トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

地域の縁、職場縁、志の縁

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通信教育生で子育てと両立の日々だったことを懐かしむ妻。


人のうわさ話をしなければ、生きていけない夫人もいれば、
昨日の自分より、今日の自分をと、周囲に笑顔を心がけていく生き方。

友人の夫人のsosに静かに起き、不登校の悩みに静かに応えていた。

その後の吹っ切れた、解決の喜びに共に喜ぶ妻の姿も懐かしく。

まだまだ、学びたいという想いはとめどなく。

進学をあきらめ、就職の道を選択して、勤め始めていた頃の彼女。
出逢ったときは、高校在籍時に父を亡くしていることは知ってはいた。
共稼ぎの日々は続いていた。

進学校だったからなのか。子育てもまだまだかかろうというときに、持ち出された、向学の夢。

神妙にならざるを得なかったというのが偽らざるところ。

「子育ては、どうするんだ。」怒鳴った遠い昔のこと。


伝書鳩のように、職場と家を往復している自分と比べてみても、
今の彼女があるのもそういった縁があってのことだろうと。
いくつもの役割をになっているかもしれないような。こころざしで築かれる絆。

 


縁とは、不思議なもの。
年齢を重ねていけば、血縁から、地域の縁、職場縁、同窓会でまた、新たに深めていく学友。
それから、趣味縁、サークル縁というものも世の中、あるだろう。
それに、リンクするように、志を同じくするような思想縁、志の縁があってもおかしくはない。

子育ても一段落してから、大学への通信教育選択を応援。

会社は別であるけれど、スクーリングで仕事を休む妻の気苦労も身近にみた。

それだけに、卒業式の感慨もひとしおで、

夫の自分が父兄保護者の席に参加した時のことを。

学内に不案内の夫の自分が、妻と講堂で待ち合わせをしたことを思い出している。

 

平成30年


世界が熱狂!!!「空手団体女子形」日本が連覇!!! JKA World Karate Championship 2017

2018年(平成30年)。本年もよろしくお願いいたします。

 

 

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【以下、検索参照しています】

 

蛯名健一ダンス動画(EBIKEN) America's Got Talent シーズン8で7万5000組の頂点へ!

 

小野田寛郎 陸軍少尉.7/8 - YouTube

焼け跡から生まれた憲法草案


百田氏の「日本国憲法」は全て「GHQ憲法」論は既に破たんしている!真実を直視せよ。


憲法に対しての意見というと

護憲も改憲もどちらの論者にも欺瞞を感じています。

自分の意見をいえば、憲法の三大原理は大切。
しかしながら、それだからといって護憲を任じるものでもありません。
よく、マスコミで取り上げられたりする主張とは違って
福島瑞穂も嫌い。
学者の小林節も嫌い。
井上ひさしもきらい。
(作家はもう亡くなられましたけれど政治的主張部分では。)


憲法を前向きにもっと良くする議論があっていいという立場です。

なにか議論することを即非難するのもどうなのと。

単なる改悪派というレッテル貼りにもうんざりしています。


学生の頃は「日本の青空」という映画をみたこともあって、在野の憲法学者鈴木安蔵には感銘したりしてきています。

 


が、しかし、いまだに左傾がかった人たちが単に護憲を謳い、特に鑑賞を推進したりしているふうな傾向もあって、そういった人たちと同様な連中にみられることは嫌なので、その点は躊躇しますが、憲法草案の誕生は
アメリカの押しつけ憲法ではないことの証明にはなるだろうという意味では、おススメしたい内容の映画です。

保守の改憲論者の中には
だから、アメリカからの押しつけられた憲法は変えなければという意見もありますが、推しつられたと主張することに、違和感があり、そこに改憲論者の欺瞞を感じています。

別の映画「焼け跡から生まれた憲法草案」でもそれらははっきりと合点がいくはずです。

押しつけられてきたといまだに主張することこそ、自虐的です。

日本人は主体的に、焼け跡のなかで、アメリカ側の先手を打つように草案を示し、それをアメリカ側も参考にして策定作業したというのが正しい事実解釈なのではと。

 以前、感銘したTVドキュメンタリーでみた「焼け跡から生まれた憲法草案」の短縮版でもありますので、検索チェック。

見つけました。このタイトルで。

百田氏の「日本国憲法」は全て「GHQ憲法」論は既に破たんしている!真実を直視せよ。

 

