トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

小説『襲来』

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『守教』ば書くためにキリスト教について調べ、今年になってからはずっと、日蓮について調べとります。来年刊行予定の小説『襲来』が、元寇を題材にしたもので、日蓮を無視しては書くことができんからです。2017年作家、精神科医・帚木蓬生の言葉から。

 


小説『襲来』が、元寇を題材にしたもので、著者の言葉を拾うと、「日蓮を無視して書くことができんからです」とあった。

雑誌の氏のインタビューから、キリスト教の日本での殉教の歴史を『守教』で描いたかと思えば、その次には時代をさかのぼって元寇を題材にした作品ですか。小説『襲来』へと。

自分はキリスト教を信じるものでありませんがキリシタンから隠れキリシタンにならざるを得なかった人間たちのドラマを描いたのが『守教』とするなら、『襲来』も、その関心の延長線にあるのは、ある種の緊張感をもった、世の権威権力との関係性にあることが想像できます。

領地の首領がキリスト教に対して寛容か厳しいかによって、為政者への服従の度が試されたというふうな構図同様、それ以前の歴史でも日蓮教団への弾圧ということで、あったことが理解できます。

そのうえで、小説『襲来』の場合は、日蓮を慕う一信徒の見助の内心に分け入るように迫っていく。

非難中傷の苦闘の中にあっても失うことのない憂国の情を追うことによって時を超えて、また宗教の別を超えて、思想に準じるということはどういうことなのか。それらを考えさせられるものがあるという気がしています。


物語は日蓮の生まれた安房の東岸・小湊(片海)で始まる。下総の守護・千葉氏に仕える富木常忍の片海館の下人として漁をして働く想像上の人物、見助(けんすけ)の視点で語られていく。
下総の千葉氏の領地が肥前小城にあり、そこを経由して蒙古の動静を伝えることができたとするストーリー展開、見立てもうなずけるものがある。

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安倍首相の被災地視察と学校クーラー設置の関係

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天災である豪雨の被災者に、政府の初期対応の遅れのデマを繰り返し聞かせる事によって、避難所の被災者の中に人災の被害者だと認識する者が出ると、雰囲気が一気に悪化して殺伐とする。ケアする自治体職員やボランティアに当たり散らすようになる。デマを流す連中は、それを狙っているのか?

戦争No、脱原発ウォークとか言ってる人がよりによってこういうときに伝聞の体裁でデマを流してるのはいただけない。

世耕大臣の反論のほうを支持します。

あんまり、いちいちそのような一般のツイートにむきにならないように、望みます。

出身がNTTなだけに得意なんでしょうけれど

眼の前の被災救援の政策的フォローのほうに今以上の専念を。

蓮池薫

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朝日新聞デジタルに載っていた二人の編集委員によるインタビュー。要約すれば、以下のようなことだ。

北朝鮮は、下手な言葉で挑発するやり方はトランプ政権には通用しないと思い直したかもしれない

②日本が圧力重視の立場であることは、今はそれでいい。非核化であいまいな合意をしたら、交渉全体が挫折してしまう。核問題でしっかり米朝が合意した後で、日朝交渉に進めばいい。

③日本は『拉致問題が解決するまでは支援に参加できない』という原則を強調すべきだ。拉致問題の解決は、すべての拉致被害者を救い出すこと

④どこかのタイミングで日本も態度を転換する必要が出てくる。米朝が何らかの合意をしたら、日本も歓迎し、その後のプロセスに関与していくことだ。

⑤安倍首相は、家族会の一人ひとりに会って話を聞いており、中途半端な解決でお茶を濁すことはできない。これまでの経緯もよくご存じで、北朝鮮が何を望んでいるのか、ダメだった点はなぜダメだったのか、十分に分かっている。北朝鮮も安倍さんについては『だませない』との思いがある。

少し前にお兄さんの蓮池透さんが『誰に「直談判?」相手が違うだろ!。トランプ大統領も困惑。怖くて金正恩と正面から会えないんだろ?』とかツイートしていて暗然たる気持ちになっていたが、弟さんの仰っていることはまことに正論。私のかねてからの意見とほぼ同じだし、安倍首相の最近の方針をだいたい支持されているようで安心した。

