トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

NHKスペシャル「総書記_残された声」

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天安門事件のきっかけは胡耀邦の死である。鄧小平は、天安門事件後の講話で、胡耀邦日中友好政策や国内の思想教育が事件の要因との認識を示し、民族教育と愛国教育を強化する方向に導いてしまう。またその後の中国共産党指導部に「親日的政策はひとつのリスクになりうる」という刷り込みとして後々まで残す事となった。以降、反日を利用した国威向上などを繰り返す結果となり今日まで至っている。番組ナレから。

 

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頭の片隅に残しておきたい胡耀邦の発言の一部を紹介されていたので、記しておきます。

 

「我々が開放政策を実行しなければ、日本人と長期的友好的に付き合うことを重んじなければ、世界各国と付き合うことを重んじなければ、国の進路を誤ることになってしまう。」

 

愛国心の行き過ぎを日本も中国も防がなければなりません。」

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それから番組では胡耀邦の肉声が主題ですから、テーマ的には
いかに、日本との付き合いが中国の将来と世界にとって必要かを
考えていた政治家であるかがわかります。
番組での印象操作を感じる部分、分祀なんか、胡耀邦は言ってはいないと思うんだけれど。

nhkの場合民放よりは少ないんだけれど、はやりその部分だけは疑問符です。

「(分祀は)できます。簡単にできます。政権とったら、すぐやります」なんて、いい加減なことを言う保守政治家もいますけど。

宗教法人宗教法人としての意思でやることならいいでしょうけれど、

国が勝手に宗教に介入するなんてことは、してはいけないことでしょう。戦前は靖國は国が給与はらって保護してたかしりませんけれど、

戦前と違って、今は靖国は一宗教法人になったはず。

クリスチャンの大平さんも靖国に参っていたらしいけど、
自分の信じる宗教じゃないからといって拒む政治家がいてもいいような気がします。
それぞれの自分の信じる宗教で、死を悼み不戦を誓い平和を願う。

それが、純粋な政教分離でしょうね。
番組での靖国問題を前後しての胡耀邦の失脚。
A級戦犯分祀すれば、合祀する前のように、総理大臣や天皇の参拝も
問題にならなくなるという考え」そのものが、事実誤認のような気がします。
A級戦犯」を合祀した後も我が国の首相は靖国に参拝していたし、そして、何ら外交問題
ならなかった。

今回の発見された秘蔵記録を見る限り、参拝問題前後しても互いの国情の変化に左右されながらも、途絶えることのない絆を感じさせてくれました。
庶民レベルでの絆。または、特異なともいえる、政治リーダー同士の、例えば、中曽根当時首相と、総書記胡耀邦
もちろんあちらの共産党内部の権力闘争に翻弄されていくという要素は
否定できませんが、
はたして、政治問題化させたのは対する中共政権の側だけだったろうかと。


そういう問いも自身にはあるのですが。
日本の左翼(社会党共産党)や左翼メディアが、首相の靖国公式参拝」を政治問題化し、中共政権を煽り立てたんじゃなかったのかという側面。
そこには踏み込んではいませんでしたね。

「戦後政治の総決算」を掲げ、ロナルド・レーガン米大統領
(当時)との個人的な親密さ(「ロン・ヤス」関係)を背景に、「日本は不沈空母である」などと発言したことでもって、新聞記事もそうですが、
当時の左翼が、中曽根内閣に強い過剰反応をしめしていたのを眺めておられる人は多くいるのでは。

その結果、戦後一貫して何の問題にもならず、「A級戦犯」合祀後も変わらなかった我が国首相の靖国参拝

抑制されていく流れはちゃんとおさえていましたよね。

A級戦犯分祀すれば、合祀する前のように、総理大臣や天皇の参拝も
問題にならなくなるという考え、この途中ではさまれてくるわけですが。

そんな解決法って、誰も信じないでしょう。

あたかも、胡耀邦が望んだような、番組では、検証されてはいなかった部分。

あたかも、胡耀邦のサジェスト・ヒントでもあるかのように。
その部分は生のインタビューではなかったですよね。

前述したように、「A級戦犯」を合祀した後も我が国の首相は靖国に参拝していたし、そして、何ら外交問題にも、
なっていなかったのにですよ。
A級戦犯分祀すれば、合祀する前のように、総理大臣や天皇の参拝も
問題にならなくなるという考え」そのものが、もう甘い気がします。
分祀したら、関係改善、参拝に、不都合も云わなくなるなんて

