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トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、TV番組感想、政治への関心、家庭菜園のブログです。

クリスハート コンサート in和歌山

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GW、もう予定の決まっている場合も、そうでない場合も。

家族で過ごすことに決めている場合もそうでない場合も。

仕事の人も、Offの人も。

多忙な間隙の体験でこそ、思い出になるということはおおいに強調してもいいすぎることはない。

そういう意味では購入していたチケット。

4月30日のコンサートは印象に残している。

結婚、子供の誕生、クリスの実人生も歌の合間に披瀝され、

アメリカから日本に来て、日本国籍を取得されたことが語られていく。

 

よかったですよ。クリスハートin和歌山市民会館。47都道府県を巡るコンサートツアー。

なごり雪、私が生まれてきた訳。糸。数々のカバー曲も折り込まれた2時間半のステージ。

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高津子山・展望台

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和歌浦の小高い高津子山。ちょっとした散策コース。

派手さはないけれど、気に入っています。

花見には少々、早すぎたかな。まだつぼみ状態の桜でした。

でもここからの海の眺めは間違いなくすばらしい。

 

 

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街おこしイベント・孫市まつり2017

信長を脅かせた雑賀衆の甲冑行列。

そこに、老若男女のおもてなし精神をみました。

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大阪・長居植物園

ワーク・ライフ・バランス

都会の喧騒を離れて、大阪・長居公園の植物園に。

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忘れ得ぬ出会いと誓い。

 

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リバイバルの社会派作品から

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ニューヨーク生まれの社会派で有名な監督。そのデビュー作「十二人の怒れる男」は忘れがたい作品だった。
陪審員制度を題材にした12人の男たちが会話をしていく流れのもの、舞台は部屋から一歩も出ないものだった。これがサスペンスになるのか。
しかし会話だけでもサスペンスは醸し出せることを証明してみせたのだ。そういう意味でも稀有な名作。シンプルでありながらも、完璧で周到な作品。

