トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

遺影の中の愛犬

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ブログに載せるだって、そいじゃあ映りの良いのを選んでおくれよ。ワンちゃんの僕だって気にするのだ。それに額縁にいれて眺めてくれるのかい。なんで、そんなに見つめてくれるのさ。そんなら、なぜもっと生前に見つめてくれなかったのさ。どうでもいいけど、どうせ見つめられるなら、同性のご主人のほうでなくって、欲をいえば異性の奥さんのほうがいいんだけどなあ。この選ばれたワンショットの日のことも鮮明に覚えているよ。記憶が甦ってくる。休日の朝。僕が犬猫病院から退院してもどってきたんだったよね。その病院にかつぎこまれたのは、奥さんが僕の異変に気付いてのことだった。入院はしなくてよかったんだけれど、便秘で胃腸が大変な事になっていたんだよね。早く家に帰りたくってしかたなかった。新しい犬小屋も用意されている事を知ってから、無性に帰りたくてたまらなかったんだ。だから治療が終わって病院からも解放され車で送り迎えされ、自分の寝床にたどりついたときは大安心だった。だからそのときのワンショットは忘れていない。「責任がもてないから、犬なんて飼えない、反対だ。」そんな僕を飼い始める前のそう言ってたご主人の会話など知らない。でも、ご主人のほうがよく散歩につれてくれたっけ。犬猫病院のときは家族全員が僕の回復を祈ってくれていたし、色々心配もかけた。それに心配をかけたのは、それ以前だってあった。それは無断外泊した事件。(こいつ、自分を犬と思っていなくって、吠えることをしないんで、ちっとも番犬になってなくって用心、悪いんだぜ。)そのようなご主人と友人とのやりとりを聞いてしまった日のこと。僕は裏山にこっそり、ひとり駆け上がったんだ。自分は犬なんだと。彼らとは超えられない境界があることを突きつけられたショックでぼんやりとあたりの景色を眺めていた。このまま、どこかえ消えてしまおう。それが無断外泊事件の騒ぎに。あのときも心配をかけた。でも戻ってきてからは犬としてのプライドが許さなかったんだ。あのまんま役立たずなんて言われたくもないしね、だから僕は努力して吠える事もマスターした。それに人間界の特にご主人の思考パターンも理解したんだ。犬語で盛んに会話したんだけれど、それがどこまで、ご主人のほうに伝わっていたかは心もとないのだ。もどってきた時、ほおづりして、云ってくれた言葉を思い出す。ご主人いわく。猫でなくてそれは「我輩は犬である」という僕のことを素材にした一文を約束してくれたんだよな。それからの散歩の後のひととき。世の中も変化を求めだしていた頃。ご主人のそれからは報道番組のテレビを途中で切り上げ、なにやら本を手元において考える風であった。本のタイトルは確か「ライオンは眠れない」サミュエル・ライダーのもの。そのまえはというと「チーズはどこえ消えた」というやつ、あれには新味は感じなかった。あれが出たのは、たしか小泉さんが首相になる前。僕もご主人の横で斜め読み。ライオンは眠れないのほうがその後の小泉構造改革路線と近未来を予告していた。単に予兆を察知したら、早めに別のチーズをというよりは内容があった。だからだ。ご主人はその続編か、亜流の読み物としてひょっとしたら、僕のことをダシにでもするつもりだったのだろうか。僕としてはそうしてくれたほうが嬉しかったんだけれど、でもなにが忙しいのか生前には果たしてくれなかった。いろいろ寄り道して、本人オルテガがどうだとか、かぶれてるようだけれどオルテガは大衆の病理をこれでもかってみせつけるばかりだし、どう考えても貴族主義に立脚している。自分としても飼い主のことをこういっちゃなんだけれど、僕の目から見てもどうみても、貴族でなく庶民に違いないのだ。そのご主人の口からオルテガがどうのと出てくるんだから吹き出しそうになるのだ。ステテコのほうがお似合いといったところか。まあ衆愚のひとりとはいわないにしても、生活にあくせくしてる俗人のひとりに見える。深刻ぶったそんな人生のことより、それにとってかわるレジャーや娯楽が一杯で、まあ適度にそれらのことも楽しんでいる風にみえるご主人でもあるが。それでも、僕としてもご主人同様にオルテガに感銘するところはあるのだ。それは政治にあきあきして無関心になることは、白紙委任と言う形での選択をしてしまっているというそれだ。選択しない事によってすでにそういうことを選択してしまっているという愚。またそれに気付かない群集のことも、あちこちでオルテガは上手い具合に言い当てているところがあるのだ。それだけはいえるのだと。その伝でいえば自民党をぶっこわしてでもこの改革をと叫ぶリーダーもいたのに、その改革のホコ先はしりきれトンボで終わった民主党政権。大衆の判断のなせるところ。さらに進めるべきはどの部分で修正されるべきはどこだと云って進んでいくかにみえた道筋も劇場型だとの簡略フレーズのもとに両断され、いまでは二度とあの時代には戻りたくないと、そう思われてもしかたないような事態に。党をぶっ壊してもの気迫どころか、いの一番に党を壊さない事と政権を前政権にはわたさないことが誓われる内向きのリーダーの下にあの当時。生活第一って議員生活第一だったってこと?また、それってよくよくみつめるもなぜ震災復興、復旧は3項目目なんだよと、よく、嘆いたものだった。衆参与野党のねじれ現象がどうだと障害のように理由付けいうまえに民主党政権時、与党内の結束掌握さえあやしくなっていたのが真相じゃなかったのか。