このつけられたタイトルはちょっと、意味の呑み込めない今少しの違和感ありますが、おススメです。

それと、関連では

架空の法制官僚を登場させての小説

「百年の亡国_憲法破却」という書も

追加で紹介しておきます。

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宗光の没後120年

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日本が主導すべきと感じること、今こそ多いのではと。

すくなくとも、首相の外交、評価しています。

政権交代で一時期危うくした日米関係が修復に向かいかけたのは評価できるところか。

それよりか、アメリカのほうが外交の基盤が揺らいできているきらいがある。そっちの心配をしなければならないのかもしれない。


とくに安倍首相は、冷戦逆戻りの感ある中、ウクライナとロシア双方に目配りなんかして、ロシア封じ込め、西側と共同歩調を示しながらも、日本とロシアが抱える北方領土問題では、話し合いの糸を切らさないというシグナルを見せるところなどからもまあまあ評価できます。

民主主義と人権とを尊び、力による現状変更の試みには断固反対すると主張続けてきたという言やよし。

左傾がかった人にかかれば、戦前回帰、復古主義平和憲法を否定して、戦争にむかおうとするものだとかいう人もいますけれど、まあ、それは先入観のあるかなりうがった見方。

戦後のあゆみを否定するものだと極論する評論家もあらわれましたけれど、アセアン諸国、インド、中東訪問、オーストラリア、それからアメリカと精力的にまわられて、戦後70年談話しかり、安保法制整備しかり、

しっかり、理解と協力を取り付けても来ている。

いっときはマスコミのへイトスピーチなみの低レベルこき下ろし合戦は、ナチスにたとえられ安倍一強は倒さなければというところまで。

実際のところ、それこそ、そういう例えを拡散するマスコミのほうというか、バラエティー番組の編集姿勢のほうがへイトではないのかと思ってみたり。

冷静さを装い、多少は溜飲を下げたかのような、報道の仕方。
そんな中、首相はというと、一切のそのような報道なんかに迎合もすることなく、相手をましてや、非難することをさけ、
遭難で亡くなられたということにお悔やみに參られる姿が。あれは韓国セマウル号転覆事件の時。
だから、韓国はだめなんだよの声聞かれる中、海に亡くなった高校生の遺族を励ます安倍首相の姿。評価しないマスコミの立脚点は反体制のまま。

脱却して欲しいと真から思うのは意図的な反日教育のほうであるし、マスコミが第4の権力といわれる所以もそこにある。
マスコミ関係者には自戒してほしいものだなと。
これは、双方の国にいえること。

それは振り返る戦没者追悼式にも。

首相の言葉には素直に聞けた一人だけれど、マスコミからのあれは朝日新聞ですか、「加害責任に言及なしの挨拶」という安倍首相への批判記事にはまいりました。坊主憎けりゃ袈裟まで憎しってな感情的な論調。いつまでやってんだろうという気持ちに。
そう受取らざるを得ないような感じになります。

謝罪を首相に要求って、国内であの70年談話。マスコミの理解の程度が疑われるほどに。浸透されていないのか
まあ御用新聞に思われたくなくて紙面も割かれていないことの影響もあるのかと勘繰ってしまいます。

だから、安倍首相、だから、韓国はいうまえに、だから新聞朝日、マスコミはどうなのという気持ちが先行してしまいます。

「だから、韓国はだめなんだよ」というのは、今こそ真に言わなければという時なのではと。中韓にクギ 韓国には慰安婦合意履行要求。


外交では河野太郎。なかなか評価して見ています。本人いわく、「親父の河野洋平とは政治的スタンスは違います」とハッキリ。


陸奥宗光の没後120年
国家の命運を左右する外交の重要性を再認識し、日本国民としての誇りと自信を取り戻す意味からも、宣揚しなければならないことが多いのではと感じています。

宗光の父は、紀州藩勘定奉行 伊達宗広。10歳頃、幕末の政争により父が失脚、和歌山城下から追放。
勝海舟の神戸海軍操練所に入所。後、坂本龍馬海援隊に入隊。
坂本龍馬に「二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わせたほどの才能を発揮していく。