先月末、改めて、懐かしくTVで視聴。

また邦画界の社会派作品といえば、木下恵介の作品を思い出す。

高峰秀子さんを亡くして久しいが、高峰さんをしのぶ追悼特集が近隣の府県の映画館で開かれていた。
彼女が最後に演じた映画作品「衝動殺人 息子よ」これも印象深い忘れがたい社会派の作品だったのだ。
若山富三郎高峰秀子の夫婦役の息もぴったしで高峰秀子の気丈の強さ、志を同じくする夫が死んだ後決意するシーン。
 ストーリーは犯罪被害者救済への道を開こうと国へむけてのその後の行動を追っていく。
被害者補償制度を法案にする奮闘中の実話を基にした作品と当時知る。
それだけに社会派映画といえば「十二人の~」に次いで、やはりこの木下恵介作品を思い出してしまうのだ。
方や裁判における人間のその無謬性を注意喚起し、冤罪を生みかねない局面のあることも気付かされる作品がルメット作品なら、木下作品の方は
犯罪に巻き込まれた被害者側の視点の作品。被害者は結句、天災として泣き寝入りする他ないのかという問いへ向き合おうとする作品なのだ。
主人公周三のモデルとなった市瀬朝一さんをはじめとする犯罪被害者遺族の方々の苦闘は佐藤秀郎氏のノンフィクション「衝動殺人」中公文庫にも詳細が。確かに読んだ。
そして本もそうだろうがこの映画の存在が、法案成立に何らかの役割を果たしたのも間違いのないところだろうと感じている。
少年犯罪も加えて、不可解な犯罪が社会不安として浮上してきた近年、この犯罪被害の問題、いわれのない犯罪で傷つき命を失った側の人権についてもようやく
マスコミも語ることが常態化してきた。一方で加害者の人権擁護ばかりが優先的に守られる構造、それもありつづけている。
30年前にすでにこの視点から映画を作り上げ問題提起した映画監督は他にあっただろうかと振り返っている。
息子を殺された父が全国を歩き回る場面を見て法律が出来上がるのがどれだけ難しいことかが肌身のように。
まったく落度のない犠牲者に比べ国の費用で弁護の特典をあたえられている犯人。
世の中のしくみや法律や進歩的と言われる立場の人間がどちらかというと加害者側の人権に軸足を置くのであれば、
自分の映画は最初から最後まで理不尽に踏みにじられた者の立場に添うていくのだ_そして社会人としての良識と善意、
そこから当然浮かび上がるまっとうな怒りと悲しみ、これこそを大事にしていくのだと_そういう木下監督の揺るぎなき意志が突きつけらていた。
映画パンフには当時の木下監督の言葉が。
(この悲惨な事実に激しい怒りを覚えるのは、現代社会に善を信じ、自分もまた善たらんとして生きる、総ての人のものだと思う。
私はこの作品を映画にしたいと思ったとき、「善人の戦い」「真人間の怒り」「善人は血の涙を流す」等の言葉が浮かんだ・・・)と。
事実主人公である市瀬さんは66年通り魔に最愛の息子さんの命を奪われ、悲しみを振り切るかのように「遺族会」(「犯罪による被害者補償制度を促進する会」)を結成し犯罪被害者補償を求める国会請願を、それから自らの工場をたたみ人生を賭けて
救済立法への運動に血の涙を流す苦闘をつづけていくのだ。「国を動かすには力が足りない」市瀬さんは大きな壁にぶち当り、呻吟していく。
ノンフィクション中公文庫のp206にはそこらあたりの実情として様々に助言も受けている。その一つに大谷実、同志社大学法学部教授という人名があった。(映画では加藤剛が教授役を演じていた)
(1966年ごろ、私は刑法改正問題に取り組む中で「通り魔」犯罪に注目し、殺人事件の被害者実態調査を行った結果、被害者遺族が経済的な救済を全く得られていないことが分かりました。そこを出発点に、犯罪被害者救済問題に関心を抱くようになりました。
英国で被害者補償の研究を学んだ後、被害者遺族に呼び掛け「犯罪による被害者補償制度を促進する会」を結成し、市民運動を展開しました。
74年8月に起きた三菱重工ビル爆破事件を機に、マスコミが犯罪被害者救済を大きく報じるようになり、その直後、市瀬朝一さんが訪ねてきたのです。)
佐藤秀郎氏の取材になる文庫の記述には他に協力者として学術界、法曹界にみならず、力になったとして四氏をあげておられる。
沖本泰幸(衆議院議員)服部信吾(横浜市議会議員)飯島尚幸(聖教新聞社外信部)高橋寛治(飯田市竜江公民館主事)
第075回国会 法務委員会 第29号(http://kokkai.ndl.go.jp/)国会会議録検索システムより市瀬朝一さんの発言を抜粋してみる
○市瀬参考人 私は横浜在住の市瀬朝一と申します。 
 私がなぜこの運動を始めたかということについてちょっと申し上げたいと思いますが、私は、たった一人の二十六歳のせがれを、
十九歳の、しかも少年院を出たり入ったりしておった人間に、うちのすぐそばの橋の上で刺し殺されたのでございます。

 

 

 


