トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。(和歌山県)

コーヒーメーカー

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ながらく調子よく使っていたのが、突然液漏れの故障。大事に喜んで使っていたのに、こりゃ大変、修理に出さなきゃ。
 壊れたのはプレゼントされたコーヒーメーカー。親へのサプライズのつもりもあったろう、社会人になった息子からの感謝の気持ちの込められた品なのだ。
 。贈り物の包み紙で、販売店がわかる。問い合わせしてみたところ、直させてもらいますと引き取りに。メーカーから三日後に直って届いたのだった。保証書、大事ですよね。3点ばかり交換された明細とともに。修理費、無料。いただきませんと、全面サービス。こりゃ助かる。
 顧客満足デロンギ・ジャパンさん。ありがとう。
 

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拝啓、小野田少尉殿

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終戦から27年もたって、まだ戦い続けている日本兵がいたことを覚えているだろうか。小野田さんが24歳の日本人青年と遭遇し、生還するのはその撃ち合いがあってから1年半後の昭和49年(1974年)3月のことである。小野田少尉は何故、鈴木青年に心を開いたのだろうか。遭遇してしまったときの青年の天真爛漫な「いや、単なる旅行者です」と身の上を述べる一言の落差がかえってよかったのか。しかし言葉どおり受け取るほどまさか、あのようなジャングルで。街中で何となくすれ違ったという状況ではないのだ。疑念を払拭させていったのはもっと、もっと、対峙した瞬間に表れた鈴木青年の表情のなかにあるなにかだったのだろうと。⇒

 


りんくうタウン、休日の待ち合わせの時間、早目に購入して読み終えた一冊(大放浪、小野田少尉発見の旅・朝日文庫)から。
(備考)1972(昭和47)年10月20日。「フィリピン・ルバング島で19日朝、警官が元日本兵らしい二人を発見、撃ち合いになり、一人を射殺、他の一人は負傷して山中に逃げた。東京・八王子出身の小塚金七元一等兵と和歌山出身の小野田寛郎元少尉らしい」(厚生省援護局)。
 「君はだれの命令を受けて来たのか」と詰問する小野田少尉
 「いや、単なる旅行者です」。

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続けて著作から~
(出会って間もないが、僕は小野田さんという人が好きになっていた。その人に迷惑をかけるようなことはしたくない。とにかく終始、小野田さんは沈黙していた。僕も押し黙った。やがて小野田さんが、「キミはなんという名前なのか」と。そういえばまだ名前を名乗っていなかったことに気付く。話題を変えたことで、重苦しい空気がホッとゆるんだ。(中略)闇の中でも、小野田さんの顔がギョッとしてこちらに向いたのが、ハッキリとわかった。僕はそれから、日中復交のイキサツ、日本はどうして台湾と断交せねばならなかったのかという疑問をくわしく述べた。「僕としては、中国ともう一度断交しろなどというつもりはない。しかし、台湾とも国交を回復しろ、そういう気持ちなんです」小野田さんは黙って聞いている。話をしながらも、いま僕のやろうとしたことは、(中略)じつをいうと、小野田さんあんたを政治的に使うつもりでいたことを。そして、小野田さんがギョッとして振り向いた瞬間に、僕は自分の先の考えを撤回していたような気がした。卑怯なまねはできない。・・・・)