時を経て
第一次安倍政権の時もそう。

変わったところと言えば
靖国参拝問題と中曽根の時の「戦後政治の総決算」の言葉が「戦後レジームの脱却」という言葉に変わりましたけど。日本の反日メディアが火をつけてしまっているというニュース報道の発火点は変わっていない。
ネット時代、それが、大陸に飛び火してしまっている。
象徴するように時を経ても、日中及び日韓でも同種の深刻な外交問題に発展させてしまっている。日本国内の反日メディアが原因じゃないのといいたいところ。
権力対峙はメディアの大切な務めであることはわかるんですが
それが度を超して、国益を損なってしまっているという鳥瞰視的な眼がちょっと反省としてメディアにないのかなと。

参るか参らないか。張り込みって。もっと大事なことあるような。

それでも、独立メディアっていうんでしょうか。なかなかの掲載記事にぶちあたることも。

以下、目に留まったもの、胡耀邦に間接的に関わる内容のもので、シェアしておきます。

 


習近平ファミリーが恩義を示したある老人の追悼式

2017-01-15 11:19:23 | 日記
 

中国には「蓋棺論定」という言葉がある。「棺を覆(おお)いて事定まる」。つまり、人の評価は死んだ後になって定まるとの教えだ。いなくなって存在の重さを再認識し、なお惜しまれる人徳を偲ぶことは、だれにも経験があるだろう。また、その逆があるからこそ言葉の戒めがある。送る側からすれば、その人物に対する思いがはっきり表れるのも亡くなった後である。

 1月10日、広東省深?市の初代書記を務めた張勲甫氏(享年96歳)の告別式が同市内で営まれた。斎場に習近平総書記の母親、斉心氏が花輪を送り、次男習遠平氏は式に参列したうえ、12日の地元紙『深?特区報』に紙面の半分を埋める追悼文を寄せたことが目を引いた。習ファミリーの並々ならぬ思いが伝わってきた。

 

 

 香港に隣接する深?は、1970年代末からの改革・開放政策で「経済特区」に指定され、十数万人の農村から人口約1100万人、1当たりGDPが2万5000ドルに達する先進都市に成長した。スタート時、習近平氏の父親、習仲勲広東省党委書記の重責を担い、その下で現場を率いたのが8歳年下の張勲甫氏だった。だが単なる上司部下の関係で、あれほど手厚い追悼はあり得ない。政治的立場を超えた、家族としての個人的な恩義が感じられる。

 困難なときに救ってくれた人、支えてくれた人は忘れない。張氏は習ファミリーにとってそういう存在だった、と私はみている。

 

 

 習遠平氏の追悼文は「過ぎ去った歳月、消えることのない後姿」の主見出しで、「張勲甫おじさんに捧げる」とサブタイトルが振られている。「何度もお会いしたが、最も官僚臭くない人だった。自慢話もせず、謙虚で慎み深く、入院するときも高級幹部用の病棟ではなく、一般の患者と相部屋で過ごそうとした」と人柄をたたえている。家族付き合いの様子が読み取れる。父親の偉業をたたえる内容も多いが、主眼は追悼にあるとみるべきだ。

 


 習仲勲文化大革命を含む16年間、毛沢東の主導する政治闘争に巻き込まれて迫害された後、胡耀邦元総書記の働きかけで名誉回復し、広東省に送り込まれた。習仲勲は当時、山東省なまり丸出しで話す張勲甫・同省計画委員会副主任の実直さを見込んで、重用するようになった。山東人はもともと率直な性格で知られるが、彼はその典型だった。習仲勲陝西省出身で、同じく他省から来たよそ者同士、気心も通じ合ったことだろう。