朝日新聞がこれを掲載したことはクオリティー・ペーパーとしての遺産と良心がなお消滅していないということだろう。ただ、この蓮池さんの意見が自社のポジションとへだったものであることについて解説くらいして欲しいと思う。

このほかにも、注目すべき指摘があるが、箇条書きにすればこんなところだ。

①従来の米国と違ってトランプ米大統領は『北朝鮮を完全に破壊する』と非難し、制裁強化などをした。北は核兵器が完成しても体制の安全は確保も経済の立て直しも困難と判断した。

北朝鮮の悩みは電力不足。効率のいい石炭火力や送電網の整備を日本が提供するのはありうる。

金正恩が、国内を説得できる形が必要だ。

金正恩は父・金正日の時代よりも自由市場をうまく利用している。

⑤戦端が開かれれば、『敵か味方か』の論理に社会が極度に支配された状態で、北朝鮮政府が日本の拉致被害者を生かしておこうと思い続けるのか危惧する

ちなみに、私の北朝鮮問題についてのポジションは、こんなところだ。

これまで、中国・韓国・ロシアなどに仲介を頼むといったことをしてきたのは賛成できない。彼らが真剣に交渉してくれるはずがないから、北と直接に話さないと解決はしない。

ただ、金正恩になってからは核問題が焦点になっており、日本は拉致で満足いく反応を得ても制裁を解除できない。その意味では、交渉でやれることは限られている。

そういう状況では最大限の圧力をかけて核問題を一挙に解決しようというトランプ大統領の方針は願ったり叶ったりである。安倍首相はトランプのアドバイザーに徹するとともに、核が解決したら経済協力はしてアメリカに負担がないように協力するが、拉致も一緒でないと参加できないから金正恩に拉致で安倍の希望を叶えろといわせるのに全精力を傾けることは正しい。

何を持って拉致が解決だというか、関係者処罰まで譲れないといったハードルが高すぎる要求にこだわるのは疑問で、アメリカにも現実的対応を説明する必要がある。

核と拉致が解決したら、むしろ、北は日本にとって友好国になりうる。国境を接してないから脅威にならないからだ。また、金正恩一家は母親のこともあり日本文化に好意的だ。また、ここのところは保守派の人は違う意見だろうが、朝鮮総連は北の体制のなかでは「親日派」なのだからむしろ利用価値がある。

いずれにしても、シンガポール会談はこれまでにない形の決戦だ。もしこれでうまくいったら、ある意味で、外交の常識が変わるだろう。

トランプには安倍首相というアドバイザーがついているのはまことに好ましい。それに対して。金正恩に適切なアドバイスがいないのが辛い。習近平でもプーチンでもダメだ。文在寅は金正恩から結果を聞かせてもらったらいいのであって、うろちょろしないで欲しい。彼が何者かであろうとすれば、交渉は失敗するだろう。そこがちょっと心配だ。

 


拉致被害者の兄である蓮池透氏がヒステリックといわれてもしかたない罵詈雑言を、安倍首相に対して浴びせているのに対して、本人の蓮池薫氏のほうは、実にバランスのとれた貴重な意見を朝日新聞紙上で述べておられることは、すでに『蓮池薫氏の「100点満点」の北朝鮮解説が朝日新聞に掲載』で紹介した通りである。

その蓮池氏が今度は『週刊新潮』で米朝会談について論評されているので、紹介しつつ解説したい。まず、蓮池氏は米朝会談についてこんなことをいっている。

①非核化が具体性を持たなかったのは信頼醸成から始めなくてはならなかったのだから悪くない

②トランプが拉致について提起したことは、その重要性を金正恩に意識させ、トランプにもインプットされたということだから意味がある。また、トランプが提起したので、日本が拉致が未解決であることを理由に経済協力を拒否しても批判されない。

③「安倍3選」など政治的に利用されても結果を出してくれれば構わない。

北朝鮮は中国への過度の依存から抜け出たいと思っているので、日本との関係強化には大きな意味がある

蓮池氏は横田めぐみさんの生死について、「生きているとは断言はできない」が、「1993年にめぐみさんが入院のために自分たちの近所から消えた後も、娘のヘギョンさんや夫はしばらく同じところにいて付き合いがあったし」、「その後も2002年の帰国まで音信あったと明かし、そういうなかでめぐみさんが死んだと聞かされなかったことは不自然」であり、そういう意味で希望はあるとしている。