読んでみて、すこし上の世代とはいえ年齢ではそう変わらないそういう青年がいたんだということに改めて考えさせられたのだ。発見救出を単なる、物好きの成れの果て、偶然さという風に捉える人もあるかもしれない。しかし、こうも考えられはしまいか。小野田少尉からみて、天真爛漫の青年のどうしようもない安心感。これにまいったのではないのかと。青年の問いかけは小野田個人にしているのではないことを。小野田個人へというよりは日本軍人にだ。朴訥とはいえ、青年から発するのはあくまでも日本軍人の対面までを慮って、出てき易いように精一杯の知恵を搾り出そうとしているかのような、考え抜かれた一言一言なのだ。戦争を想像したってわからない、でも大変なイクサを乗り越えて、とにかく生き延びてこられた方なんだという、ある意味先輩に対する謙譲の美徳が端々に。そういう精神の持ち主でもあったからこそ少尉は心をひらいたのではあるまいか。一年数ヶ月前の救出劇のアクシデントというが、戦友小塚一等兵の死は、小野田少尉にとってはまだ、戦争は終わってやいなかったのだから。冒険家=天真爛漫な自由人・そのようにくくられがちなところのあるなかで、たしかに読んでみると自由奔放な旅行記でもあるので多少、辟易してしまう部分もあるのだが、やはり旅行記の愁眉は小野田少尉と遭遇を果たした彼のたぐい稀な飾らない気質と人懐こさが伺えるところだった。「僕は小野田寛朗さんに発見された青年です。」と自虐的ジョークを発している姿も浮かぶ。平成の青年、比して鈴木青年と同年代のおかれている状況はどうだろう。昨今の川柳が時代を多少反映しているとみるなら、このような雰囲気、自分も思わずわらったりしてしまったがよくひねられているなあと感ずるものを列記してみただけでもこのような川柳が。(組織力 なでしこ並の 妻娘)(KARAブーム おれの財布も からブーム)等々
これはまだ微笑ましいのだが。(エコ給与 ハイブリッドな 仕事量。)(「内定です」 返った言葉が 「マジッスカ!」)とくると笑ってばかりもいられない。政治も成長戦略がなければ、経済が縮小均衡、均衡ならまだいいが、泥をかぶらないという風潮も蔓延してくれば、お互いが責任を取らされないようにと、仕事もあんまりしないのに社内遊泳術だけは敏感に。チマチマとした社会。お互いがギスギスの社会になってゆけば若者も浮かばれまい。天真爛漫にはいかなくとも、例えば同じ自虐的トーンにしても心の底から笑える、そういった、少しでもそういう兆しを見つけていきたいものだとも。ちなみに小野田少尉を見つけた発見者の鈴木青年はその後も破天荒な冒険家として雪男を探しに行くと出かけ1987年雪山ダウダギリで遭難され、帰らぬ人に(38歳)。関連キーワード/『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月/たった一人の30年戦争・小野田寛郎著。関連動画_小野田寛郎/1_8 youtube 

 

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古本物色リスト

宮家邦彦・佐藤優の評論を主に、安く手に入ればと。

 

 

