしている。

 

理想はあくまでも理想だといってしまえば、現実は、変わりようもないという怠惰な姿勢を生んでしまいかねません。

 

私は、それを何度も何度も、東邦、北欧で経験してきました。

 

だから、誰かが言い続けなければならない。

 

理想と現実は、日本国憲法に謳われる9条みたいなもので、現実は、諸国民の良心や理性に頼って、あとは丸投げで平和が保たれるというものでもないことは、あきらかなことだ。

 

ならば首相の代わりをぞうぞと言われれば、自分も安倍首相となんら変わらない判断だろうとも思う。

 

だから、これは、所作で、いえば、能狂言なのだ。お互いが、そんなことは、理解し合っている。

それぞれの違いはあっても、反核、非核に邁進していきたいという方向については同じなのだ。そのようなことは了解済みさという感じ。

 

反対政党の言い分も、これは、世界共通だなと。

教皇の発言の重さを正面から受け止めるべき。

 

日本にあっては反対党は

唯一の被爆国として、聞き流せば

歴史と世界に背を向けることになる、となる。

 

そう、捉えたい報道姿勢とか、反体制勢力の力学、政治状況も、世界共通だからして、そこもよくわかりすぎるくらいにわかるのだ。

 

北朝鮮などの核の脅威にさらされている状況からして、対話が鍵だとは言ったが、核の傘で、安全保障を現実的に求めている日本政府を揶揄する気持ちはさらさらなかった。

 

私は、教皇に任命されてから、人権問題には

関心を持って世界を見つめ続けてきた。

 

ヨーロッパでの反移民デモの台頭。

民族間での摩擦、軋轢の拡大。

深く憂慮して、訪問した先々でも

移民への、理解をと、強調して述べ続けた。

 

あろうことか、訪問先を、離れて直後の選挙では、移民反対法案が、賛成多数で成立。結果は希望していたのと真逆の結果を見ることにも遭遇してきた。

 

移民問題にしても、環境問題にしても、原発、核の拡散、テロの不安、全ては総論賛成、各論になると、怪しくなっていく。

 

ことほど左様に、そうなることも、なんらそれほど不思議でもなく、腹立たしく思うほどのこともない。

 

各国首脳が、それぞれの役割りを果たすように、わたしは、教皇としての役割を果たすまでだ。

 

俗世のしがらみのない、立場であれこそ、

課せられた役割は果たさなければなるまい。

 

いわば、俗世的に言うならば、国際公務員としての務めとでもいったらいいのだろうか。

 

国益をそれぞれのリーダーが、追求するように、人類益、国際益の為に、これからも奉仕していこうと考えている。

 

各国から、国際公務員として、国連に勤める人間たちの苦衷。

それと、比べたら、自由度の高さ。

母国の方針と普遍的法理との板挟みに悩むこともない。

 

ただ、有るのは神の御心に違わぬこと。

その為に最善の注意を払うこと。

これしか有るまい。

 

信者数十億人の頂点に立つとか評されながらも、その布教状況はといえば、年々年どし、

形骸化してきている。

実態はといえば、なんら、世の中を照らし、

リードするような方向にはない。

 

財政的に、もはや何が教えを弘める意味で

どうすることが一番有効的であるのかを。

 

就任以来そればかり考えて行動してきた。

 

反撥もないことはない。

教団の改革を旗揚げしてからの波風。

カトリック内部だけに通用するしきたり、

それへのこだわりからの脱却。

訣別。

平和を希求する他教徒との連携。

異宗教間対話。

それらを拒まないという判断。

 

 

全ては、教皇に託されてくるのだった。

私は、それらのコマをすすめることに舵を切った。

 

理想を教会内部で語ることはさして難しくもない。

 

しかし、それでは、世界も変わらないままだと

判断した。

 

対話を求められたら臆することなく出かけた。

 

刺激を受ける。

 

行動する信仰者のイメージを、扉を開くことで覚えた。

自らの教義を原典に帰る

 

再出発の心持ちで。

 

「核保有国の支持が不充分である以上条約は現実を踏まえたものとは言えず、核を含めた米国との維持、強化をしていくことに変わりはない」

批准に否定な立場の官房長官の談話を

耳にしながら、

 

それならそれでさらに模索していく。

 

宗教者は、宗教者の立場で、国際連帯を志向していく。

 

万国の労働者よ団結せよ。ではなく、

万国の宗教者の連帯を。

かくなる上は、

世界三大異教間対話、

連帯して叶えられるかもしれない

課題の精査を。

 

被爆国日本は、世界的に最も

 

その道を開いていくにふさわしい、平和問題、非核メッセージを発していくにふさわしい

歴史的背景を備えてもいる。

 

かつて、日本は、人種平等の旗頭を掲げて、

西欧と闘った歴史もある。

 

政治のことはわからない。

それぞれに過去にどのような思惑、ないことはないにしても。

 

人権という、普遍的な理念に照らして今また、リードすべきスタートラインが

世界全体に課せられてきている。

 

すべての人の各々の人権感覚が試されてもいるのだ。

 

世界に政治の世界で及ぼす影響は確かに

大きいものがあるだろう。だからといって、宗教 宗教者はそれらを指くわえて、見ているだけでもない。

 

国益国益とのぶつかり合い、妥協で世界に影響を与えていくのが、政治の世界なら、宗教は、国境を超えて、ひとびとの心に訴えかけるもの。

 

昨今、分断と対立だけをことさらに生んできたのが、政治の世界なら、

その様相に解決の糸口と、インスピレーションを提供する働きこそ必要で、それこそ、宗教の役割ではないのかと。

 

夢の続きでは、

キリストを信じてもいない自分が

 

宗教のことを考え始めていた。

 

理想を語らないで、求めないで何の為の宗教。

周囲から冷笑されようが、やはり、政治的ドグマを溶かしていく勢いで、

あらゆる手立てを講じて

国家を超越する、宗教者サミットの実現再開へと、決意するのだった。

 

連帯できるキーワードは沢山ある。

過去に学べば、

マンデラのこと。

獄に繋がれていたのを救い、

後に大統領までに押し上げた。

アパルトへイト終息。

黒人、白人の共に信仰者が周囲の抵抗

有りながらも

団結して成し遂げられたこと。

 

このような例を未来の手本としたい。

心持ちで、未来をどう捉えるのか。

世界は、シニシズム悲観主義

覆われてきている現状。

 

その点では、例え宗旨は

異なろうとも、

分かち合える

 

余地が、あるはずだと心したい。