めぐみさんの生死については、一方で亡くなっていると断言する人もおれば、必ず生きておられるという人もいるが、いずれも極端すぎて真摯な議論たのためには有害である。「合理的に考えてチャンスは十分にある」という蓮池氏の説明が腑に落ちる。

拉致問題で大事なことは生きておられる方の生還を実現することであり、万が一、本当に亡くなっておられるかたがおられたとしたら、納得できる説明を聞くことである。日朝関係を将来ともに悪くすることに使うとか、復讐は目的ではないはずだ。

また、長く北朝鮮で暮らされた蓮池氏が「北朝鮮が中国依存を嫌がっている」と指摘されているのは、貴重だと思う。

逆にいうと、いま、習近平はトランプの大胆なアプローチの結果、劇的に米朝が近づいて、鴨緑江に米軍がやってくるのを心から恐れているはずだ。いわば、北朝鮮ウクライナ化である。

わかっている拉致のネットワーク

田口八重子さん、田中実さん拉致から40年 浮かび上がる工作組織のネットワーク

 

 

 
 拉致被害者田口八重子さん(62)=拉致当時(22)=と、田中実さん(68)=同(28)=が北朝鮮に連れ去られて6月で40年が過ぎた。事件当時、日本国内には数多くの北朝鮮工作組織が存在し、それぞれが暗躍。2人に接点はみられないが、拉致に関与したとみられる工作員や工作組織は密接につながっていた疑いが浮上している。

 田口さんは事件当時、2人の幼子を育てるため東京・池袋の飲食店で働いていた。客の中に、田口さんに会うため頻繁に通いつめた羽振りの良い常連がいた。「宮本明」を名乗ったこの人物は、北朝鮮から潜入した工作員を支援する在日の補助工作員「李京雨(リ・ギョンウ)」だったことが警察当局の調べで判明している。

 「李京雨」はさまざまな外事・テロ事件で捜査線上に浮かんだ人物だった。

 1987(昭和62)年の大韓航空機爆破事件の実行犯、金勝一(キム・スンイル)工作員(自殺)が所持していた「蜂谷真一」名義の不正旅券の入手に関与。もう一人の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員(56)の日本人化教育を担当させられたのが田口さんだったことをみれば、大韓航空機事件は「李京雨」が介在していた工作活動のネットワークの中で起きたことが分かる。
 昭和60年に警察当局が摘発した「西新井事件」では、「朴」を名乗る北朝鮮工作員の配下で非公然活動を繰り広げたとされる。事件は、小住健蔵さん=当時(51)=ら日本人2人の戸籍を乗っ取るなどして本人に成りすまし、約15年間、スパイ活動を続けていたというものだ。

 「朴」はその後の捜査で、53年7月に新潟県蓮池薫さん(60)と奥土(現・蓮池)祐木子さん(62)を拉致した実行犯の「チェ・スンチョル」と判明、現在も国際手配されている。

 こうした工作活動を支援してきた「李京雨」に資金提供していたのは、関西地方に拠点があった非公然の在日朝鮮人組織「洛東江(ナクトンガン)」だったことを警察当局は突き止めた。
多数の工作員や支援者が介在し、さまざまな手段で資金を調達、北朝鮮にも送金していた洛東江は、田中さん拉致に深く関与。元メンバーの張龍雲(チャン・ヨンウン)氏(故人)は平成8年、田中さんが勤務していたラーメン店元店主で洛東江メンバーだった男(同)が指示を受け、昭和53年6月に成田空港からオーストリア経由で田中さんを北朝鮮に連れていった-と証言した。
その半年後にはラーメン店の同僚だった金田龍光(たつみつ)さん=失踪当時(26)=も行方不明になり、2人を拉致したとして、元店主と洛東江最高幹部の男が国外移送目的略取罪で警察に告発された。
 

警察当局は洛東江に「李京雨」への資金提供を命じたのは北朝鮮工作機関「対外情報調査部」(当時)幹部の金世鎬(キム・セホ)容疑者とみている。同容疑者は52年9月、石川県で久米裕さん(93)=拉致当時(52)=が連れ去られた「宇出津(うしつ)事件」の主犯格として国際手配されているが、帰国した拉致被害者の証言などから死亡説もある。