●『佐藤優の沖縄評論』(光文社知恵の森文庫))
●『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)
   ※第59回毎日出版文化賞特別賞
●『自壊する帝国』(新潮社)
 ※第5回新潮ドキュメント賞および第38回大宅壮一ノンフィクション賞
●『日米開戦の真実 大川周明著「米英東亜侵略史」を読み解く』(小学館)
●『獄中記』(岩波書店)
●『国家と神とマルクス自由主義保守主義者」かく語りき』(太陽企画出版)
●『国家論 日本社会をどう強化するか』(NHKブックス)
●『神学部とは何か 非キリスト教徒にとっての神学入門』(新教出版社)
●『沖縄・久米島から日本国家を読み解く』(小学館
●『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』(NHK出版新書)
●『はじめての宗教論 左巻 ナショナリズムと神学』(NHK出版新書)
●『日本国家の神髄 禁書「国体の本義」を読み解く』(扶桑社)
●『この国を壊す者へ』(徳間書店
●『外務省に告ぐ』(新潮社)
●『国家の「罪と罰」』(小学館
●『人間の叡智』(文春新書)
●『国境のインテリジェンス』(徳間書店
●『地球時代の哲学 池田・トインビー対談を読み解く』(潮出版社
●『宗教改革の物語 近代、民族、国家の起源』(KADOKAWA)
●『創価学会と平和主義』(朝日新書、2014)
●『神学の思考 キリスト教とは何か』(平凡社、2015)
●『危機を克服する教養』(角川書店、2015)
●『希望の資本論』(朝日新聞出版、2015)/共著:池上彰
●『同志社大学神学部 私はいかに学び、考え、議論したか』(光文社新書、2015)
● 『「池田大作 大学講演」を読み解く 世界宗教の条件』(潮出版社、2015)
●『資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ』(NHK出版新書、2016)
●『使える地政学 日本の大問題を読み解く』(朝日新聞出版、2016)
●『資本論の核心 純粋な資本主義を考える』(角川新書、2016)
●『現代に生きる信仰告白 改革派教会の伝統と神学』(キリスト新聞社、2016)
●『君たちが知っておくべきこと 未来のエリートとの対話』(新潮社、2016))
●『インテリジェンス―武器なき戦争』(幻冬舎新書、2006)/共著:手嶋龍一
●『ロシア闇と魂の国家』( 文春新書、2008)/対談:亀山郁夫
●『知の超人対談 岡本行夫佐藤優の「世界を斬る」』(産経新聞出版、2009)/ 共著:岡本行夫
● 『徹底討論沖縄の未来』(芙蓉書房出版、2010)/共著:大田昌秀、沖縄大学地域研究所・編
●『聖書を読む』(文藝春秋、2013)/共著:中村うさぎ
●『賢者の戦略』(新潮新書、2014)/共著:手嶋龍一
●『反知性主義ファシズム』(金曜日、2015)/共著:斎藤環
●『崩れゆく世界 生き延びる知恵』(キャップス、2015)/共著:副島隆
●『国家のエゴ』(朝日新書、2015)/共著:姜尚中
●『政治って何だ!? - いまこそ、マックス・ウェーバー『職業としての政治』に学ぶ-』(ワニブックスPLUS新書、2015)/共著:石川知裕
●『大世界史 現代を生きぬく最強の教科書』(文春新書、2015)/共著:池上彰
●『創価学会を語る』(第三文明社、2015)/共著:松岡幹夫
●『小学校社会科の教科書で、政治の知識をいっきに身につける』(東洋経済新報、2015)/共著:井戸まさえ
● 『竹中先生、これからの「世界経済」について本音を話していいですか』(ワニブックス、2016)/共著:竹中平蔵
●『世界史の大転換 常識が通じない時代の読み方』(PHP新書、2016)/共著:宮家邦彦
●『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』(東洋経済新報社、2016)/共著:山岸良二
●『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』(東洋経済新報社、2016)/共著:山岸良二
●『21世紀の戦争論 昭和史から考える』(文春新書、2016)/共著:半藤一利
●『世界史の大転換 常識が通じない時代の読み方』(PHP新書、2016)/共著:宮家邦彦
●『新・リーダー論 ~大格差時代のインテリジェンス~』(文春新書、2016)/共著:池上彰
● 『いま、公明党が考えていること』(潮新書、2016)/共著:山口那津男
● 『トランプは世界をどう変えるか?』(朝日新書、2016.12.26)/共著:エマニュエル・トッド
●『右肩下がりの君たちへ』(ぴあ、2016)/共著:津田大介、ほか