そうして、そのときはまだ息があったのですが、病院へ収容されまして二十時間後に息を引き取りました。
その息を引き取る寸前に、私の手をしっかり握りまして、「おやじ、くやしいから、かたきをとってね」と言って、その言葉を残して死んだのでございます。
私は、たった一人の、天にも地にもかけがえのない、二十六歳までも育てて、私の手足となって現場の方で働いておった人間に先立たれて、
もう生きる望みもなくなったのでございます。葬式も、本当に無我夢中のうちに、近所の方々の御親切によりまして終わり、初七日、四十九日になりましてようやく、
せがれがわが家からいなくなったという実感がわいてまいりまして、せがれの残したこの言葉を親として何とかかなえてやりたい、それが頭にいっぱいでございました。
そうして、九月の中旬になりまして、事件当時私宅へ時たまお見えになりました新聞社の記者の方から、あすはおたくの犯人の第一回の公判がありますよと教えていただきました。
どんな犯人がうちのせがれを殺したのか、顔を見るつもりで行ったのでございますが、初めて私は法廷というところへ行ったのでございます。
行ってみて、生と死というものに対して余りの区別のあるということを私はつくづく感じたのでございます。
死んだ者の方の遺族に対して一片の公判の通知さえもないのに、犯人には国選弁護人をつけられ、顔を見ればまるまると太った血色のいい顔をして、
人一人あやめたような顔もせずに薄ら笑いを浮かべている犯人を見まして、私は本当に腹が立ちました。
第二回目、第三回目と、本当に、長い廊下を看守に連れられてくるところを、横におって、横腹を、せがれと同じところをひとつ刺してかたきをとってやろうと思いましたが、
いろいろ考えるとそのこともできず、さてどうしたらこのせがれの言葉に対して親が報いてやれるかということを考えまして、
そうして十二月も押し詰まって、家内とともども相談いたしまして、終戦後二十一年間、私と同じような悲しみ、怒りを持った遺族の方が大ぜいいらっしゃるに違いないのに、
だれ一人この運動を始めようと思った人はないのです。よし、それだったら、この方々のためにも私はこれからの生きがいをこの運動にかけようと決心いたしました。
そして、明くる四十二年の一月十二日から家庭訪問を始めたのでございます。そして四十二年の六月四日に鶴見公会堂を借りまして、殺人犯罪撲滅推進遺族会
いうものを結成いたしました。そのときはまだ遺族の数は十三家族でございましたが、一般の方々も三百名以上お集まりいただきまして、来賓の方々も、
市長代理、県警、そして県会の方々、また民社党の門司亮先生等もおいでいただきまして、その当時はなかなか華々しくいったのでございますが、
何としてもこの運動はむずかしゅうごぎいまして、それでその年の十二月二十日ですか、六月ごろから皆さんの方に署名簿を郵送いたしまして、
皆さんから五十名、百名と署名をいただきまして、それを国会に請願いたしました。そのときは、東京におられる遺族の知り合いである自民党の濱野先生を
紹介人にお願いいたしまして、当時石井光次郎先生が議長だったかと思いますが、提出したのでございます。そして翌四十三年、
回答文が寄せられたのでございますが、一回ぐらいの署名、請願で私たちの思うことが通ろうとは毛頭思っておりませんでしたので、
それを手始めに何回か署名運動をやろうといたしましたが、いかんせん私たちは本当の素人でございまして、その様式すらわからないものでごぎいますし、
また、同じ文句では二度と受理いただけないということがわかりまして、そのままになりました。
それから後、私は関東一円、福島、岩手、山形、青森、秋田、新潟、山梨、長野、静岡、愛知、岐阜、これだけの間をせっせと歩き回りまして遺族の方々を
お訪ねしたのでございます。一家の御主人を亡くして、もう本当に惨めな家庭を私はこの目で見たり聞いたりしてきております。そうしたときに、
生きている犯人に対してはあれだけの恩典があるのに、何もしないのに殺された家庭に対して何の恩典もないというのは余りにも不公平ではないかと
いうことをつくづく感じたのでございます。ですが、なかなかこの運動も思うようにいかず、私も一、二度やめようと思ったこともございますが、
またそうした母子家庭の苦しい家庭のことを考えてみますと、もし私がこの運動をやめたら、だれがあとこの運動を続けてくれるだろうか、
何が何でもがんばらなければならないと心に誓いました。ですが、なかなかこの運動の壁も厚く困っていたやさき、
京都において大谷先生の肝いりで遺族会が誕生したという新聞記事を見まして、早速先生と連絡をとりまして、そして先生にお会いいたしまして、
合同いたして今日に至っております。その間、昨年十一月三十日には同志社大学学生会館におきまして近畿集会を開き、
そして本年二月二日には東京で関東甲信越集会を開きまして、そして六月一日には、私どもの運動の一環として、
大阪へ行きましてチラシなどを配布いたしてまいりましたが、初めてのことでなかなか思うような成果も上がりませんでした。
続いて十五日に東京渋谷で同じようにどうの配布をいたしました。そして、多少なりともカンパをいただけたらば、
それを母子家庭のお子さん方に分け与えてあげたい。金額は少なくとも、同じ同志の方々が街頭で募金されたその金を、
ぼくたち、私たちにくれたと思えば、そのお子さんたちがこれから成長していく過程においでどれだけためになるかということを考えてやったのですが、
世間の風は冷たく、東京から五名で行きまして往復電車賃が五万円、向こうでいただいたお金は八千円でございました。
東京ではやはり十何名の方々に手伝っていただきましてビラまきをしたのですが、そのときは三千三百円でございました。
このようではビラ代にも当たらないような始末でございまして、私たちの心持ちが遺児たちに通じないような結果になっておりますが、
今後は、私たちはこれに負けずに強力に運動を進めていきたいと思います。
そして、最後にお願いしたいのは、どうかこの立法を一日も早く成立さしていただきたいということでございます。
そうして、私たち十年選手、もっと古い方も会員の中におりますが、どうかこの適用範囲を大幅に広げていただいて、
せめて二十年ぐらいまではさかのぼって実施をお願いしたい、これがいまの私の切なるお願いでございます。どうかよろしくお願いいたします。(拍手)