 習仲勲は1978年4月から80年9月までの2年5か月、広東省党委第二書記、第一書記、省長を歴任し、改革開放の基礎を築いた。だが1987年1月、胡耀邦が鄧小平らの長老から学生による民主化デモを放任した責任を問われ失脚した際、習仲勲は恩人の胡耀邦を擁護し、自らも連座する。引退後は北京を離れ、思い出深い深?を終(つい)のすみかと定めた。斉心ら家族は今でも深?の迎賓館で暮らしている。敷地内には習仲勲が生前、家族と植えた南方自生の常緑高木、榕樹(ガジュマル)が育っている。習ファミリーにとって、血なまぐさい政治の舞台から隔たり、気候も温暖な南方は、心の傷をいやすのにふさわしい場所だった。


 

 習仲勲の晩年は不遇で、訪れる客人もまれだったが、近くに住む張勲甫氏はきっと変わらぬ交誼を守ったに違いない。困難なときの恩は忘れない。それは習家の家訓でもある。

 習ファミリーにとっての恩人には周恩来元首相もいる。周恩来は、習仲勲が迫害を受けている間、家族との面会を手配するなど終始、陰で支援の手を差し伸べた。習仲勲は、周恩来が1976年1月に亡くなると、労働を強いられていた洛陽の耐火材料工場で号泣した。名誉回復後の79年4月、『人民日報』の1ページを使い、周恩来の追悼文「永遠に忘れがたい懐旧の情」を書いている。

 習近平氏が総書記就任後の2012年12月、最初の地方視察地として訪問したのが深?だった。改革開放の継続をアピールすると同時に、埋もれていた父親の業績に光を当てるきっかけを作った。翌年13年10月の習仲勲生誕100周年年記念では、「改革開放が最初の一歩を踏み出す上で不滅の功績を残した」との評価が与えられた。張勲甫氏への追悼もその延長線上にあるのは間違いない。

 人の評価は亡くなったときばかりでなく、その後の政治・社会状況によっても左右される。周恩来も鄧小平も散骨を選び、「棺」を残さなかった。あえて「蓋棺論定」に抗したのは、死後も翻弄されることへの拒絶が感じられる。この国において、政治の世界はかくもすさまじい。