厥(そ)の美(び)を済(な)せるは

ワインを愛し農園を守って、三人の姉妹を育ててくれた温厚な両親。末娘のわがままを聞き入れ日本にまで留学させてくれた両親。朝早くから大地の息吹と共に寝起きしてきた両親。父、母がシモンにとってのまず大きな教育環境だった。両親のひどく驚いたのは我が娘の行政マンとの結婚とそれからの破局。離婚後は温かく静かに見守ってくれた父。生計のほうも農業とて市場経済の動向と無縁ではなかった。米国を含む各国の農業補助金政策に対する干渉が続くなかで農民が役所に放火するなど、デモもエスカレートしていった。「親父さん。みなと一緒にくり出さないのかい。」近隣のさそいに、一人留まった父。父が出くわすかもわからない別れた夫との対決になりはしないかとの気まずい不安。「私のことはいいの。遠慮はいらないわ。」シモンは思った。デモから何日かして、不耕作地に対する税金の見直し、農家の社会保険の分割払いや、近代化、後継者育成への貸し付け制度が発表された。農民はこれでも不十分だと怒ってさらに騒ぎ立てようとしたが、その農政のこまごました修正にも元夫が少なからず汗をかいていることを想像していたシモンだった。「シモン、元気でいるかい」「身体は大丈夫かい」だから父は日本での再婚をとても喜んでくれた。私が日本に勉学にやって来たとき昭和天皇が亡くなられて大喪の礼に遭遇することになった。母国フランスではくすぶっていた教育問題が再燃し、荒れた教育現場もまた爆発するか、静寂にもどるのかの微妙な緊張をはらんでいた。「高校生のデモが成功したのは政治家が次の選挙をきにしているからですよ」両親はそうつぶやいていた。大学改革法案反対のプラカードでバスチューユ広場が埋まることはかつてないことだった。ジョスパン教育相とミッテラン大統領はエリゼ宮殿に高校生代表20名を招いて向き合っていた。その後、即位の礼で訪日していたロカール首相は帰国するや、45億フラン(約1000億)の緊急対策を打ち出している。後輩の高校生が提起したことはフランスの国民がかかえる全体の問題でもあった。将来の職業選択の不安、進級できなくて退学してゆく生徒の増加。留年の増加。半数の生徒がカリキュラムについていけないという不満をもっていた。高校生が突きつけた問題は大学にもあてはまる問題だった。選別強化と競争はエッフェル塔のように階層社会をイメージする若者でふくれあがりつつあった。高さと落差と登りにくさをそれにみたてた表現でピラミッド型よりはしまつの悪い、とはよくいったものだった。はたして教育は望む方向にむかっただろうか。それに、それは日本にきたときも思ったが政治家も学生も、五十歩百歩で、世の不平、不満の草刈場が教育問題だった。教育がなってないからというが、いずれの国からもその教育の理想を耳にすることはなかった。留学以来のふたたびの日本。父からは「カセムと一度、フランスに帰国することはないのかい」さらに「お金はあるかい」と。温かい家族のぬくもり。これが自然のものだと。日本で出遭ったイラク国籍のカセムについても、シモンは自分と同じように考えていたきらいがあることに気付くのだった。隣で寝ていたカセムが夢にうなされるようにして朝早く、飛び起きることがあった。あのアルカイダ疑惑で刑事らしき訪問を受けた翌日のことだ。「主人は出て行って居りません」その夜は、きっとカセムにとっては長いものだったに違いない。「また来ると言っていたかい」寝る前のカセムの言葉。「いつとは、聞いても言ってくれなかったわ」「・・・」沈黙。私は彼の真の援軍であっただろうか。シモンは自問自答した。彼の生い立ちはシモンの頭の中で整理されてはいたのに、血となり肉とはなっていなかったのだ。消化されることのない彼に在る戦争の影はシモンを発奮させた。彼が取り組もうとしている平和への模索と、そこにたどり着いた日本の魅力について。