 

市瀬は立法をみることなく亡くなられているが、給付金支給のみならず被害者家族配慮を旨としたいくつかの改革もこういった市瀬の闘いが先駆けとしてあったからであるだろうと。
リバイバル作品から、親しんだ木下恵介作品はじめ、そういったことを次々と想い出すのだ。


「関連追記」参議院第108回国会 本会議 第13号
 昭和六十二年五月二十五日(月曜日)

 

 

京奈和自動車道開通前

ウォーキング大会

 

京奈和自動車道「紀北西道路」が全線開通となることを記念してのウォーキング大会。
開通前の今しか歩くことができないウォーキングイベントに参加。

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老老介護

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「ときに、○○さん、お元気ですかねえ。」「ああ、また来るらしいですよ。ちょっと、用事で。」「へえ、そうですか。また、呼んでくださいよ。私も交えてどうですか。楽しい皆の話が聞けそうな、そんな予感がしていますよ。」
振り返る、新和歌の浦の景色。


遠くの親戚より、近くの他人という言葉があるように、ご老人にとってはkが近隣の人間では馬があったのだろう。
世代からいえば孫にあたるかもしれない。世代を超えて馬があう人間だったのかもしれない。
「夫婦そろって、同じ方向、そういう感じですなあ。」そう語りかけようとするご老人。
ご老人にとっては今が青春なのかもしれないのだ。
ご老人は元気で、健康というのが幸いして、人付き合いが苦にならないのだ。
頭もぼけていない。新聞も隅から隅まで、読む習慣が身についている。
芸能、スポーツ、政治、すべてにわたって好奇心もある。


ご老人のことを思い浮かべている。
友人kの近隣にいたご老人のことを。
できるだけご老人の側から眺めてみようと思う。
kのほうでは、ボランティアで、パントマイム、手品、短歌の交換会だったりの打ち合わせの接点が両者の会話のはじまり。
おじゃましたときに老後の幸せは?という番組などにふれるときが。
画面では、まだまだ老人とはいいがたい人たちが元気に語り合っている姿。「幸せって、それは老後のお金と、やはり、連れ添いがいることですね。老後の幸せ像です。」
そう語っている画面にむかって、「まあ、そうあれば、幸せだろうな。」とご老人。連れ添いも亡くなり、一人住まいの期間を経て、近くは、介護施設に。
ご老人かつては、介護施設を運営する側。
「孫のようなあなたたちから見れば、わたしたちのしていることは老老介護のような姿ですよねえ。」「いえいえ、すごいことだと思います。なにより、お元気だし、溌剌としていらっしゃる。お手本のようです。」
介護施設の運営をしてみませんかのニュースを耳にしての応募に名乗りをあげたのがきっかけという。老人なりの楽しみって決めつけられたメニューをならべられてもねえ。ご老人は多少気色ばんでいたかもしれない。チームを立ち上げるために走り回るなかで自身の体調不良。それまでの一人住まいの身から、自らも集団の介護施設の輪の中に。今度は自らも含めての過ごしやすい望みの空間はと思念が止めどなく続いていく。


