死は前よりもきたらずかねてうしろに迫れり
そういった「死」の表現を
身近に心筋梗塞とかの症例で亡くなったという話を聞くにつけ、あらためて、読み直してみることも。
たしか吉田兼好のはず。
「死は前よりもきたらず」
つまり、死は、前方から徐々に近づいてくるのではなく、
「かねてうしろに迫れり」と。
つまり、 背後からぽんと肩をたたかれ、不意に訪れるものだというわけである。
あらためて、読み直してみることも。
ピンピン、ころりは理想とするが、
逝くときはさっと、逝きたいもの。
しかし、そうはいっても、死にたいようには簡単には死なせてはくれない。
そして、死ぬにしても
楽しい思いをできるだけ、できるだけ味わって死にたいという気持ちも正直なところ。
そして、より楽しい、思いったって、ひとそれぞれに。
その願いが完結して終われるものでもないことを。
ちっぽけな、楽しみでよければ、そんなに苦労というか、苦闘もすることはないだろうし、
より、深く、より楽しい思いをと、求めていけば、それなりの覚悟と苦闘はつきものなのかもしれない。
まあ、それは理のあるところで、今までに多忙にして触れることも少なくしていた、古典からも、
自身の抱いていた感覚と合致するような、もって、瞑すべしというか、天命として受け入れるしかなかろうというところに
落ち着いていく。早合点の人はこれを諦めの護符のように。
そうではなくて、一皮むけるような挑戦があってということ。人と人、社会との係わりの中でというところが、やはり、観心なところかと。
仏のいうところの、世間と出世間と、それから、また世間と。娑婆即寂光。
ものまねで、お笑い界のコロッケが紹介していた、家訓、思い出しています。今やお笑い界のエンタテイナー。
常に前を向いてこられたのはこの母の教えがあったからと。と明かされていた言葉。
「あせるな、おこるな、いばるな、くさるな、まけるな」頭の文字をとって「あおいくま」――と覚えてきたんだとか。
究極のところ、笑いを絶やさず、常に前を向いていれば、、悔いはなく。
という、これに尽きるのではと。