シモンも関心と縁がないわけではなかったからだ。そうはいってもあの時はなぜ夫の不安に理解を示せず、自分の不安ばかりを優先させたのだろう。シモンはカセムがひょっとしてアルカイダのメンバーではないかと疑ってみたことがなかったかと問われれば真っ向から否定できないからだった。この人と一緒になったことは間違いではなかったか。間違いない、と言えるだろうか。そればかりを考えていた。彼は故国では有識階級かもしれないが湾岸戦争以後その国の国際的信用も落魄している。彼は国にもどればしかるべき進路が用意されていると言っていた。米国の圧力と国際社会の非難が続く中でその話をカセムが持ち出すこともなくなって久しい。カセムの飲食業も仮の姿で、隠されたカセムの本来の任務はイラク政権と駐在イラク大使に操られているだけではないのか。そんなこともふとかんがえてみたシモンだった。9・11のアメリカのテロをきっかけとするイスラム社会に対する偏見は米国でもアジアでも同じだった。日本ではまだ、少数であるだけに目立たないというだけであった。同じ外国人でもシモンに向ける眼とカセムに向ける日本人の眼は違ったし、そのことまであの時は深刻に受け止めていなかった。当時カセムには友人、渡辺がいたし、今ではUがいる。夜にうなされるほどの彼の不安の中身に彼の深い孤独感を意識はしなかったのだ。彼の身になって考えれば、もっともっと、あの時見えてたことも、わかったこともあるだろうにと。振り返って東京での渋谷、新宿、歌舞伎町はふたりの受け取り方も違ったに違いない。夏は一緒にアイスクリームをほうばりながらカラフルな若者の衣装に関心をしめしたり、お互いの趣味を、色彩に味覚に臭覚にとあらゆる五感を動員して論じたものだ。でも、今から考えれば、私が心から笑ったように、カセムは心から笑っただろうか。私の幸せはそんなささやかなものが大事でたまらなかったはずだ。でもカセムは違ったのではないだろうか。シモンは彼が語る歴史と、自ら古書店で手にしたある報道写真家の写真から過去のイラン・イラク戦争の本当の姿、被害をみて考えを改めるに至った。彼は楽しい喧騒の街なかにいるほど孤独を感じていたに違いない。子ども連れのニューファミリーに出会えば、イラクで同じ年恰好の赤ん坊を殺された夫婦の悲哀を思い出したかもしれないし、女子高校生らしき少女がはすっ葉な言葉で男子学生にくってかかる姿をみては自由というものの定義について幅を広くしていたかもしれない。酔っ払いの喧嘩にでくわせば、満足に食事もとらずに、震えながら爆撃機の通り過ぎるのを肩を寄せ合っていた多くのイラク家庭の夕飯時を思い出していたかもしれないのだ。そこまで細かなことは語らないカセム。しかし、それが実態ではなかったか。たった一言、なんかの拍子に「君は戦争を知らない」と。それは戦争の怖さは頭では理解できないさ。とシモンには聞こえるのだった。「経験しなければ、解らないというなら不幸が続くだけじゃない」シモンは言葉にしようもない言葉を彼の背中に投げつけるのだった。カセムの机の上には日・ア(アラビヤ語)辞典が必ずのっている。手にとって眺めると川崎寅雄という人が編纂したものであることが記されていた。
シモンにむかってカセムがかつてつぶやいた言葉を思い出す。アラブ諸国とアラブ文化に造詣の深い中近東史専門の日本人がいると。その言葉を思い出した途端、フランス人でありながら(この最新日・ア辞典ってアラブに遠い日本で、川崎さんってどんな気持ちで苦労しながらこの辞典を編纂したことでしょう。)という気持ちが湧き上がってきたのだった。とにかく、ふたりとも日本語には不自由しない。おまけに漢字のほうも書道教室でめきめき実力をつけている。そのうえに、辞典は最良の違う文化圏をつなぐ橋でもあったのだ。
 (素材文献)フランスの教育環境に関しては『フランスの憂鬱』岩波新書を創作の素材に。

