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トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。

厥(そ)の美(び)を済(な)せるは

ワインを愛し農園を守って、三人の姉妹を育ててくれた温厚な両親。末娘のわがままを聞き入れ日本にまで留学させてくれた両親。朝早くから大地の息吹と共に寝起きしてきた両親。父、母がシモンにとってのまず大きな教育環境だった。両親のひどく驚いたのは我が娘の行政マンとの結婚とそれからの破局。離婚後は温かく静かに見守ってくれた父。生計のほうも農業とて市場経済の動向と無縁ではなかった。米国を含む各国の農業補助金政策に対する干渉が続くなかで農民が役所に放火するなど、デモもエスカレートしていった。「親父さん。みなと一緒にくり出さないのかい。」近隣のさそいに、一人留まった父。父が出くわすかもわからない別れた夫との対決になりはしないかとの気まずい不安。「私のことはいいの。遠慮はいらないわ。」シモンは思った。デモから何日かして、不耕作地に対する税金の見直し、農家の社会保険の分割払いや、近代化、後継者育成への貸し付け制度が発表された。農民はこれでも不十分だと怒ってさらに騒ぎ立てようとしたが、その農政のこまごました修正にも元夫が少なからず汗をかいていることを想像していたシモンだった。「シモン、元気でいるかい」「身体は大丈夫かい」だから父は日本での再婚をとても喜んでくれた。私が日本に勉学にやって来たとき昭和天皇が亡くなられて大喪の礼に遭遇することになった。母国フランスではくすぶっていた教育問題が再燃し、荒れた教育現場もまた爆発するか、静寂にもどるのかの微妙な緊張をはらんでいた。「高校生のデモが成功したのは政治家が次の選挙をきにしているからですよ」両親はそうつぶやいていた。大学改革法案反対のプラカードでバスチューユ広場が埋まることはかつてないことだった。ジョスパン教育相とミッテラン大統領はエリゼ宮殿に高校生代表20名を招いて向き合っていた。その後、即位の礼で訪日していたロカール首相は帰国するや、45億フラン(約1000億)の緊急対策を打ち出している。後輩の高校生が提起したことはフランスの国民がかかえる全体の問題でもあった。将来の職業選択の不安、進級できなくて退学してゆく生徒の増加。留年の増加。半数の生徒がカリキュラムについていけないという不満をもっていた。高校生が突きつけた問題は大学にもあてはまる問題だった。選別強化と競争はエッフェル塔のように階層社会をイメージする若者でふくれあがりつつあった。高さと落差と登りにくさをそれにみたてた表現でピラミッド型よりはしまつの悪い、とはよくいったものだった。はたして教育は望む方向にむかっただろうか。それに、それは日本にきたときも思ったが政治家も学生も、五十歩百歩で、世の不平、不満の草刈場が教育問題だった。教育がなってないからというが、いずれの国からもその教育の理想を耳にすることはなかった。留学以来のふたたびの日本。父からは「カセムと一度、フランスに帰国することはないのかい」さらに「お金はあるかい」と。温かい家族のぬくもり。これが自然のものだと。日本で出遭ったイラク国籍のカセムについても、シモンは自分と同じように考えていたきらいがあることに気付くのだった。隣で寝ていたカセムが夢にうなされるようにして朝早く、飛び起きることがあった。あのアルカイダ疑惑で刑事らしき訪問を受けた翌日のことだ。「主人は出て行って居りません」その夜は、きっとカセムにとっては長いものだったに違いない。「また来ると言っていたかい」寝る前のカセムの言葉。「いつとは、聞いても言ってくれなかったわ」「・・・」沈黙。私は彼の真の援軍であっただろうか。シモンは自問自答した。彼の生い立ちはシモンの頭の中で整理されてはいたのに、血となり肉とはなっていなかったのだ。消化されることのない彼に在る戦争の影はシモンを発奮させた。