ご老人の発言の断片。確かに聞いた。ちょうど時期でいうと、国内では佐川問題、金融疑獄が続いていたし、並行してPKO派遣論議もすすめられていた、ちょうど、そんなころのkとのはじまりだった。
なにげない世間話がいちおう済んで、ご老人のほうから。「それはお金は少ないより、多いにこしたことありませんよ。でもね、kさん。わたしなんか、そりゃ、年金で、いいたいこともありますよ。でもね、いいですよ。もっと思うのは、日本の外交ですよ。政府開発援助って、どこまで理想にかなったようにすすめられているんでしょうねって、そういうことなんですよ、思うのは。反日デモ。どう思われます。大使館があのように損壊されても、まあ、おくゆかしい日本であることよ。
出す以上国益にも叶った形で。どう思われます。私らは複雑なんですよ。中国と北朝鮮、どういう関係か、お互いに友好をときに披歴しあったりして。
日本はあの北朝鮮とどのような課題を抱えています。思いませんか。拉致問題。それに中国との交易、盛んになるのはいいとして。
なげかけられたkにしても自分にしても、中国関連では屈折した意識にあるのだった。
当時、ご老人、世間の話題もODAにからむ汚職問題もあってか、kにふってみたかったのだろうと。
ご老人の内面では様々な葛藤が繰り返されていたに違いない。
「官僚答弁、聞いたか、聞いていたら肝心のところでボケよるぞ。わからんか、君たちのほうが若いのにふところが深いんだなあ。」
ご老人の発言を簡単に解釈してみたりすると、知らない人などはかなりアナーキーなと誤解してしまうきらいもある。
これなどは自身が役人として生きた証のような発言で、皮膚感覚で役人の生態を戯画化してみせる、いわば彼の癖なのだ。
「昨今の、官僚たちのモラル・ハザード。一方バブル崩壊とともに露出した金融関係者の脆弱さ、同時に少年たちの猟奇的な殺人事件。あれはなんですか。オウム真理教信者の犯罪の数々。」これなどはご老人なりのするどい言説のひとつで、他にもこうだ。「責任ある政治家の不用意なというか、ときには確信的な発言が、近隣アジアとの摩擦を引き起こしている。その結果はというと、閣僚の引責辞任、歴代首相の謝罪。私らにとっちゃあ、割り切れなさをずっとずっと繰り返している。」戦争を経験してきたものと、自分らkらのように平和の只中に生きてきたものとの、それが違いではないか、というご老人なりの言いたいこと、それがそれ以外のことでも言外に含んでいるかのような。
「ああいうが踏絵みたいに、そもそも議員に選んだのは政策の実行だろが、参る、参らないを公約にするなんておかしすぎるんだ。そのような喧騒自体が英霊も迷惑。参る人は純粋に静かに参ったらいい」
ご老人、戦争をはさんで、多少、屈折しているかのような。集団への懐疑というか。敗戦をつうじて一旦はあいそつかした国。それでも、戦後の経済復興に社会の構成員として忠実な組織人ぶりを発揮してきたことだろうと推測。クラスメートの半分が戦死。
「わたしなんぞは、引き換えし不能な洞穴の中へ進撃を命じられたような戦だった。学徒兵」
この短い一言に集約されている内実を推し量っていこうとしている。それは等しく青年がむきあったであろう課題。日本、そして世界が大戦争へと向かっていく時代に精神形成期を迎え、戦争のさなかに国家とはなんぞやという命題にぶつかり、煩悶しながら戦場に赴かなければならなかった青年の思索。
その思索も年老いたとはいえ老人の内面ではつづいているようなのだ。
平和に対してなにか一言頂戴できませんかなどと、事前に頼みにいくkでもあったから、それ相応の老人の側としても興味が。
ご老人の観察は続いている。
ご老人の生きてきた人生のなかには信仰というものがあるとしたら、恒心なければ、恒心なしというモットーだろうか。
そういういいまわしが彼にとっての信仰というに近いものだったかもしれない。
kみたいな世代はどう将来を考え、なぜ、そのような触れ合いを。
古い世代の人間が、世の中、懐疑的にみつめるようでいて、若い世代のそれも合理主義者のkみたいなものがいたく楽観主義ですすんでいるようにみえて、それがたまらなく、老人にとっちゃ、また茶化したくなる、というふうであったかもしれないなあと。

 

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