関連Myブログ記事ー大都会の砂漠ートトヤン


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大都会の砂漠

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絵画展をキッカケにふたりのデートは鎌倉の大仏見学、浅草あたりまでの海上バスでの舟遊び、東京ハンズでのショッピング。渋谷、新宿でのミュージカル観劇と。その後飽きずに何度も行ったのは神田界隈の古本屋廻り。「シモン、これ読んでみないか。」差し出されたのは大佛次郎著『パナマ事件』だった。「オサラギ・ジロウ?」   ときに話題は中東全体におよぶことも。ふたりとも日本語で考え、日本語で語ることがすでに自然になっていた。ナセル主義を継承しようとしたサダムが暗殺され、近くはイスラエルのラビン首相の死。「流血と涙はもうこれで終わりにしよう」とラビンが呼びかければ、「世紀の受難の終わりの始まりにしたい」とアラファトが応じたのだった。あの感動的なシーンからまた逆戻りの受難の様相が中東全体を包んでいる。かつてスエズ運河国有化をナセルが決めてから、フランス・イギリスが怒って軍を差し向けたことを思い起こしている。カセムの信望するナセルの一番追い出したい西欧列強はシモンの母国フランスでもあったわけなのだ。だから「西欧列強と闘った日本」。これがカセムの日本にあこがれた理由のひとつでもあっただろうと。国内でのクルドの現実を見せ付けられ、それがためでか虚無的に見える一方で、人びとを結び付けようとする汎アラブ主義のナセルを密かに慕う少年だったことも見えてくる。シモンのみるカセムの取り巻きのイラク青年はよそよそしい。打ち解けた印象ではない。一切の政治的発言もしなければ、そういった話題がでようとすると避けるきらいがあった。料理のレシピづくりを手伝う姿も本来の仕事のかたわらでとにかく稼がなければという感じだった。今から考えればそういった反応も理解できるシモンでもあった。日本に来てからも、どういった拍子の発言が独裁政権のほうでどう捉えられるかわかったもんじゃないという彼らなりの防衛本能も働いていたのではないだろうかと。カセムの友人関係にもっと眼を凝らす。その点、カセムの住んでいた上の階の友人、Uとかその前の住人の渡辺なんかはフランクだった。「尊敬すべきメソポタミヤ文明を背景にもつカセムさん、カセムさん。ちょっとお尋ねしますよ」とか、「カセムさん。今、僕の友人たちとお茶会してるんだけれど、仲間にはいらない」とか、たちまちにして、カセムが彼らに惹かれた理由もうなずけるのだった。それまでのカセムは多分日本に憧れてきたものの、そういう日本人には出くわしてはいなかったろうと思うのだった。せかせかしたビジネスマン。ひっきりなしに出入りする地下鉄。高層ビルと消費社会。関心事は個人の損得勘定に収斂され、ただただ石油文明の恩恵にあずかりながら中東の文化に無関心な人を見るばかりの日本。そういう日々ではなかったかと。シモンはカセムがもうもどるべき故郷のなくなっているという現実に目をこらしていた。彼の能力は何に使ってゆくというのだろうか。都市工学。勉学の意味。最近の歴史懐古趣味。日本礼賛。彼の父はイ・イ戦争を有利に導くための関係国づくりの相手でもあったフランスへの遊学を勧めたらしいが、彼の選んだのは日本だった。有利な武器を運んでくれるのはフランスであって、日本ではない。しかし、日本は中東地域から一番石油を買い上げてくれる国でもあった。戦後の目覚しい戦勝国をもおびやかすその日本の国力の復興ぶりと勤勉で慎ましやかな眼差しはカセムの心の琴線にひびくなにかであっただろうと。