その他

◆「NPO日中独創メディア」発のニュースとして公表した胡耀邦生誕100周年記念講演会の紹介を転載します。
  
  東京都千代田区日本大学経済学部で11月29日、日中の未来を考える会(保思兆代表)と日中独創メディア(加藤隆則代表)の共催する「胡耀邦生誕100周年記念講演会」が開かれ、学生や中国研究者ら約100人が参加した。中国では胡耀邦の誕生日にあたる20日、北京の人民大会堂で公式の胡耀邦生誕100周年記念座談会が開かれ習近平総書記がスピーチをしたが、日本での関連行事は初めて。同会には胡耀邦時代、初の私営企業家となった姜維・中国光彩事業日本促進会会長も参加し、胡耀邦が経済の改革開放に果たした功績を強調する一方、「胡耀邦が築いた日中蜜月時代は必ずやってくる!」と力強く語った。
  講演は、中国の現代知識人研究で知られる日大非常勤講師の及川淳子さんが「胡耀邦生誕100周年の今日的意義」、独立記者の加藤隆則さんが「胡耀邦習近平の父・習仲勲」のテーマで行った。多くの若者にはなじみの薄くなった胡耀邦の足跡をたどりながら、現代中国の正しい認識や新たな日中関係の構築に向けた問題提起を行う場となった。中国と縁の深いベテランにも参加を呼びかけており、若者に知識と経験を引き継ぐ橋渡しの意味合いも持たせた。
  及川さんは、中国共産党胡耀邦に対する公式評価が、没後から「忠実な共産主義戦士」などとするものから全く変わっていないものの、様々な形で再評価の試みが行われている一方、それも「党の輝かしい歴史」と矛盾しない限定的な内容にとどまっていることを指摘した。胡耀邦失脚の経緯、趙紫陽天安門事件についての言及はなく、「胡耀邦の再評価が政治体制改革に繋がるわけではない」点を強調した。そのうえで、今回の記念行事が「胡耀邦の清廉なイメージを取り込み、反腐敗運動推進の求心力に援用している」ことに力点を置き、党の基準に基づく「語ってもよい胡耀邦」と「語ってはならない胡耀邦」が分離されたとの見方を示した。
  また日中関係については、胡耀邦が1983年11月29日、来日中に長崎平和祈念公園訪問して献花し、1985年には中日友好協会を通じて同公園に「乙女の像を」寄贈したことや、失脚する2か月前の1986年11月8日、北京の中日青年交流センター定礎式で、「愛国主義は、外国の人々と親しく交際し、友好的に協力する、こうした長い見通しを持った国際主義の精神と結び付けなければならない」と演説したことを紹介。胡耀邦の平和主義と国際主義を、今日でも学ぶべき精神的遺産だと訴えた。
  一方、加藤さんはまず、20日、湖南省瀏陽の胡耀邦故居を視察した報告を行い、習近平氏の反腐敗運動に呼応し、故居が「廉政教育基地」として再整備されている実態を伝えた。すでに故居敷地内には、習氏を含む歴代指導者が反腐敗の決意を述べた言葉を刻んだ巨石が並べられているという。「実践は真理を検証する唯一の基準」と彫られた、鄧小平筆と思われる石碑に名前がないことから、依然、胡耀邦の完全復権には至っていないことを指摘した。
  また、胡耀邦習仲勲がともに農民の子として生まれ育ち、理不尽な政治的迫害を受ける中で自らは政敵を打ち倒す政治闘争から距離を置き、むしろ、冤罪者を救う事業に力を注いだこと。異なる意見を尊重し、民主的な気風を持っていたこと。これらを二人の共通点として指摘し、「中国共産党が持っている良き伝統」とした。だが、現政権にそれが引き継がれているかどうかという参加者からの質問については、「習近平は父親を非常に尊敬しており、父親が受けた迫害や個人崇拝の弊害は熟知しているはずだ」としながらも、「現在行われている言論統制などはむしろ後退している印象を持つ」と否定的な見方を示した。そのうえで、「現在は集権化を進めている過程であり、これからその権力をどのように使おうとしているのか。二期目の政策を観察する必要がある」と述べた。

 

 

分祀にたいする件ですが。

 

追記

自分の考えは、政治の側から、影響されるようにして

変えるようなことは感心しませんし、

BC戦犯なら、よくて、A級ならダメだなんて

ちゃんちゃらおかしいなと。

ひとしく、弔い、

悔いる。

そして誓うという

そういう態度の前にして、

なぜそのような線引きを

求めたりしなきゃなんないのという感じです。ましてや、外圧で。

それに、参る参らないも自由なんですから、

内面の自由をこそ、

自身の宗旨でもないのですけれど、そこはちゃんと守られるべき

ところではと。

だから、みんなで参ろうなんとかという議員の行動も

いやなんですよね。

参る人は個々に、参ったらいい。

静かにそれぞれに、動いてっていうのが大事なんじゃないのかと。

人にはそれぞれの信仰があるように。

 

靖国に参りながらかつて軍族であった叔父たちを弔い、また、並行して自身の選択した宗旨に準じその霊を慰めている人をいっぱい知っています。

そうした中でも

 グローバルに国境をも超えてそれぞれの風習にも溶け込むようにして人々の共感を得られていく宗教もあります。

普遍性のある宗教なら国の保護が有ろうが無かろうが、弾圧さえ乗り越えて

アジアの戦火を招いたところとも

未来に向かって

絆を

結んでいる姿も拝見します。


無宗教の追悼施設を

政府の側から

提案されたりすることも聞きますが、

断絶の世界を

結びつけるという

要素が見当たらない限りは


あんまりという

感じがしますね。


それに、原爆慰霊碑がすでにその役割を果たしている。


過ちは繰り返しません。刻まれた碑文。

保守の側からは、自虐的なとの

批難を耳にすることもありますが、

ここでの主語は

我々人類はという非戦の誓いであって

いずれの国の人であっても

等しく誓える場に

ふさわしく

感じます。