彼が取り組もうとしている平和への模索と、そこにたどり着いた日本の魅力について。シモンも関心と縁がないわけではなかったからだ。そうはいってもあの時はなぜ夫の不安に理解を示せず、自分の不安ばかりを優先させたのだろう。シモンはカセムがひょっとしてアルカイダのメンバーではないかと疑ってみたことがなかったかと問われれば真っ向から否定できないからだった。この人と一緒になったことは間違いではなかったか。間違いない、と言えるだろうか。そればかりを考えていた。彼は故国では有識階級かもしれないが湾岸戦争以後その国の国際的信用も落魄している。彼は国にもどればしかるべき進路が用意されていると言っていた。米国の圧力と国際社会の非難が続く中でその話をカセムが持ち出すこともなくなって久しい。カセムの飲食業も仮の姿で、隠されたカセムの本来の任務はイラク政権と駐在イラク大使に操られているだけではないのか。そんなこともふとかんがえてみたシモンだった。9・11のアメリカのテロをきっかけとするイスラム社会に対する偏見は米国でもアジアでも同じだった。日本ではまだ、少数であるだけに目立たないというだけであった。同じ外国人でもシモンに向ける眼とカセムに向ける日本人の眼は違ったし、そのことまであの時は深刻に受け止めていなかった。当時カセムには友人、渡辺がいたし、今ではUがいる。夜にうなされるほどの彼の不安の中身に彼の深い孤独感を意識はしなかったのだ。彼の身になって考えれば、もっともっと、あの時見えてたことも、わかったこともあるだろうにと。振り返って東京での渋谷、新宿、歌舞伎町はふたりの受け取り方も違ったに違いない。夏は一緒にアイスクリームをほうばりながらカラフルな若者の衣装に関心をしめしたり、お互いの趣味を、色彩に味覚に臭覚にとあらゆる五感を動員して論じたものだ。でも、今から考えれば、私が心から笑ったように、カセムは心から笑っただろうか。私の幸せはそんなささやかなものが大事でたまらなかったはずだ。でもカセムは違ったのではないだろうか。シモンは彼が語る歴史と、自ら古書店で手にしたある報道写真家の写真から過去のイラン・イラク戦争の本当の姿、被害をみて考えを改めるに至った。彼は楽しい喧騒の街なかにいるほど孤独を感じていたに違いない。子ども連れのニューファミリーに出会えば、イラクで同じ年恰好の赤ん坊を殺された夫婦の悲哀を思い出したかもしれないし、女子高校生らしき少女がはすっ葉な言葉で男子学生にくってかかる姿をみては自由というものの定義について幅を広くしていたかもしれない。酔っ払いの喧嘩にでくわせば、満足に食事もとらずに、震えながら爆撃機の通り過ぎるのを肩を寄せ合っていた多くのイラク家庭の夕飯時を思い出していたかもしれないのだ。そこまで細かなことは語らないカセム。しかし、それが実態ではなかったか。たった一言、なんかの拍子に「君は戦争を知らない」と。それは戦争の怖さは頭では理解できないさ。とシモンには聞こえるのだった。「経験しなければ、解らないというなら不幸が続くだけじゃない」シモンは言葉にしようもない言葉を彼の背中に投げつけるのだった。カセムの机の上には日・ア(アラビヤ語)辞典が必ずのっている。手にとって眺めると川崎寅雄という人が編纂したものであることが記されていた。
シモンにむかってカセムがかつてつぶやいた言葉を思い出す。アラブ諸国とアラブ文化に造詣の深い中近東史専門の日本人がいると。その言葉を思い出した途端、フランス人でありながら(この最新日・ア辞典ってアラブに遠い日本で、川崎さんってどんな気持ちで苦労しながらこの辞典を編纂したことでしょう。)という気持ちが湧き上がってきたのだった。とにかく、ふたりとも日本語には不自由しない。おまけに漢字のほうも書道教室でめきめき実力をつけている。そのうえに、辞典は最良の違う文化圏をつなぐ橋でもあったのだ。
 (素材文献)フランスの教育環境に関しては『フランスの憂鬱』岩波新書を創作の素材に。

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