 「それより、シモン。ずっとこのところ、旅行らしき旅行もしてこなかったし、瀬戸内の方に行きたいのだけれど。どう?」「ほんと!うれしいわ。で、なぜ瀬戸内なの。」「実は瀬戸内にある大久野島というところにいってみたいんだよ。」シモンにとってそんなカセムからの提案は唐突で意外だった。シモンも気晴らしがしたかった。日本の地方をまだ知ってはいなかった二人。東京にずっといて東京から日本を判断して東京に住む住空間から人々の発するシグナルを共有していたきらいがあると常々感じていたからだ。「そう、肩肘はらないでくれよ。ユックリ、行って、じっくりみて帰ってきたいんだよ。」
 「カセム、スキよ。大好きよ。」シモンは旅支度にさっそく、何を着てゆこうかと頭の中は回転しだしていた。そもそも、アルカイダではないけれど、他国に潜伏しその国の信用を得るためにカメレオンになれるのがスパイだとしたら彼こそはそれではないかと疑ってみたこともあった。決して、彼が不誠実の人間ではないことはわかったが、シモンはカセムが誠実であればあるほど、その傾倒してゆく、彼自身の内面葛藤の内側のほうを知ってみたく、どうしても神学理論とか社会学の分析理解を引き合いに、なぜアジアに執着するのかを解明してみたくもあった。カセムはどちらかというと他のイスラム青年のような生活力はない。カセムがいいとこのお坊ちゃんであったのにくらべ、周りの彼らのほうはしぶとく、我慢強く、転んでもただでは起きないふてぶてしさがあった。取り巻きの彼らのほうはイスラム教は生活の糧であり、集まりは生活の互助組織であることはシモンの目からもあきらかであった。それを拒むカセムでもなかったが、もっと高位の精神性、哲学面のほうに飢えていたカセムであったので、好んでUとか渡辺とかが語る議論のほうに魅せられたのだろうと。カセムの言葉、「敬いこそすれ」にも表れているように思えるシモンだった。シモンの今までの理解ではキリスト教を改宗してイスラムに入るのがイスラム青年との付き合いの鉄則であり、彼が東洋の哲学に傾倒しだしていることがなにかの間違いではないかと思っていたからだ。シモンはカセムの気持ちをただ知りたいと思っていた。シモンの見つめてきたカセムの印象は様々に変形していく。よく考えれば自分には両親がまだ健在だが、カセムには亡くなっていない。戦争での父親の死亡の報せは日本で、それもかなりあとから知ったとのこと。彼にはもう戻るべき故郷はないといった雰囲気だ。もっともっと彼の孤独の深さを知りたいと願った。その原因はシモンからみてカセムの一種独特な特権階級に属していたところから派生するなにかであることに気付く。カセムの日本にやってきた当時の友人は同じイラク出身の出稼ぎ青年だったし、故郷をたまたま同じくする幼友達であったし、学友だった。彼は夏の休暇を通じて彼らの属している派遣先業の指示で清掃の仕事に就いたりしたこともあったという。学業のかたわら、日本の就業慣行を肌で知ることのなかから日本との関係をまた世界を見つめるカセムであることを知る。だから、シモンのカセム像は知らない事実を加えることによって多少は変化してゆくのだった。カセムにとっての同じイラクの友人のもの足りなさの理由もすこしく想像できるのだった。カセムの前では取り繕ったように故国に対する忠誠的言辞をあえて証明するかのように述べる彼ら。カセムの父が当時独裁的国家に多少とも連なる特殊なテクノクラートだからだろうか、カセムのほうでは周辺でのそんな迎合の仕方に比例するかのように落ち込んでいくのだった。人間的な真の対話はどこに。
 彼がいつか告白した独り身の頃の話。思い出す。まだ店をもつ前の頃のこと。仲間の語らい「カセム。東京のどこにも故国をおもわせるような景色はないな。」「そうだな。そのとおりだな。」カセムはそうつぶやきながら仲間にまじって身体をうごかしていたという。カセムは屈強な彼等とちがって、力仕事は慣れなかったはず。常磐線南千住駅から山谷。仕事は建設現場でのコンクリート仕事と穴掘りと雑役、片付け。手配司を囲んで何人かの顔見知りもできた週末は、みなそれぞれにひとかどの個性の持ち主であることを認識したという。宿でのことと日中のことが交互に織り成すように語られてもいた。仕事における知識や能力の欠如が見いだされると、多くの山谷住人は決して見逃さず、相手を小ばかにし、「そんなことも知らないのか」というのが常だったらしい。世の中、常に自分に訪れた他人に対する優越性を事あるごとに確認しないではいられないという人もある。他人から、尊敬や羨望を受けたことのない裏返しでもあるかのように。露骨にそれらの態度を示されるとカセムのほうもさどかし辟易だっただろうと。ギャンブル好きの人。巨人ファンの野球好きの人。政治好きの人。話題はそれぞれ。さしづめ、カセムは皆から、なにをかんがえているか解らないやつだぐらいは思われていたかもしれない。日本人の大半は労働センター常連組。外国人であることが一見してわかるカセムらは正面から求職するわけにはいかない。手配司がかなりフトコロをあたたかくしたようにみえたのは大企業も安い労働力を求めて外国人就労者に頼る傾向に加速度を増した結果なのだろうかと分析めいたことを。イラク青年はおしなべて差別や偏見のなかで暮らしている。カセムは父のスネをかじって日本に来たが、同郷の彼らは爪に火を灯すような生活をしながらまだ、故国に仕送りまでしていたのだ。彼はいった。俺はわずかの期間だが、彼らはいつまでも続くのだろうと。そう思うと傷だらけになった手。作業中にしてしまった火傷の痕などをみながら、現場で投げつけられた言葉を思い出すといっていた。「代わりならいくらだってあるんだぜ。」でもそのときカセムは新しい住まいで出会った学生渡辺の言葉を想起したという。「偉大なあのメソポタミア文明を背景に持つ国から来られたということですよね。カセムさん」彼がこの言葉をくれたのだと。最大の激励ではないのか。異国でのたったひと言が励ましになっている。そういう励ましの言葉をくれた彼らを裏切ることはしないようにしよう。そう誓ったという。相手を尊重する姿勢がそのひと言にあらわれていることに間違いはなかったという告白。当時のふんばるカセムの姿を想像している。