陸奥宗光は和歌山に生まれたのだった。

龍馬の手紙の中にみる陸奥宗光との関係。その手紙の中で龍馬は陸奥のことを『商法のことは陸奥に任せている』
と書いてあるそうなのだ。龍馬にとって陸奥宗光は全幅の信頼を寄せる同士の一人でもあっただろう。
坂本龍馬が暗殺された後、陸奥宗光明治新政府の役人となる。
外国事務局に勤め、外国軍艦の購入に尽力した後、廃藩置県後の神奈川県知事などを歴任する。

しかし、専制的な明治政府の方針に反対するようになる。政府転覆計画に加担したことによって陸奥は、山形で5年間近くの監獄生活を送る事に。
山形の監獄では、ひたすら勉学に。この前後、陸奥を支え続けたのが亮子夫人である。
山形の監獄を特赦によって出獄し、ロンドンに留学する、ここからが陸奥宗光の真骨頂の始まり。

40歳にしてロンドンに渡った陸奥宗光は、イギリスの政治・内閣制度・議会制度について徹底的に研究を行う。
2年近くのイギリス生活を終え帰国した陸奥は、外務省に入省しアメリカ公使となる。2年後には帰国し農商務大臣として初入閣、2年後には外務大臣に就任し、不平等条約の改正に人生のすべてを捧げることとなる。
条約改正の3年後、陸奥宗光は54歳でこの世を去る。最後まで陸奥を支え続けた妻亮子は鹿鳴館の華とも呼ばれ、陸奥の死後3年にして、45歳で陸奥のあとを追うようにして亡くなっていく。


紀州藩脱藩、坂本龍馬との出会い(海援隊へ参加)、新政府へ参画、渡欧。藩閥政府批判、政府顛覆計画への加担、逮捕・繋獄、外遊と、激動の幕末・維新期の一断面を全て体現した人物。
陸奥は神奈川県知事(県令)を短期間ながら務めている。陸奥自身は「多少県制改革等の事ありたれども、茲に特記する程の要なし」と述べているが、有能な人材を登用し、日本全国に先がけて警察制度の創設や船舶調査の実施を成し遂げ、指導力を大いに発揮したといわれている。

日清戦争とそれに続く大国からの干渉、それらへの打開・奔走。
我が国が近代国家として主権を回復し、19世紀の欧米列強がひしめく国際社会の仲間入りを果たしたその立役者の『陸奥宗光』。
治外法権の撤廃と関税自主権の回復に尽力。


現代はというと、尖閣諸島等の問題や拉致問題駐留米軍にかかる諸問題、北の核ミサイル問題等、喫緊の課題に直面。

いずれも主権がおびやかされるというままに。


今こそ、先人の偉大さ、先見の明を再認識し、

近代日本の礎を築いたとき以上の声価を外交で期待します。

陸奥宗光没後120年に

 

政治家の皆さんへ

思うこと多し。

伊藤博文・サンフランシスコ

サンフランシスコでの歓迎行事では知事、市長ほか300人超の観衆を前に、堂々と英語でスピーチを行なった伊藤博文

 (わが国旗にある赤いマルは、もはや帝国を封ずる封蝋のように見えることなく、いままさに洋上に昇らんとする太陽を象徴し、わが日本が欧米文明の中原に向けて躍進する印であります)

 後に「日の丸演説」と評されるこのスピーチは万雷の拍手を受け鳴り止むことがなかったという。


新生日本の誕生を見事に世界に印象付けた
そのスピーチがされた日が明治四年(1871年)12月14日。

 

最近の大阪市とサンフランシスコでの一連のニュースもあり。

そのような歴史上の出来事のあったことをあらためて記してみました。

 

それと、伊藤博文に関しての誤解が多い中で、好著と呼ばれるものを。


伊藤之雄氏伝記「伊藤博文」(講談社
瀧井一博氏の「伊藤博文」(中公新書

あ・お・い・く・ま

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死は前よりもきたらずかねてうしろに迫れり

そういった「死」の表現を
身近に心筋梗塞とかの症例で亡くなったという話を聞くにつけ、あらためて、読み直してみることも。

たしか吉田兼好のはず。

 「死は前よりもきたらず」


  つまり、死は、前方から徐々に近づいてくるのではなく、

 「かねてうしろに迫れり」と。

 つまり、 背後からぽんと肩をたたかれ、不意に訪れるものだというわけである。


あらためて、読み直してみることも。


ピンピン、ころりは理想とするが、

 