 田口さんや田中さんが拉致された当時の時代背景について、公安関係者は「北朝鮮当局の指示で工作拠点の構築や工作員、支援者の獲得が加速し、各機関が連携し、ときにはしのぎを削っていた」と話した。

産経記事より

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画像は

「全被害者の即時一括帰国を!訴える

田口八重子さんの長男、飯塚耕一郎さん


 

 

海峡を越えて

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海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(20)

借金を返さない北朝鮮 理不尽なカネの要求は拒否すべし

 
   
2018年5月26日
産経新聞   
 の記事レビュー

ふりかえって味わってみることにします。

 



 
 朝鮮半島の動きに関して日本の出遅れを懸念し前のめりになっている向きが気になって仕方がなかった。

 ここにきて米国側が6月の米朝首脳会談の中止を発表するなど不穏なムードも出てきたが、それまでは経済界でも日朝国交正常化をにらんで小泉純一郎首相(当時)が訪朝し、日朝平壌宣言に調印した平成14年以来の「好機が来た」と期待が膨らんでいたという。

 少し頭を冷やした方がいい。前回も書いたが、北朝鮮が先に過去の悪行を認めてわび、日本人拉致被害者を帰し、核開発を完全にやめ、改革開放経済にも舵(かじ)を切るというならば、南北統一も、日本との国交正常化もどんどん進めればいい。

 ただし、日本に対する「理不尽なカネの要求」には断固として拒否の姿勢を貫くべきだ。日朝平壌宣言には、国交正常化の際に経済的な支援を日本が行うことや、日朝双方の請求権の放棄方針などがうたわれている。昭和40年の日韓国交正常化の例を踏襲したものであろうが、慰安婦問題や徴用工問題をめぐって、いまだに「カネの要求」がやまないではないか。

 その轍(てつ)を踏まないために過去から現在の「事実」をしっかりと踏まえておくべきだろう。まずは現在の北朝鮮への「貸し」についての話から始めたい。

 戦後の日本の商社やメーカー側による、北朝鮮へのプラントや機械類の輸出は、1970年代後半にピークを迎える。だが、北が83年に起こしたラングーン(現ミャンマーヤンゴン)の爆破テロ事件で、国際社会から孤立を深めたことを逆手にとって、それ以来北朝鮮はビタ一文、支払いをしなくなった。

 関係者によれば、北の未払い額は、元本だけで約400億円。利子や延滞分を合わせると、計2200億円に上る、と日本側は試算している。日本の関係機関が毎年6月と12月末に、郵送とファクスで「請求書」を北側へ送り続けているが、返済どころか、受け取ったという返事すらなく、ナシの礫(つぶて)だという。

 平成14年の際には、日本の経済支援として、1兆円規模という話もささやかれていた。もしも、国交正常化交渉を行い、政治決着を図るのならば、この「未払い分」相当の減額を考慮するよう日本側ははっきりと主張すべきだろう。

 ■久保田発言の意外な反応

 一方、韓国との国交正常化へ向けた交渉は何度も暗礁に乗り上げて中断を繰り返し、昭和40年に妥結するまで14年間もかかった。日韓双方の請求権問題。いわゆる「李承晩(イ・スンマン)ライン」内での日本漁船の拿捕(だほ)・漁民の抑留。北朝鮮への帰国事業など多くの課題が持ち上がったが、双方の対立は結局「日韓併合」に対する評価の違いに行き着く。

 第3次会談(昭和28年)での「久保田発言」は象徴的な例だろう。互いが相手側にある財産の請求権を主張し合う中で、日本側首席代表の久保田貫一郎(外務省参与)が朝鮮統治における日本の貢献を主張したことに対して、韓国側が「妄言だ」と猛反発、会談は決裂した。

 興味深いのは、当時の日本国内での反応である。“後ろから弾が飛んでくる”ような反発は、さほどなく、むしろ、韓国側への批判が少なくない。当時は終戦からまだ10年たっておらず、日本統治の実相を知る国民が多かった。さらに、韓国が日本の領土・竹島を含めた李ラインを一方的に設定した上、武装した韓国の警備艇が丸腰の日本漁船に銃撃を加えたり、片っ端から拿捕・抑留したりしたことに日本の世論は沸騰していたのである。