ゆかりの人物(故郷編)

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 2020年は近い将来としては東京オリンピックが。1964年の過去の東京オリンピックには和歌山にゆかりのある人もその実現に貢献している。
 米国日系人でただひとり東京オリンピック準備招致委員会委員に選ばれ、東京オリンピック招致に奔走した日系二世の実業家、和田勇氏のことを。
ヨーロッパや中南米の国際オリンピック委員を自費で訪問、1964年の東京オリンピック開催実現に大きく貢献している。この方の父母は和歌山県の人だ。
 祖国へ、熱き心を―フレッド・和田勇物語〈高杉良)この物語は誰しもが感動したと思う。
そのほかにも、和歌山ゆかりの人といえば、同時代の活躍されてきた姿を拝見したことのある作家の(故)有吉佐和子さん。
まだまだ、たくさんの方の名前も知られてはいる。
最近では芸能界で活躍されている坂本冬美さん藤原紀香さん、小西博之さんなどが和歌山ゆかりの人として浮かぶが、地域の有名人、偉人といった観点でたどってみれば、企業人としてはパナソニック創始者松下幸之助氏がくるだろうか。
 
もっと時代をさかのぼれば徳川吉宗というところか。ゆかりの人に違いない。

さらには、科学雑誌「Nature」に日本人として初めて論文が掲載された天才南方熊楠(みなかたくまぐす)、世界で初めて麻酔手術を行った華岡青洲(はなおかせいしゅう)。
 不平等条約改正である治外法権の撤廃を成し遂げた陸奥宗光
アメリカのニューヨーク市民が等しくその死を悲しんだという和歌山県広川町出身の濱口梧陵(ごりょう)。和歌山県議会初代議長。
 英国の文豪ラフカディオ・ハーンは、氏を「A LIVING GOD」(生ける神)と評して世界に紹介され、「稲むらの火」は防災の象徴として認識されている。
 津波(ツナミ)の言葉が世界共通語になったのもそのときからかもしれない。

 

 

 

 

 

 故郷を離れて暮らす若い人にも、先人を、知り、誇りをもって、また、それぞれにある、今住んでいるところでの地域の先人に学んでいかれることを。