離合集散の結果、党名は民進に変更ですか、女性党首はいいとして。

要は外交・防衛、教育・福祉・厚生いずれの面でもやはり、政策的には野党のままでいててもらったほうがという感じです。

 


 何党であれ、いい政治政策を掲げて実行してくれるのであればそれにこしたことはないのですが。
ワンちゃんの僕も飼い主のご主人の認識と共有したところは、下記のオルテガに対する理解でしょうか。

 


オルテガは警鐘を鳴らす3点。

▲「満足しきったお坊ちゃん」の時代
▲ 時代の高さはなにで測るのか

▲「専門主義」の野蛮性
 自由民主主義、工業化、大衆情報化社会の誕生を予見した十九世紀思想家オルテガ。大衆のもつ危うさに今日なお警鐘をならす書がオルテガの『大衆の反逆』だ。大衆は、ドイツのナチズム、イタリアのファシズムなどにみられるように、変質する。大衆操作 という落とし穴。そこには、大きな情報の受け手となる人々が、マス・メディアを通じて操作され動員され、つまり判断力を喪失した集合体(マス)として存在している場合だってある。本来は情報の理性的な受け手であり判断者であるはずの大衆が、無意識下のうちにいわば潜在的な波間に漂う群集となりうることを意味している。マルクス主義では、人民大衆こそが新たな社会の創造をになうのだとして、積極的なとらえ方がなされているが、オルテガの人間理解はむしろ懐疑的だ。近代合理主義の発展史観をこそ疑っているのだ。一見良いことだと思う社会の大衆化現象が、実はいろいろな危険をはらんでいると
彼がこの社会学の名著といわれる『大衆の反逆(La Rebelion de las Masas)』を書いたのは、いまから80年も前の1930年。大恐慌が起こった直後のこと。大衆化とはかつては少数のみの占有物であったものを大衆のものに開放される意味で良いことではある。が、そこにある、何を実現改善したらいいかわからないという衆愚の暴走の危険性のあることも喝破しているのだ。彼はデモクラシーと科学技術の落とし子である大衆を「波間に漂う人間」と称し、「過保護なお坊ちゃん」と見る。自分をとりまく高度で豊かな文明をあたかも空気のような自然物と錯覚し、文明を維持する緊張感を忘れ、不従順で自己閉鎖的な人間と化してしまっている場合すらあると心配している。
 彼は現代の大衆を文明社会の中に突然躍り出てきた「野蛮人」だとまで形容する。貴族は官僚にとってかわり、民主主義の装置も改善されつつあるが、大衆の本質は変わっていないと。そしてこの模範的な少数者の欠如と無知蒙昧な大衆の反逆(充満)が当時のヨーロッパの現実だと解釈しているのだ。(シュペングラーの指摘「西欧の没落」に相通ずる部分)そしてかれはこうした難破船状態からの脱出方法としては、 彼がどこまで仏教に関心があったのかはさっだかではないのですが、とくに釈迦の伝える所の利他という姿勢に着目していることが伺える点が興味深いなぁと。