 朝日新聞の記事を追ってみよう。10月22日付朝刊社説は「遺憾なる日韓会談の決裂」の見出しで、決裂の経緯に触れた上、《(日本)政府声明にもある通り、韓国側の態度には、「ささ(些々)たる言辞をことさらに曲げ会談全般を一方的に破棄した」ものとみられる節があるのは誠に遺憾である》とし、会談再開で日本人漁民問題の解決を図ることこそが喫緊の課題だと主張している。

 翌23日付朝刊では、「韓国のいい分は無理ではないか-財産請求権の問題」とする国際法の東大法学部助教授・高野雄一の寄稿も掲載。朝鮮内の日本資産について終戦後、米軍政が接収し、韓国に譲渡したという韓国側主張に対し国際法上、無理があるのではないか、と疑義を呈した。同じページで「右翼進出を憂(うれ)う」とした池島信平文芸春秋編集長)の談話も載せているところが朝日らしいとはいえるが…。

 ■反日沸騰は80年代以降

 日韓会談に携わった関係者によれば、当時の韓国側代表には、日本留学組や京城帝大出身者も多く、一応通訳は同席させていたが、「日本語で話した方が早い。『慰安婦』など理不尽な問題を持ち出す人も少なかった」と振り返る。「反日」が韓国で沸騰するのは“日本発”の歴史教科書問題などが起きた1980年代以降である。

 日韓会談で、日本側がこだわった朝鮮に残した財産の請求権問題は結局、政治的判断で撤回された。だがもし日朝国交正常化交渉を始めるならば、日本統治時代に残した資産の事実は少なくとも念頭に置いておくべきだ。GHQ(連合国軍総司令部)の試算では、日本が朝鮮の北半分に残した総資産額(終戦時)は約8兆8千億円相当に上る。

 これらには、朝鮮北部の奥深い山に分け入り、ダムや発電所、鉱山、工場を築いていった日本人の血と汗が染みついている。それを次週に書く。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

                   ◇

【用語解説】久保田発言

 昭和28年10月15日の第3次日韓会談の財産請求権委員会で、韓国側の「日本側が36年間の蓄積を返せというのならば、韓国側としても36年間の被害を償却せよというほかない」という発言に対し、日本側首席代表の久保田貫一郎が「日本としても朝鮮の鉄道や港をつくったり、農地を造成したりしたし、大蔵省は当時、多い年で2000万円も持ち出している」と主張。反発した韓国側が「あなたは日本人が来なければ韓国人は眠っていたという前提で話しているのか」と返すと、久保田は「私見としていうが、日本が行かなかったら中国かロシアが入っていたかもしれない」と発言した。


【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(21)日本人が築いた「電力遺産」を食い潰す北朝鮮 

産経ニュース / 2018年6月2日

 

 

 

鴨緑江水力発電用として建設された「水豊ダム」

 


 衛星写真で今の朝鮮半島をとらえたら、「真っ暗」な北朝鮮と「煌々(こうこう)と明るい」韓国の対比が、くっきりと表れる。

 2014年の発電設備容量は北朝鮮が約725万キロワットで韓国のわずか約7・8%でしかない(韓国産業銀行統計)。実際の総発電量で比べると、さらに減って韓国の4・3%(2013年)にとどまる。首都・平壌では多少の改善も伝えられるが、北朝鮮の電力不足は相変わらずのようだ。

 ところが、日本統治時代の朝鮮北部は“発電所銀座”とでも呼びたくなるほどの「電力王国」だった。大正末期以降、日本人は、人が容易に立ち入れない急峻(きゅうしゅん)な山地に奥深く分け入り、赴戦江、長津江、虚川江といった川に、次々と巨大な水力発電所を建設していったからである。

 中でも、満州国(現・中国東北部)と朝鮮の国境を流れる鴨緑江水力発電用として建設された「水豊ダム」は、ケタ外れのスケールだった。高さ約106メートル、幅約900メートル、総貯水容量116億立方メートル、人造湖の表面積は、琵琶湖の約半分に相当した(※昭和38年完成の「黒部ダム」は、高さ186メートル、幅492メートル)。