逝くときはさっと、逝きたいもの。


しかし、そうはいっても、死にたいようには簡単には死なせてはくれない。

 


そして、死ぬにしても
楽しい思いをできるだけ、できるだけ味わって死にたいという気持ちも正直なところ。

そして、より楽しい、思いったって、ひとそれぞれに。

その願いが完結して終われるものでもないことを。


ちっぽけな、楽しみでよければ、そんなに苦労というか、苦闘もすることはないだろうし、


より、深く、より楽しい思いをと、求めていけば、それなりの覚悟と苦闘はつきものなのかもしれない。

まあ、それは理のあるところで、今までに多忙にして触れることも少なくしていた、古典からも、

自身の抱いていた感覚と合致するような、もって、瞑すべしというか、天命として受け入れるしかなかろうというところに

落ち着いていく。早合点の人はこれを諦めの護符のように。

そうではなくて、一皮むけるような挑戦があってということ。人と人、社会との係わりの中でというところが、やはり、観心なところかと。

仏のいうところの、世間と出世間と、それから、また世間と。娑婆即寂光。

ものまねで、お笑い界のコロッケが紹介していた、家訓、思い出しています。今やお笑い界のエンタテイナー。

常に前を向いてこられたのはこの母の教えがあったからと。と明かされていた言葉。


「あせるな、おこるな、いばるな、くさるな、まけるな」頭の文字をとって「あおいくま」――と覚えてきたんだとか。

究極のところ、笑いを絶やさず、常に前を向いていれば、、悔いはなく。

という、これに尽きるのではと。

名古屋の魅力・徳川宗春

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友人のさそいと案内で、名古屋めし名物、矢場とん本店の鉄板焼きとんかつ定食を。

以前に和歌山から訪ねる。

肉質といい、味噌カツソース味も絶品でした。それから大須・万松寺商店街を歩く。
商店街の最終は「宗春爛漫」というからくり人形があるところにぶらりとたどり着くといった按配。
11時、13時、15時、17時と上演時間が示されていて、ちょうどタイミングよく始まる前。上演は6分間ぐらいのものでしたが、
なかなかの歴史、いいものに出会えたという感じでした。

 


そのこともあって、その後もTVでの歴史番組あるたびに、宗春への関心も自然とむいていました。

名古屋のファンです。名古屋というか、中部地方全域の。
宗春とは尾張七藩主の徳川宗春のことで、当時のほとんどの大名や旗本が幕閣が主導する倹約・緊縮財政に追従していた中、
ただ一人、幕閣の政策と反対の政策、積極経済政策をとった大名。当時は享保の改革という倹約・緊縮財政で徹底した管理体制が敷かれ、祭礼式典の簡素化や花街や芝居などの規制をし、
庶民の生活よりも幕藩体制財政再建や立て直しを最優先にした結果、日本各地で飢饉と重税による一揆が続発していた。
宗春はそれら将軍吉宗の倹約令を無視し、芸能・消費を奨励し、江戸や大坂から芸人、商人を集め、芝居小屋や飲食店を建ち並べ、
将軍からのお咎めも受けるが、宗春は自分の政治理念のもとに庶民の側に立った政治を続け、名古屋の街を一気に発展させることを考え続けた。
後にそれがこの大須の発展の元になっているのでしょう。


天下の名君と名高い徳川8代将軍吉宗に抗い続け、遂に逆賊扱いされた尾張中納言宗春の物語。それが主流でしょうが、
どちらが経済的政策として効率がいいか。自分は宗春は再評価たるべき人間であると考えます。まさに「名君」
幕府のみを考え「天下」一律の倹約政策しかとれない吉宗に対して、しかもそのなかにあって、地域密着型の積極財政政策をとれた宗春に軍配をあげたい。


タモリのNHKの番組、ブラタモリ。ロケの予定に入れて欲しいのは、

岐阜まで行ってますから、続いて、期待したいのは、名古屋、大須商店街あたり。

希望します。

全国の中では一番元気なところがこのエリアのような気がしています。

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