 昭和16(1941)年から電力供給を始めた水力発電所の発電機は、1基あたりの出力が、世界最高(当時)の10万キロワット。それが最終的に7基(最大出力計70万キロワット)備えられ、朝鮮と満州国に供給された。

 水豊の巨大さは、当時の内地(日本)の水力発電所の規模と比べると、よく分かる。1発電所で出力が8万キロワットを超えるのは、信濃川(16・5万キロワット)▽千手(12万キロワット)▽奥泉(8・7万キロワット)▽黒部川第3(8・1万キロワット)の4カ所しかなかった。それが同時期の朝鮮では、水豊のほかにも、虚川江第一、長津江第一、赴戦江第一など6カ所も完成していたのである。

 朝鮮北部の発電力は終戦時に計173万キロワット、工事中の発電所を加えると、300万キロワットを超える。発電コストは内地より安く、廉価な電力が、京城平壌などの主要都市や、やはり朝鮮北部に建設された一大化学コンビナートの興南工場群に供給されていった。

 ■急伸した電灯普及率

 京城の電気事業は、日韓併合前の明治32(1899)年、李朝王家の保護下で米国人企業家がつくった漢城電気(後に韓美電気)によって営業がスタートしている。だが、高額の電気代に加えて設備費も徴収されたため、契約者は京城約5万戸のうち、わずか493戸にすぎなかった。

 経営不振の同社の電気事業を、日本資本の日韓瓦斯(ガス)電気(後に京城電気)が路面電車事業とともに買収し、一般家庭にも広く電気を普及させてゆく。

 昭和5年には京城とその周辺で、約9万5千戸、14年には約14万8千戸と急増。朝鮮全体では、16年度末の主要21都市の電灯普及率が66%に達し、全土でも17・4%になっている。3年度末の数値が6%だったことを考えると、13年間で電灯普及率が約3倍に伸びたことが分かる。

 もっとも、主要21都市の日本人家庭の普及率が、ほぼ100%だったのに対し、朝鮮人家庭は約23%にとどまっており、日鮮間に格差があったことも、否定はできないが…。

 朝鮮北部の「水力資源」に目をつけ、朝鮮総督府の認可を受けて、周囲には無謀とも思われた発電所群の建設に乗り出したのは日本の民間の経営者、技術者であった。日窒(にっちつ)コンツェルン創始者、野口遵や、久保田豊森田一雄といった先駆的な技術者たちである。

 彼らの慧眼(けいがん)は“逆転の発想”というべきユニークなアイデアに表れていた。朝鮮北部の大河川は、おおむね西部に流れており、勾配が少なく、冬季には渇水が続く。このため水力発電には不適だと考えられていたのを、「西流する河川をせき止め、逆方向の東に向け日本海側へ落とす」という発想で、不可能と思われた巨大水力発電所を次々と建設していったのである。

 電力の用途も“逆転”だった。100万キロワット単位の電力は、当時の一般需要(昭和初期の朝鮮全土の電力需要は数万キロワット)をカバーしてあまりある。そこで野口は昭和2年、朝鮮窒素肥料会社を設立、電力の活用先として、先に触れた興南工場群を建設してゆく。《むしろ中心は大肥料工場の建設にあり、電力開発は、興南工場の付帯事業とすらいっても過言ではあるまい》(『野口遵』から)と。

 ■発電所は今も稼働中

 野口らが建設した水豊ダムの発電所は今も稼働中だ。現在の出力は80万キロワット、北朝鮮発電の「主力」である水力発電所の中でも最大を誇り、供給電力は中国と折半している。関係者によれば、発電機を製作した日本の重電メーカーが戦後も、保守・修理にあたっていたが、今は経済制裁のために、それも難しくなり、老朽化による稼働率の低下も見られるという。

 虚川江、長津江、赴戦江の発電所も「現役」だ。これら日本統治時代以外の水力発電所も、1960年代以前にソ連(当時)・東欧の支援で建設されたものが主で《設備は老朽化し、エネルギー管理技術も遅れている(略)1990年代半ばの大洪水により、水力発電設備の85%が損傷を受けたとみられる》(韓国産業銀行統計)という惨状だ。これでは北朝鮮が「電力遺産」を“食い潰している”といわれても仕方がない。

 朝鮮に戸籍を移してまでその近代化に尽くした野口は昭和19年、70歳で亡くなる。死後、寄付した全財産は、生涯をささげた化学研究と、朝鮮留学生のための奨学金に充てられた。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

                   ◇

【プロフィル】野口遵(のぐち・したがう) 明治6(1873)年、石川県出身。帝国大学工科大学(現・東京大工学部)卒。日本窒素肥料(同チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築き、鮎川義介、森矗昶(のぶてる)とともに、財閥系ではない「財界の新三羽烏(がらす)」とうたわれる。朝鮮へ進出し、朝鮮北部(北朝鮮)の水力の電源開発や化学コンビナート・興南工場建設などに力を尽くした。同コンツェルンの系譜に連なる企業として旭化成積水化学工業信越化学工業などがある。

 

『ふたつの荒野』

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戦争を知らない世代の自分が、

貴重な体験の記述に

触れることによって、

少なくとも、

戦争を超えてきた世代が、

なにを見、

どういう気持ちで

振り返っているかを、(死と隣り合わせの大陸の日々と

それがために背負ってしまった

苛烈な帰国後の出発とを照らし合わせるようにして

語られていく内容で)

知ることができた。

 

目次を記しておきます。

 

【第一章 米国からのスパイ容疑】
 米国・極東軍司令部へ/米ソ冷戦の対立のなかにあって/スパイ容疑を掛けられて/皮肉な運命に対する働実/ソ連による思想教育
【第二章 幼少時代の郷里】
 亀川の大将/土蔵に閉じこめられて/ガキ大将から優等生へ/海南中学/授業料も払えず/近づく戦争の足音
【第三章 陸軍士官学校
 スパルタ式教育/同郷人たち/四種予防接種がもとで/孫呉で再び病に伏す
【第四章 人生の落馬】
 陸士本科への幻の入学/再び希望の光が/都落ち熊野灘での療養/陸軍省の委託学生を拒否され
【第五章 東亜同文書院大学】
 竜田丸で上海へ/頭蓋骨を盃にして/太平洋戦争が始まる/本間予科長留任運動/学徒出陣
【第六章 特務機関の諜報班長として】
 当陽県での宣撫活動ノチャムス特務機関/白系ロシア人工作員ソ連へ潜入する/イワンの自立
【第七章 敗戦の前後】
 知られざる重慶に対する裏工作/通化へ撤退/チャムス防衛/死の行進/逃避行の修羅場/チャムス特務機関の終焉
【第八章 捕虜収容所】
 ワン・チンパオは死んだ/ソ連抑留の始まり/過酷なシベリアの冬/労働拒否で監禁室へ
【第九章 “反動”をあぶりだせ】
 密告者/草地大佐と囲碁/白樺の肥やし/取り調べ
【第十章 生と死の境】
 倉庫番に起用/瀬島龍三氏との出会い/カザン国際収容所ヘ/イワンとの再会/首実検にかけられる/ナホトカへ/スターリンに対する感謝の署名を拒否する
【第十一章 復員と戦後】
 引き揚げ船/アクチブに対する天課/米軍の取り調べ/執勘な監視が私のうえに/戦犯G項による公職追放/米軍へソ連の情報を提供/「朝鮮戦争に協力せよ」/朝鮮戦争への協力を拒否した後の米軍の反応
【終章 旧軍人たちの戦後】
 戦争の傷痕/戦友たちの戦後/ビザ交付を拒否/アクチブの戦後/夜の記憶

 

 シベリア抑留時の変節奸アクチブと称されるやつらが

戦後、代々木にいきつくところを

眺めながら、怒り慟哭するくだりが

印象的でした。

日本人としての矜持を感じるところかと。

 

書籍名  ふたつの荒野 著者名  尾崎 茂夫 著者紹介 大正09年01月31日(1920)生。昭和12年陸軍士官学校入学。15年上海東亜同文書院大学に転校。留学中に学徒出陣。19年従軍チャムス陸軍特務機関勤務。終戦ソ連抑留。25年帰国。